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ガンプリシオの都市規模では、保安体制のしっかりしたホテルなどそう多くはない。
両者の宿泊場所は新館と本館の違いだけで、こんなに近くにいたのかとニッツフェンに渋い顔をされた。
五年ぶりにガンプリシオの街に浮かんだ月は、くっきりと丸く、鮮明な暈がかかっていた。
シティへの出発は明日の朝に決まった。時刻は既に夜半近く、行き交う人の数はごく少ない。それでもざわつくような不安感が漂っているように思えたのは、この街が抱く、先行きへの不安によるものだろうか。
ユラの護衛役として選ばれたのは、ログイットと年嵩の警護官だった。
自分で運ぶつもりだった荷物も取り上げられてしまったので、どうにも手持ち無沙汰だ。極めつけには沈黙が、手のうちようがないほど気詰まりなものになっていた。
往路はこれでも話しかけてみたのだ。だが、警護官は恐ろしく慇懃無礼でとりつく島がなかった。さらにひどいのはログイットだ。生返事ばかりで会話にならない。ろくに目を合わせようとしない。だというのに物言いたげな視線を送ってくる。ただでさえ堪え性のないユラは早々に匙を投げ、復路は往路にまして、ぴりぴりした無言のものとなっていた。
新しく取った部屋は本館の最上階だった。警備上の都合だろう、ニッツフェンたちが使っている部屋のすぐそこだ。
荷物を運び込み、部屋を後にしようとしたログイットの腕を掴み取り、ユラは警護官にお仕着せの笑顔を向けた。
「この人、ちょっと借りるわ。いいわよね?」
警護官は無表情のままユラを見たが、止めはしなかった。
困惑するログイットを奥の部屋に押し込む。凭れる形で扉を塞ぐと、ユラは腕を組んで眦をきつくした。
「さっきから何なのよ、その態度。言いたいことがあるなら言えばいいじゃない」
「……いや……」
「どうせ、危険だからやめろってお小言でしょ」
ログイットが息を詰め、虚を突かれたように眸を揺らした。
不可解な動揺だった。まるで、言われるまで思いもしなかったというような。
ユラは眉をひそめ、声のトーンを落とした。
「違うの?」
「いや……」
「相談もなしに決めたから、怒ってるとか?」
「……いや。君を守るのは、俺の勝手な意志だ。君が配慮する義務はない」
怒ってるじゃない、と内心でこぼした。
言いたくなる気持ちは理解できたのだが、ふと、違和感に気づいた。
ログイットが皮肉でこんな言い方をするだろうか。
何かがおかしい。何かが、致命的に噛み合っていないような気がしてならない。
うつむいた顔がよく見えない。熱でも計ってやろうかと伸ばした手が、音を立てて掴み取られた。
ユラは思わず身を竦めた。捕まった手は軽く引いても抜けず、ログイットの短いため息が、やけに響いて聞こえた。
「……どうして、そこまでするんだ」
「え?」
「君を逆恨みして襲ってくるような連中だぞ。そいつらを生かすために、どうして君が、わざわざ危険を冒すような真似をするんだ」
その声に非難めいたものを感じ取り、ユラはさらに眉根を寄せた。
「逆恨みじゃないわ。彼らにとって、私はまぎれもなく裏切り者だもの」
「……君は、正しいことをしたはずだ」
「正しければいいってものじゃないでしょ。……私、説得しなかったの。これはいけないことだなんて、やめようなんて一度も言わなかった。最初から、裏切るって決めてたからよ。リスクを嫌って、何食わぬ顔で仲間面して、黙って姿を消して、〈神殿〉に売り渡したの。……後悔するつもりはないし、復讐されてあげるつもりもないけど、憎まれる理由はあるわ」
「違う。それでも、君が憎まれるのは間違ってる。君が、負い目を感じる理由なんか……!」
ログイットは顔を上げない。押し込めようとしてできなかった激情に、心が動いた。
