file-015

 フラットに戻ったのは宵の口だった。
 懐中時計の蓋を閉め、ユラは重いため息を吐く。久しぶりの人混みに酔ってしまったようで、喉に何かつかえたような息苦しさを感じた。
 荷物を抱えたログイットが、心配そうに眉を寄せて訊ねた。

「大丈夫か?」
「……平気。疲れただけ。……ドクターは出かけてるみたいだけど、仕事?」
「ああ、今日は夜勤だって――」
「そう」

 話を打ち切るような素っ気ない返事に、ログイットはいぶかしげな顔をした。
 態度を取り繕えていないことに気づいても、だからといって愛想を持ち出してみせるのは難しい。難しいどうこうよりも、不自然すぎる。
 結局、ユラは無言のまま扉の前までたどり着いた。自然な別れの挨拶に悩みながら鍵を開けたとき、不意に、ログイットが彼女を呼び止めた。
 まるで警告音のような鋭い響きに、ユラは驚いて振り返った。

「何?」
「いや……」

 言葉を濁すログイットの目に、妙な甘さは見当たらない。
 とっさに出た制止のようだが、それにしては強い口調だった。眉を顰め、違和感の正体を探しているような顔だ。

「何か気になることでもあるの?」
「……鍵は、かかっていたよな」
「当たり前じゃない。それって、どういう勘? 中に強盗でもいそうってこと?」
「いや、気のせいかもしれない。……気配とか物音とか、そういうのじゃないんだが……」
「うまく言えないけど、気になる?」
「……そう、だな」

 これが他の男なら、心配にかこつけて部屋に入るための、薄っぺらな嘘だと切り捨てただろう。
 ユラはとっくりとログイットの目を見上げ、言った。

「じゃあ、こういうのはどう? あなたが抱えているその荷物、中まで運んでもらうの」
「え?」
「対価にコーヒーくらい出すわ。ドクターが仕事なら、この後、時間あるでしょ」

 鳩が豆鉄砲を食らったようなとは、こういう顔をいうのだろう。
 虚を突かれたログイットの顔に、ユラはそんな感想を抱いた。

「でも、いいのか?」
「そんな風に脅されて、このまま置いて行かれる方が心外じゃない?」
「……そうだな。すまない、配慮が足りなかった」

 ログイットが決まり悪げに首を竦めた。
 ユラは気を取り直して扉に向かい、ゆっくりと鍵を回す。

「扉を開けたら焦臭いっていうのが、一番怖い展開ね。しかもそれが素材の保管庫からだったりしたら……血の気が引くわ」
「確かに、それは怖い」

 神妙に頷き合ったが、慎重に扉を開いても、妙な臭いは感じられなかった。物音や気配もなく、暗闇はしんと静まりかえっていつものように家主を出迎える。
 玄関脇に置いてあるランプを手に取ると、ログイットがユラを制して先に進んだ。

「こっちよ。奥を作業室にしてる――」

 息を呑んだ。
 閉めっぱなしのカーテンに、刷毛で書いたような右肩上がりの文字が踊っている。
 毒々しい青が、暴力的な存在感を持って要求を突きつけた。


 『思い出せ』


 ――過去が、追いかけてきた。
 体の芯が冷えて縮こまり、呼吸を忘れさせる。目を離すことができなかった。短く、だからこそ鋭く、それが何なのかを思い知らせる要求だった。
 立ちすくむユラの背後で、ログイットが部屋の隅々に向けて神経を張り巡らせながら、慎重に荷物を降ろした。
 異常は高らかに己の存在を叫んでいる。違和感は既に、確信に変わっていた。
 暗がりから、何かが床を蹴る音がした。

「ユラ!!」

 ログイットが叫んだ。まっすぐに刺突してくる何かを半身でかわし、流れ作業のように相手の腕を掴み取った瞬間――その細さと固さにぎょっとした。
 だが、体に染みついた動きに影響はない。逆の肘で、襲撃者を床に叩き落とした。

「人形……!?」

 無惨に横たわっていたのは、丸関節の木製人形だった。折れた腕の先には、人間を模した手ではなく、大振りの刃がついている。
 敵は一体ではない。時間差で飛びかかってきた人形を弾き飛ばし、ログイットは立ち竦むユラに声を上げた。

