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 駅に降り立った男は、護衛の無言のエスコートを受け、険しい表情で歩き続けていた。
 シティは今、密やかな緊張感に包まれていた。その焦りにせかされるように足を早めかけたが、男はふと、そうはできない理由を思い出した。
 目線を落とせば、大きな焦茶のリボンが視界に入る。
 男の腰にも届かない小さな背丈。ふわふわとなびく陽光色の髪、質のいい臙脂のコート。
 物々しい一行の中で、明らかな異彩を放つ幼い少女は、大きな目でまっすぐ前を見据えていた。

「……本当に来るのか? 安全とは言えんぞ」
「もちろんよ。かぞくのことだもの」

 舌足らずな声のきっぱりとした返事に、男は苦い顔をした。
 もはやシティも、少女にとって安全とは言い難い状況なのだ。彼女が身を寄せる場所が近くにない以上、同行させる方がまだしも身を守ることになるだろう。
 少女は気丈に背筋を伸ばしていた。
 ――数日前、保護に訪れた男に安心し、泣きじゃくっていた姿を思い出させないほどに。

「きっとみつけるわ。……きっと、だいじょうぶ」
「……ああ、そうだな」

 ため息を飲み込み、小さな頭に手を乗せる。
 少女は物言いたげに男を見上げたが、唇を曲げて前を向いた。

 

 

 

 日々は何事もなく過ぎていった。ただひとつ、ログイットの焦りだけを積み上げて。
 代わりに雪がようやく溶け、道端や屋根から白が姿を消した。雪の反射が照明効果に一役買っていたのか、ガンプリシオの街は、どこか暗がりに沈んだかのようだった。

 もともと積雪の多い地域ではない。五年前ならその日のうちに水に変わっていただろう。
 たった五年では、急変した環境への適応はとても追いつかないということだ。

 昼食を終えたドクターにコーヒーを用意しながら、ログイットは苦々しい思いで新聞を眺めた。
 心配していた追っ手はなかったが、これという情報も得られないままだ。奇妙な平穏だった。
 ログイットを気遣ってか、ドクターは何も言わないまま、取る新聞を四種類に増やしていた。
 ドクターの勤務時間はひどく不規則だった。朝から晩まで病院に詰めていたかと思えば、三日連続で午前休みの夜勤になる。彼自身が望んでそうしているようだ。
 昼間を厭うユラと同じように、彼にも、何か思うところがあるのかもしれない。

「進捗は、思わしくないようだね」

 ドクターが発した直球の問いかけに、ログイットは苦笑で返した。
 コーヒーを口にしながら、ドクターは眉を上げる。

「迷惑をかけないようにという君の心がけは素晴らしいが、他に方法がなければ、頼ってくれても構わないのだがね。汽車賃程度は力になるよ」
「そう言っていただけると、気が楽になります」
「おや。追い出そうとしているとは思わないのかね?」
「……そうなったら、やむを得ないなとは……」

 ログイットは苦笑いのまま、生真面目に返した。
 ドクターは呆れ顔で肩をすくめた。

「その、貧乏籤を引き慣れたような笑い方はやめたまえ。仮にもプロなら、周囲をもっと巧く利用するよう努めるべきじゃないかね」
「は……ええと、すみません……?」

 妙な説教をされた気がして、ログイットは首を傾げながら謝った。
 ドクターがますます呆れた顔になった。

「……まあいい。ユラとうまくやっていけるのは、君のそんな性質のおかげだろうしな」
「うまく、やれていますか」
「ああ。あの、男とみれば毛を立てたハリネズミのようになっていた彼女が、君には微塵も警戒心をかき立てられないらしい。快挙だな」
「はあ……」

 なんとも複雑な気分になる評価だ。
 ログイットはコーヒーの水面に目を落とし、なんとなく眉を寄せる。

「――ふむ。まったく警戒されないというのも、男として複雑かね」
「えっ」

 内心を言い当てられ、ログイットはうろたえてドクターを見た。
 面白くない気分になっていたことを自覚して、よけいに動揺した。いつも「いい人」止まりだった人生では、非常に聞き慣れた評価だったはずなのだが。
 初老の医師は人の悪い笑みを浮かべ、マグカップを傾けた。

「いえ、そういうわけじゃ……そ、そういえば彼女、去年、水道管を凍らせたって言ってましたけど。何をしたんですか?」

 苦しい話題転換だったが、ドクターは深入りせずそれに応じた。

「あの話か。まあ、早い話が、水道管に魔力を通して凍結を直そうとしたんだよ」
「ああ、水道管を温めたわけではなく……」
「似たような話だがね。魔力を通すと、物質の抵抗力によってわずかばかり発熱するんだ。ただまあ、物質によって抵抗差があってね……水道管の部品の材質差を計算に入れていなかったものだから、危うく火事になるところだった」