握られた手が少し痛かった。心配されることに慣れていないユラには、その痛切さを、どう受け止めればいいのか分からなかった。
迷ったあげく、苦い笑みを浮かべた。
逃げであり、ごまかしだった。
「……あなたの中の私って、びっくりするくらい善人みたい」
「ユラ」
「違うの。そんな綺麗な話じゃない。……ただ、無理だって思ったのよ」
ログイットの目が、探るようにユラを見た。
「あの人が死体の山を作るのも、あの人が誰かに殺されるのも、私はどっちも耐えられそうにない。どっちに転んでも、きっと私は、まともに生きていけなくなる。きっともう、笑えなくなる。……それだけよ。ただのわがままで他人を巻き込んでるだけ。美化するのは無理があるのよ」
「だけど、君は――」
「自己犠牲じゃないわ。……責任感は、少しあるかも。でも、ほとんどはただのわがままなのよ。……誰も死なないですんだら、ドクターの言うとおり、前を向ける気がする」
「……相手が、君の説得に耳を貸すと思うのか」
「勝算のない賭なんてしないわ」
先に目を逸らしたのは、ログイットの方だった。
ユラは慎重に、次の反応を待った。
彼の諦めが必ずしも納得を意味しないということは、ここに至ってさすがに理解している。だからこそ、不義理を承知でニッツフェンに話を持ちかけたのだ。力ずくでひっくり返されることがないように。
ログイットも、それは気づいているはずだった。
握られていた手がようやく放された。聞こえるか聞こえないかの掠れ声が、低く耳朶を打った。
「そんなに、大切なのか」
簡単には答えられない問いかけだった。
責めるような響きに、ユラが目を落とす。
「……どうかしら。正直、わからないわ。苦しいばっかりで」
「それでも、気持ちは変わらないんだな」
「そうね。私を守ろうなんて奇特な人間に、こうしてひどい仕打ちをするくらいにはね」
軽口に流そうとして失敗した。せめて逃げないようにと目を逸らさず、ログイットを見つめ返す。
「……ごめんなさい。でも、譲れない」
それ以上続けられる言葉はなかった。
立ち去ることもできないまま、沈黙が続く。
ユラはログイットの服を指で摘んで引っ張り、無言のまま彼の肩口に額を押し当てた。
驚くような、迷うような沈黙の後、ログイットの手がユラの背中にそっと触れた。
確信に近い予感があった。きっとこの先、ログイットがユラを守ろうとすればするほど、ユラは彼を警戒しなければならなくなる。だからこそ、彼の譲歩を引き出す必要があった。嫌気がさすほど、打算的な甘えだった。
慣れない感覚に涙が滲みそうになって唇を噛んだとき――不意に、扉が小さなノックを受けた。
「……ユラ……おきてる?」
舌っ足らずな声が扉越しに訊ねた。
とっさにログイットを突き飛ばしたユラは、出てこないでと手振りで示しながら慌てて扉を開けた。
果たしてそこに立っていたのは、枕を抱えたナイトドレス姿のお姫様だった。
「どうしたの、ティティ。目が覚めた?」
「おきたら、ユラがいなくって、さみしくなっちゃって……ごめんなさい」
「別に謝ることじゃないわよ。むしろ助かったっていうか……」
「え?」
「何でもないわ。おなかすいたんでしょ。ホットミルクでも飲んで、もう一回寝なさい。……眠れるまで、傍にいるから」
素直に頷くティティを確かめ、ユラはログイットを振り返った。
ひらりと手を振って返すログイットの顔は、いつもと何一つ変わらない、無害そうなものだった。
翌朝は、空に蓋をしたような曇天だった。
照射数値は晴天時よりも格段に落ちる。不幸中の幸いというものだろう。胸を撫で下ろす大人たちの中で、寝不足のティティは眠たげに目を擦っていた。今にも船を漕ぎだしそうな様子を見て、ログイットは抱っこを提案したのだが、首を振られてあえなく撃沈していた。
