file-004

 大家の部屋は、いかにも男性の一人暮らしといった印象で、どこか雑然としていた。
 散らかっているわけではないがところどころが大雑把だ。背の高い本棚に詰まった医学書の並びは、大きさもジャンルも適当で、卓や椅子の上などにいくつか積まれている。チェストの上にある花瓶は、細君がいた頃には水と花を与えられていたのだろうが、今はただの置物として薄く埃を被っていた。
 リビングテーブルの上に何かが整列しているのを見て、ユラは思わず頬を引きつらせた。ダガーに警棒、懐中時計、ハンカチに、何やら用途が分からない革紐や工具。この部屋に運び込まれた患者の持ち物だろうが、こんな物を無防備に展示するのはやめて欲しい。
 ユラは無言で頭を振ると、手製のランプを掲げ、部屋の中に視線を巡らせた。
 間取りが大分違うが、おそらくゲストルームがあるはずだ。いつだったか、大家が招いた医者見習いに出くわしたことがある。
 勘に頼って一番奥の部屋を覗くと、思いのほかスムーズに探し人を見つけた。
 ベッドサイドには、親切なことに水桶と手拭いが用意されている。その隣に置かれた水差しの水は嵩を減らしていないようだ。あれから一度も、意識を取り戻していないのだろう。

(……それにしても……起きないわね)

 気配にも物音にも全く気を使っていなかったのだが、青年はまだ夢の中だ。
 これが、気配に気づいて即座に覚醒できるような種類の人間なら、ユラも冷淡になれるのだが。
 ランプの頼りない灯りが照らし出すのは、どこにでもいそうな青年だった。ささくれ立った気配も、相手を懐柔する老獪さも見あたらない。
 ただ、眉間に皺の寄った寝顔はひどく苦しげだ。投げ出された左手も、固く握りしめられていた。

(様子を見るって、何をすればいいの? 怪我人の看病なんてしたことないんだけど)

 何だか良心をつつくものがあったので、一応、用意されているものを使うことにした。
 水で絞った手拭いで申し訳程度に額や首周りを拭う。どうやら熱は下がっているようで、呼吸も脈拍も安定していた。
 それでもなお、寝顔が険しいのは、傷が痛むからだろうか。それとも――眠りの中で魘されているせいか。
 その感覚は、とても覚えがある。
 やることもなくなって、ユラは椅子に腰を下ろした。
 ため息を飲み込み、膝に頬杖をつく。

(……つらそうな寝顔)

 起こそうかと持ち上げた手は、さまよったあげく、毛布の上に落ち着いた。 
 叩く手はほとんど触れるだけような軽さで、気の抜けるような音をたて、ゆったりと眠りを促すようなリズムを刻んだ。
 しばらくそうしていると、いつしか、男の顔から険が消えていた。
 ふと、男の目蓋が震えた。
 目を覚ましたことに気付いて、ユラは手を引っ込める。
 勢いよく跳ね起きた男は、痛みで怪我を思い出したらしい。顔をしかめて左脇を押さえた。
 慌てた様子の男に、ユラは淡泊に声を掛けた。

「おはよう」

 男は驚いた顔でユラを見たが、予想外なことに、困惑まじりの挨拶を返してきた。

「お、おはよう……」
「やっとお目覚めね。どれだけ寝るのかと思ったわ」
「君は……いや、ここは……?」
「ここはあなたを拾った医者のフラットで、今はあなたが倒れてから十四時間ってところ。とりあえず家主はあなたを警吏に突き出す気がないそうよ。今は仕事に行っていて、私が伝言を押しつけられたってわけ。あなたの荷物は向こうの部屋。元気そうなら出ていっても構わないし、話がしたいなら待ってても構わない、ですって。物好きにもほどがあるわね」

 ユラは立て板に水の説明を行った後、他に何かあるかとばかり首を傾げた。
 簡潔かつ必要十分だが、寝起きの頭には厳しい情報量だ。飲み込むのに苦労したのか、男は緩慢な動きで眉間を押さえた。

「怪我の具合は? 痛むようなら鎮痛剤でも探してくるけど」
「あ、いや……大丈夫だ。癒合布で塞いである」
「あれって傷口をくっつけるだけでしょ。運良くお人好しに拾ってもらったんだから、素直に大人しくしておきなさいよ」