 ドクターがため息を吐いた。予想以上に大ごとだったらしい。
 この人物のことだから、声を荒げて叱りとばした訳ではないだろう。ただ、いつもの笑顔を無表情に変え、この低い声で淡々と諭されるだけでも、十分に堪えそうだ。
 うなだれて説教を受けるユラの姿を思い浮かべ、ログイットはひそやかに笑った。きっと彼女のことだ。言い訳をしたくてもできないで唇を曲げていたのだろう。意地っ張りだが、ユラにはそんな、妙なベクトルの潔さがある。

「それにしても、魔工技師というのは想像以上に万能ですね。今まで身近にいなかったので、驚くことが多いです」
「ああ……そうだな、彼女はちょっと特殊例だよ。技術者というより、本職は研究者だ」

 どう違うのか分からず首を捻ったとき、軽い足音が階段を下りていった。
 このフラットは割と防音がしっかりしているが、階段の音だけはよく響く。
 つい顔を向けたログイットに、ドクターが声をかけた。

「おや? ユラかね?」

 ドクターが窓に目をやる。自然と確かめるような流れになって、ログイットは戸惑いながら席を立った。
 窓越しに眺めれば、ストールを巻き付けたユラが門を開けているのが見えた。

「そう……ですね」

 生活のサイクルが違いすぎるせいで、姿を見かけたのも久しぶりのように思えた。
 ユラの活動時間は概ね夜間だ。こんな時間から出かけることなどほとんどない。
 体調は戻ったと言っていたが、妙に薄着だったことも気になった。初めて会ったときにはやたらと裾の長い外套を着ていたはずだが、あれ以来見た覚えがない。
 雪は溶けたとはいえ、冬の気温は依然厳しいままだ。
 落ち着かない気分でマグカップを揺らすログイットに、ドクターが喉で笑った。

「おそらく素材の買い出しだろう。大荷物になるから、手伝いについて行ってはどうだね?」

 驚いてドクターを見れば、彼はやたらとにこやかな笑顔で言った。

「警戒心を持たれていないなら、踏み込むのが戦略の常套だ。及び腰のままでは進展は望めないぞ」
「……ドクター」

 何を期待されているのかは、十二分に伝わった。
 無意識だからできていたことが、誰かに背中を押されるととたんに不安になる。
 惹かれているのは確かだ。強そうに見えてどこか脆い危なっかしさや、慣れないものに触れた時の拗ねたような顔や、わかりにくい優しさや――次から次に思いつく理由を、簡単に数え上げられてしまうほどに。だが、そこで踏み込んでいいのかと改めて考えたとき、うなずくことはひどく難しいことのように思えるのだ。
 勝手に現実を突きつけられた気になり、ログイットは苦い表情で視線を落とした。

「好意的に見ていただけるのは、とても嬉しいんですが……僕のような人間を近づけるのは、正直、どうかと……」
「おや、随分と自虐的じゃないか」
「……この状況では、僕が何を言っても無責任に思えます」

 なにしろ当局に追われる身だ。
 弁明したところで職位を解かれることは間違いない。最悪の場合は犯罪者として刑に処されることになるだろう。
 間違ったことをしたとは思っていない。ただ、のしかかる現実はひたすらに重かった。
 どんよりと落ち込むログイットを眺め、大家は思案げに顎を撫でた。

「そうだな。ひとつ、たとえ話をしようか」
「え?」
「たとえば君が、水筒を持っているとする。中には汲んでから一年ほど経った水が入っていて、飲んだら腹を壊すかもしれない。……さて、目の前に脱水症状を起こしている人間が現れたら、君はどうする?」

 ログイットは眉をひそめた。
 冗談のようだが、想定される状況はひどく深刻だ。

「それは……」
「脱水症状を起こしているような状態で腹を下せば、それこそ命に関わる。だが、放っておいても死んでしまうかもしれない。命の危険を踏まえた上で、水を与えるか? 危険だと断るか? それとも、代わりの水を探しに行くか? もしくは相手に選択を委ねるか……選択肢は様々だ。――そう、君の立場からすれば

 ランプの明かりが揺れる眸には、諭すような静けさがあった。
 ドクターが何を言わんとしているのかは明らかだ。
 答えを見つけることができず、ログイットは沈黙のまま視線を落とした。

「このたとえ話に正解はない。ただ、相手が水を欲しているのは、『今』であって『いつか』ではないと思うがね」

 思わず顔を上げたログイットに、ドクターは穏やかに首を振った。

「人生とは厄介なものでね。こと大事な出会いに限って、自分の状況が万全でないこともままある。だが、それを理由に諦めてしまうのは、とても残念なことだと私は思うんだよ」

 年長者の助言は優しかった。それこそ、分不相応だと感じてしまうほどに。
 迷いも躊躇いも拭い去ることができないまま、ログイットは言葉を探した。

「……彼女にも、あなたにも、深い恩義を感じています。……僕に出来ることがあるなら、可能な限りその恩を返したいと……そう、思っています」

 慎重な返答に、ドクターは呆れ混じりに眉を上げた。

「そうかね。では、話を最初に戻そう。
 さしあたっての恩返しとして、まずは彼女の荷物持ちを手伝ってきたまえ」