駅に向かう道すがら見た人々は、誰もが頭を布や帽子で覆い、傘を差し、身を屈めるようにして足早に歩いていた。駅には人が溢れかえっていた。押し掛けたその場所で、なかなか手に入らない切符を待っているのだ。焦燥と怯えと怒りをない交ぜにした顔は、どこか疲労感を漂わせていた。顔や手を炎症で赤くしているのは、多くが女性や子どもで、その光景の痛々しさを増していた。
幼い子どもには心の傷になりかねない光景だ。眠気もあってごねるティティにニッツフェンが有無を言わせずストールを被せ、視界を遮断して駅の中へと足を進めた。
列車は当然のように一等客室だった。権力を振りかざして確保するのが二等客席であるわけがないが、ユラには慣れない場所で居心地が悪い。
今にも目蓋がくっつきそうなティティがまずコンパートメントの中に入り、当たり前のようにユラの袖口を引っ張った。
王子様の皮肉が脳裏を過ぎったが、ここで振り払うほど悪人にはなれない。視線で助けを求めたユラに、ニッツフェンは冷ややかな色の目を伏せ、軽く肩を竦めただけだった。諦めろということらしい。
ユラがしぶしぶ扉をくぐったとき、後ろで陽気な声がした。
「うんうん、じゃあ私はこっちに入ろうかな」
機嫌良く告げた王子の後ろ首を、ニッツフェンがぞんざいに掴んだ。そのままずるずると引きずって、隣のコンパートメントに放り込む。
目を疑いながら見送り、ユラは唖然と呟いた。
「……あれ、曲がりなりにも王子様でしょ。あんな扱いでいいわけ?」
同じく硬直していたログイットが、驚いたようにユラを見た。
「聞いたのか?」
「勝手に喋ったのよ。聞きたくて聞いたわけじゃないわ」
「そうか……」
「何よ?」
「いや、何でもない」
含みのある口調にユラは顔をしかめたが、答えが返ってくることはなかった。
ログイットは備え付けのブランケットを取り出し、ユラに手渡した。
「ティティ、あまり眠れなかったみたいだから。少し眠らせてやってくれないか」
眠たげな瞬きをしていたティティが、急に目が覚めたように顔を上げた。
「ロギー君、どこ行くの?」
「大丈夫、すぐそこにいるよ。呼んだらすぐ聞こえる」
ティティは不満げに唇を曲げ、眉根を寄せて首を振った。
「だめよ。ロギー君はここにいなきゃ」
「えっ? い……いいのか?」
「だって、ユラはロギー君と一緒にいたいんだから。ロギー君が、かってにどっかにいっちゃだめなの。だからね、ここにいなきゃだめなの。わかる?」
「ちょっと、何言って……」
ぎょっとしたユラが否定しようとするが、視界の端に必死に拝んでくるログイットを見つけて声を詰まらせた。
――分かっている。ティティは意地を張りながらもログイットを引き留めたくて、ユラをだしに使ったのだ。ここは大人になって黙認してやるべきだ。
それでも認めたがらない衝動が喉を突き上げたが、ユラは手の平に顔を埋めることで、どうにかそれを飲み込んだ。
二人分の視線が突き刺さる。「好きにしたら」と返して横を向いたユラに、「恩に着るよ」と小声で言って、ログイットはティティの隣に席を取った。
ティティが唇を曲げて、ユラの隣を指さす。
「だめ、ロギー君はそっち」
「だってティティ、もう眠くなってるじゃないか。ユラによりかかったら、ユラが大変だぞ」
渋るティティに言い聞かせている様子は、若い父親に見えなくもない。手を焼いている辺りがそれらしいのだ。そんな二人を他人事として眺めるのは、そう悪くない気分だった。
ティティもなかなかに意地っ張りなところがあるようだったが、あっという間に眠気に負け、今はログイットの膝に頭を乗せて健やかな夢の中にいる。
現金なものだとユラが笑ったとき、不意にログイットと目があった。
その瞳の色に、新鮮さを覚えた。想像していた黒よりも青に近い。夜明けの群青だ。これまで明るいところで見たことはなかったので、思わずまじまじと見入っていると、ログイットが気付いて首を傾げた。