「ユラ、そこから動かないでくれ!」

 目鼻のない人形の首がユラの足下に転がる。ユラはびくりと身を竦め、反射のように頷いた。
 棚を倒した人形は床に四肢をつき、低い体勢のまま滑るように飛びかかってきた。ログイットがテーブルを足で引っくり返して刃を防ぐ。積み重なっていた冊子が派手に舞う中、ログイットは人形の背中めがけて、刃の腕を力の限り振り下ろした。
 床に縫い止められた人形は、そのまま動かなくなった。
 ログイットは警戒を緩めないまま、人形が隠れていた扉の向こうを見据えた。

「……いるのはわかっている。姿を見せろ」

 暗闇の向こうから、足音が近づいてきた。
 完璧に消された気配とは裏腹の、投げ出すような足運びだ。慎重さとは無縁で、大胆さと取るには規則的――軍人でも、暗殺者でもない。ただの荒くれ者だとも思えない。考えられる可能性のいずれからもかけ離れた気配は、妙に不気味で、物語の怪人を思わせた。
 果たして現れた人影も、それに伴う不気味さを持っていた。
 影が分離したような黒装束だ。コートともローブともつかない、三角形を重ねたような形状の布で全身を覆っている。唯一開いている目元さえ、影に隠れたかのように伺えない。
 ログイットは黒装束と睨み合ったまま、低い声で問いかけた。

「どこの所属だ? 何を目的にしている?」

 黒装束は身じろぎもせずその場にたたずんでいたが、やがて、ゆったりと腕を持ち上げ、一点を指し示した。
 ログイットでも、ユラでもない。
 『思い出せ』――そう書かれた文字を。

 次の瞬間、ログイットは黒装束との間合いを詰めていた。
 鈍い金属音が響いた。
 腕にくる重さに、ログイットは舌打ちを堪える。相手の腕は明らかに隙だらけだったのだが、服の下に何か仕込んでいるようだ。
 黒装束の蹴りを避け、大上段から振り下ろされた斬撃を人形の剣で受け流す。
 両者の技量差は明らかだった。ログイットの表情は冷静そのもので、その手にあるのは武器とも言えないような武器だというのに、不安を感じさせない。

 そのとき、黒装束が唐突に身を翻した。
 あまりにも無防備な反転が虚を突く。ログイットは一瞬迷いを見せたが、ユラの安全を優先して足を止めた。
 黒装束の足音が完全に去り、ログイットが細く息を吐いた。人形の残骸が散らばる部屋を見渡し、使われていない暖炉に目を留める。

「そこにかかってる火掻き棒、借りていいかな」
「……どうぞ、ご自由に」

 絞り出した憎まれ口は、掠れた声にしかならなかった。
 ログイットは人形の手を床に置き、代わりに火掻き棒を手に取った。ログイットは何も言わなかった。それが、彼の気遣いだったのだろう。大丈夫かと訊ねられて、大丈夫ではないなんて返事は出せそうもない。
 きつく唇を結び、ようやく顔を上げた。
 カーテンにぶちまけられた、青いペンキが目に飛び込む。思い出せ、と――今も鮮明なままの記憶を、叩き起こすためにつきつけてくる。
 いつかこんな日が来ると、ずっと思っていた。そのときが来ただけだ。

(……忘れてなんて、いない。忘れたことなんてない)

 ユラは深く息を吐くと、力任せにカーテンを引き剥がした。
 金具が耳に触る音を立てながら弾け飛ぶ。ログイットがぎょっとして振り返った。

「ユラ? 何を――」

 答えずにカーテンを外し、四苦八苦しながら力任せに丸めて暖炉に押し込んだ。
 キッチンから食用油と火種を持ってきて、無造作に火をつける。
 布が燃える焦臭さが鼻についた。長い間使われていなかった暖炉は、どこか混じりけのある臭いがした。
 ユラは困惑するログイットに背を向け、ソファに座り込んで膝を抱えた。
 腕に額を押しつけ、全身で問いかけを拒絶する。
 融点ぎりぎりを行き来するような沈黙が、部屋の中に漂った。
 ログイットが何度もためらいながら、ようやく口を開いた。

