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 そんな風に目を掛けてくる有力者がいれば、当然、それを面白くないと思う人間もいる。
 市庁舎を出たところでその筆頭格と顔を付き合わせる羽目になり、ユラの不快指数は再び跳ね上がった。

「今から仕事か? 相変わらず穴ネズミみたいな生活をしてるんだな」

 ――大きなお世話だ。
 本日何度目か分からない感想を抱き、ユラは梯子を担いだ同業者に胡乱な目を向けた。
 がっしりした体格と厳つい顔つきの男だ。いかにもわかりやすい職人気質を漂わせている。そして、これが街路灯修繕事業者の標準だった。
 街路灯の修繕というのは本来、もっと土木的で堅実な種類のものだ。それを妙な技術で簡易化し、次々と片づけてしまうユラのやり方は、同業者の中で「そのうちしくじる」が合い言葉になっている。

「人の勝手でしょ。いちいち絡まないでくれる?」
「〈神殿〉からお偉いさんが来てるらしいじゃないか。せっかくだから、小生意気な厄介者を引き取ってもらいたいものだな」
「お誘いは受けたけど、お断りしてきたばかりよ。残念ね」

 噛みつきそうな男の顔を、ユラは表面上の冷淡さで受け流した。
 生来、敵対する人間には感情的にならない性質だ。それが余計に相手の癇に障ることは知っていたが、今さら直す気もない。

「あなたたちが勝手に決めたテリトリーは守ってあげてるんだから、感謝してくれてもいいと思うわ。まあ、人手が足りなくなったなら手伝ってあげてもいいけど?」
「ほざけ。いいか、調子に乗るなよ。お前のやりかたは無茶苦茶だ。そのうち痛い目を見る」
「一年前にも言われたわね。いまだに実感した覚えはないけど。現状を安穏と肯定して、無駄な手間をかけ続けるのが賢いやり方?」
「定石には定石になる理由があるってことだ。女ってのはこれだから嫌なんだ、口ばかり回る」
「あなたも十分饒舌でしょ。……まったくもって無駄な口論ね。もう行ってもいい?」
「手を滑らせて落ちろ」
「おあいにく様。私は、わざわざ登る必要なんてないの」

 ユラは皮肉とともに踵を返した。背中に刺すような視線を受けながら、悠然と市庁舎を後にする。
 いらいらしたまま仕事に取りかかったせいで、予定数を片づける頃には、すっかり消耗してしまった。
 時計の針は午前二時を示していた。仕事を始めた時間がいつもより早かったとはいえ、街は寝静まっている時間帯で、人通りはすっかり途絶えている。
 ガンプリシオを白く染めた雪は、まだ溶けていない。くさった気分で半凍結の雪道を睨みながら歩いていく。今日という今日だけは転びたくなかった。たとえ誰も見ていなくてもだ。
 無駄な張り合いのせいで、帰り路がよけいに長く感じられた。

 フラットへ続く角を曲がり、ユラは目を瞬いた。
 門までの道が、いやに丁寧に除雪されていたのだ。脇によけられた雪は、まるでぽっかりと出現したカーペットのようだった。

(……なに、これ)

 積雪はせいぜい数センチ程度だったが、それでも結構な労力だ。
 ユラはきょろきょろしながら門にたどり着き、ふと、違和感を覚えてフラットを見上げた。
 見慣れた建物が、くすみを取り払っているような気がしたのだ。もちろん建物自体は変わっていないのだが、妙に小綺麗になっている。
 階段を上る途中、ふと思い立って、壁を指でなぞってみた。
 埃や土で黒くなるはずの指は、依然として白いままだった。
 エプロンと三角巾を装備したログイットの姿が脳裏に浮かび、ユラは思わず吹き出した。

(徹底してる、っていうか……ばかまじめって感じね。ここまでしなくても)

 大家の仕事を大いに通り越している。ユラはこみあげるまま、声を殺してくすくすと笑った。
 胸の中を渦巻いていた苛立ちが、すとんと抜け落ちたような気がした。
 時刻はすでに早朝だ。寝静まったフラットで、足音を忍ばせて階段を上がる道すがら、疲労にぼんやりした頭がふと思った。
 「いっらっしゃい」があるのなら――「おかえり」もあるのだろうか。

(……何、考えてるんだか)

 軽くなったままの感情に蓋をする。
 口の中で悪態をついて、空想を振り払った。