何でもないと返して、ユラは窓の外に目を向けた。
ガンプリシオを離れ、列車の窓を固く閉ざしていた鎧戸は既に上げられている。刈り取りを終えた田園が穏やかな光に包まれ、どこまでも続いているかのような錯覚を覚えた。
嘘のように平穏で、美しい景色だった。
「……目が痛くなりそう」
声に出たのは無意識で、ユラはばつが悪そうに身じろぎした。
ティティの頭を撫でながら、ログイットが少し笑う。
「そうだな。日光がこんなに明るいなんて、俺も今まで実感していなかった」
「そうね。街路灯の明かりは演色性が低いから、色がちゃんと判別できていなかったんだわ」
「それで、さっき見ていたのか」
「……まあ、そうね」
なんとなく気恥ずかしくなって言葉を濁すと、ログイットが首を傾げながら、ユラの顔を覗き込んだ。
「……何?」
「ユラの目、大体思っていたのと同じだ。気の強そうな紅茶色」
「一言余計よ」
むっとして顔を逸らしたユラに、ログイットが声を潜めて笑った。
シティは近いようで遠い。着いた頃には日が暮れ始めていた。
かつてガルフォールトの交通要所だったガンプリシオは、三十年前には鉄道の発達によって、そして五年前には魔工事故によってその機能を縮小し、このレジョン中央駅がガルフォールトの玄関口となっている。
初めて足を踏み入れる駅舎は、華やかで重厚な煉瓦造りだった。赤茶と白の対比が美しく数学的で、かつてこの国が手にしていた栄光を、今もまだ留めているかのようだ。
駅舎の天井を見上げていたユラが、ちらりと眉をひそめた。
ティティが目聡くそれに気づき、ユラの手を引く。
「どうしたの?」
「……何でもないわ」
笑みを見せたユラに、ティティが不安そうに小首を傾げる。
人混みでざわめく周囲を確かめ、ニッツフェンは疲労を伺わせない眼光で言った。
「私はこれから情報を集める。ログイット、お前は一度、ティティを連れて自宅に戻れ。明朝六時に私のオフィスに来い」
「わかった。……ニッツ、兄さんと話せるだろうか」
駄目で元々の頼みだった。ニッツフェンは顔をしかめたものの、肯定の頷きを返した。
「まあ、無理ではない。取り計らおう」
「ありがとう」
胸を撫で下ろすログイットを横目に、ユラはニッツフェンの後ろ姿に問いかけた。
「それで、私はどうすればいいの? 特に指定がないなら、自分で宿を取るけど」
「いや。警護の関係上、こちらと行動を共にして欲しい」
「わかったわ」
スーツケースを引こうとしたユラを引き留めたのは、またしてもティティだった。
とっさに腕に抱きついた少女を振り切ることもできず、ユラは苦り切って足を止めた。
「……ティティ……あのねえ」
「ユラ、おうちにきてくれないの?」
いつそんな話が決まったと言いたくなったが、潤んだ目で見上げられて、さすがにそれは口にできない。
言葉を選ぶ沈黙を見かね、ログイットがティティの肩に手を置いた。
「ティティ、わがまま言っちゃだめだ。ユラにはユラの都合があるんだから」
ユラの腕にしがみついたまま、ティティが頭を振る。
いつもの聞き分けの良い少女からは考えられない頑固さに、ログイットは戸惑いながら、咎める口調で呼びかけた。
「ティティ」
ぐっと唇を曲げ、ティティはうなだれてユラの腕を放した。
すっかり悄気てしまって幼子の姿に、空気が気まずいものになる。
「ごめんなさい……。ユラがいたら、あんしんできたから……それで……」
ユラは天井を仰いだ。これを断れるのは、よほど肝の据わった人間だ。
「……ああもう、わかったわよ。今日だけ泊まらせてもらうわ。これでいいでしょ?」
「ほんとう!?」
「まったく……ねえ、この子、将来とんでもない悪女になったりしない?」
話を振られたログイットはきょとんとするばかりだ。
これは騙される側の人間だと判断して話を切り上げ、ユラは出口に向かってスーツケースを引き始めた。