「ユラ。……今、室内を明るくするのは危険だ。外から狙いを付けやすくなる」
「……ほうっておいて」

 段取りも何もかも滅茶苦茶だ。自分でも、まさかこんなに動揺するとは思っていなかった。
 助けられたのだから、礼を言うべきなのかもしれない。そんな思いもちらりと浮かんだが、混沌とした感情は沼底の泥のようで、心からの言葉にはなりそうになかった。
 ひたすら貝のように身を固めたユラに、ログイットは歩み寄り、床に膝をついた。

「頼むから、聞いてくれ。このままここにいるのは危険だ。君が落ち着くまで待ちたいけど、猶予がどれくらいあるかもわからない」
「……さっきの今で、戻ってくるわけないでしょ」
「この状況では断言できない。相手が素人なら、十分にあり得る」

 ぐっと唇を噛んだユラに、ログイットは真摯な態度で説得を重ねた。

「言いたくないなら、深い事情は聞かない。俺も似たようなものだから、信用できないなら、それでもいい。警吏を呼ぶか……呼びたくないなら、せめて、君が信頼できる場所に避難してくれないか」
「うるさい……もういい、ほうっておいて……」

 膝を抱えたまま、ユラは自分を守るように身を縮めた。
 現実逃避だとわかっていても、すぐには受け入れられなかった。ともすれば、何もかも投げ出してしまいたくなる。
 ――知っていたはずだ。憎まれていることなど、分かり切っていたはずだ。
 今さらそれを突きつけられたところで、傷つく意味などない。そのとおりだと、何も間違ったことはしていないと、何の揺らぎもなく言ってのけるべきだ。頭ではそう思うのに、膨らむ感情が押さえ込めない。うまく、蓋ができない。

 どのくらい経っただろうか。
 ログイットがため息を吐き、腰を上げた。

「十五分だけ待つ。貴重品と身の回りのものを用意してくれ」

 ユラは腕に額を押しつけたまま、目を瞬いた。
 きっぱりとした言葉は命令めいていて、一瞬、誰が言ったのか分からなかった。

「十五分経ったら、担いででも連れていく」
「……は……!?」

 思わず顔を上げた。
 ログイットは、まるで別人のような冷徹さでユラを見下ろしていた。

「俺にとっての最優先は、君の安全だ。君自身の意見は関係ない」
「頼んでないわよ! ほうっておいてって、さっきから何回も――」
「リスクを考えると時間を無駄にできない。君が動かないなら、こっちで勝手に準備する。スーツケースは?」
「ちょっと、何を勝手に……!」

 言うが早いが、ログイットが部屋の奥に向かう。血の気が引いて追いすがったが、相手はたいして大柄でもないのに、その歩みを止めることさえできなかった。

「ねえ、聞いてるの? ……ふざけないでよ、いい加減にして!」

 ログイットは答えない。振り返りもしない。
 脅しではなく、本気なのだ。
 こんな男は知らない。ユラが知っているログイットは、人畜無害でお人好しで、何かにつけ自信がなさそうで――こんな、無機質な空気を纏っていたことなど、一度もなかった。
 混乱に、涙が滲んだ。
 目の前にいるのが誰なのか分からなくなる。
 引き留めようと腕を掴んでいた指から、不意に、力が抜けた。

「……どうやって、信じろっていうのよ……!」

 押し出した声は掠れていて、悔しいほど悲痛に響いた。
 ようやく振り返ったログイットが、驚きに目を瞠る。
 手の震えが止まらない。きつく服を握りしめて、ユラはログイットを睨んだ。

「あなたが当局側の人間で、何かへまをして追われてるってわかってるのよ!? なのに……売り渡されないって、裏切られないって、どうやったら信じられるの。……無理よ。無茶言わないでよ……!」

 ぼろぼろとこぼれ落ちたものが何なのか、認めたくはなかった。
 堰を切ったように感情があふれ出して、理性を押し流してしまう。
 こんな無様な態度、自分ではない。もっと冷ややかに、何の傷もついていない顔で突き放してしまいたいのに。

「ユラ……」
「とぼけてるの? 演技なの? 気づいてないわけないでしょう。私が――セシロトの人間だって。〈青い箱〉の関係者だってことも! ……なのに何も言わないで、私を助けるためだって言うの? 私は、自分の利用価値を知ってるのに? ……無理よ。信用なんて、できるわけ、ないじゃない……!」

 ログイットが表情を翳らせた。それが、何よりの答えだった。
 気づかないわけがない。カーテンのメッセージはセシロト語で、敵が扱っていた奇怪な魔工具はあからさまな禁術だ。加えて、セシロトの〈青い箱〉事件は約二年間。ちょうど、ユラが名前を変えたと話した時期と一致する。
 気づくのは当然で、気づかれることも構わなかった。そうすることで、相手の底を知ることができると思っていた。
 ――だというのに、この失態は何だ。

「ユラ」

 呼ばれた名前は冷静さを欠いて、ちゃんと感情が滲んでいた。
 たった一歩で距離を詰めたログイットが、焦れるような性急さでユラの身体を掻き抱く。
 宥める意図がちっとも感じられない。力任せの下手くそな包容だった。
 息苦しい圧迫感の中で、ユラはしゃくり上げながら声を絞り出した。

「はな、してよ……! お願いだから、ほうっておいて……」
「ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ。ユラが俺を信用できないのは当然で……信用してくれなくてもいいと、勝手に、思いこんでいた」
「……なに、それ」
「ユラのさっきの言葉……俺には、信じさせて欲しいって言ってるように聞こえたんだ」

 「間違っていたら、ごめん」と続けられた言葉に、ユラはログイットの肩口で目を瞬いた。
 弾みで涙がこぼれ落ちる。
 そうだったのかと腑に落ちるような思いが浮かび、次の瞬間には眉を寄せた。そうなのだろうか。なんだか、ペテンにかけられているような気分だ。

「……そんなこと、言ってない」
「うん」
「……苦しいんだけど」
「ご、ごめん」

 ログイットがびくりと身を竦めた。腕の拘束も緩んだが、そのまま腕は離れることなく、今度はおそるおそる、力加減を確認するようにユラの背に触れた。

「全部、話すよ。約束する」
「……守秘義務はどうしたのよ」
「今更だ。罪が一つ二つ増えたって、大して変わらない。……弱みを握るつもりでいてくれればいい。それで、君が安心できるなら、危険を冒す意味はある」

 ユラは眉間に皺を寄せた。
 他言するつもりはないが、一方的に信用されるのも考えものだ。

「……今度はそっちに巻き込まれたら、どうしてくれるの」
「巻き込まないし、巻き込ませない」
「どこからその自信がくるわけ……。ああ、何か、面倒になってきた」

 すっかり毒気を抜かれ、ユラは空気を逃がすようにため息を吐いた。
 ログイットはユラを胸の中に納めたままだ。ここでごねても、宣言通り抱えて連れ去られるだけだろう。最初は全力で暴れて抵抗してやろうとまで思っていたのに、そんな気も失せてしまった。
 こわばっていた身体から力が抜ける。
 ログイットが、宥めるように言った。

「俺は、ユラを裏切らない。利用したりしない。守りたい。……動機は単純で、俺が、君のことを好きだからだ」

 するりと落ちてきた爆弾発言に、ユラの喉がひきつった。
 抱きすくめられたままでは、相手の顔もわからない。ともすれば、どもりそうになる。

「……信じないわよ、そんなの」
「いいんだ。……やっと言えた」

 ログイットは苦笑気味の声で言い、ユラの肩に額を押し当てた。
 ぐちゃぐちゃに絡まり合った感情が一向にほどけなくて、どんな表情をしたらいいのかわからなかった。
 守られたいとは思わない。優しい言葉に期待を抱いてみるには、ひねくれた人生を送ってきた
 それでも、嬉しかった。
 たとえその言葉が果たされない約束になったとしても。厄介な性格と厄介な事情を抱え込んだ自分が、誰かからそんな思いを注がれることなど、考えもしていなかったからだ。

「……ばかじゃないの……」

 居心地が悪いような良いような感覚に口をつぐみ、ただ心臓の音が伝わらないようにと願った。ぎこちなく背中に腕を回すと、ログイットは迷わず抱きしめ返してきた。
 ――今だけだ。暖炉の中身が燃え尽きるまで、まだ待たなければならないのだから。
 自分に言い訳をしながら目を伏せた。

 その顔が見えないことが、少しだけ残念だった。