 ユラはサイドチェストから水差しを持ち上げ、カップに水を注いで、男に手渡した。
 目を覚ましてから困惑しきりの男が、礼を言って受け取る。
 脱水症状の手前だったのだろう。あっという間に飲み干したので、二杯目を注いだ。

「ありがとう」
「別に」
「その……すまない。巻き込んでしまって……」
「謝るくらいなら最初からやらないでくれない?」

 にべもない返事に、男は苦笑した。
 手酷い反撃を受けた割に、どこまでも毒気がない。演技なのかどうかの見分けは難しかった。
 騙されているのなら面白くない。
 ふと、思いつきで口を開いた。

「その水、自白剤を入れてみたんだけど」

 反応は劇的だった。
 盛大に咽せて咳き込む男を眺め、ユラは肩をすくめた。どうやら演技ではなく、本気で警戒していなかったようだ。

「な……何だって、君が、そんな真似……!」」
「冗談よ。言ってみただけ。それ、用意したのドクターだもの」
「……ひどい冗談だ……」

 まだ気管が落ち着かないのか、男は苦い顔で空咳を繰り返した。

「助けてもらっておいて、あれなんだが……君は、ちょっと、危なっかしいところがあるんじゃないか」
「……はあ?」

 怪訝と言うより、険のある声で返したユラに、男は真摯に言葉を重ねた。

「反射的に挑発してるだろう。その結果のことも、少しだけ考えてみてくれ。俺が厄介者だってことは十分わかっていたはずだ。君自身に危険が及ぶ可能性だってある」
「自分の身くらい守れるわ。痛い目見たことを忘れたわけ?」

 男の口調は、まるで教師が聞き分けのない生徒を説得するかのようだ。ユラにとって面白いわけがない。
 突き放すようなユラの返事に、男は小さなため息を吐いた。

「……なら、やってみるといい」

 反駁する暇もなかった。
 腕を引っ張られたと思った次の瞬間には、背中からベッドに倒れ込んでいた。予期しない反転に目が眩む。気付けば男の手がユラの両手を押さえ込み、あっと言う間に身動きが取れなくなった。
 あまりの早業に目くじらを立てるのも忘れ、ユラは呆気にとられて男を見上げた。

「手袋に術式を仕込んでいたはずだ。衣服に触らなければ、攻撃の危険はまずない。……一度目の前で見ていれば、相手もそのくらい推測する。単なる力比べでは、君は非力だ」

 ユラは瞬きもせず男を見上げている。
 沈黙に居心地が悪くなったのか、ため息混じりに男が身を起こした。

「助けてくれたことは、本当に感謝してる。ただ、どうも心配になって――」

 ユラは男の襟首を掴み、強引に引き寄せた。
 吐息が触れそうな至近距離で、目を丸くする男に微笑む。

「あら、そこでおしまい?」
「な……」
「脅かして説教しようって言うなら、ちょっと中途半端すぎると思うのよ」

 攻撃的な微笑を浮かべたユラは、握りしめたままの左手をちらりと見た。
 促されるように、重なり合った手を確かめた男が、わずかに身を強ばらせる。
 ――魔素で不自然なほど白い色に染まった爪を、男の素手に引っかけながら、ユラは目を細めて訊ねた。

「さて、ここで質問です。……術式の実験台になるのと素直に謝るの、どっちがいい?」

 今度の沈黙は、それまで以上にぎこちない硬直によるものだった。
 もとより害意がないのだから当然だ。
 男は深々とため息を吐き、糸を切ったようにうなだれた。

「……たいへん、申し訳ないことをしたと……」
「わかったならいいわ。重いからどいて」

 ユラは男を押しのけて、倒してしまったスツールを戻した。
 おとなしくベッドに横たわった男は、もはや逆らう気も起きないようで、さめざめとした様子で顔を覆った。

「何よ」
「……一度ならず二度までも、素人の女の子相手に……なんでそんなに過剰武装なんだ……」
「これくらいしてるから夜中に平気で出歩いてるんでしょ。昼だろうが夜中だろうが、襲う方が悪いんじゃない」
「……それは否定しないけど、俺が言いたいのは、もっと根本的なところの話で……」
「私に聞く義理がある?」
「……ないんだが、心の隅に留めておいて貰えると救われる……恥ずかしくてもだえる」

 ユラは唇を曲げた。
 ――実のところ、自覚はあるのだ。時折顔を出す妙な無謀さや、衝動的な行動は。
 昔からそうだったわけではない。故郷にいた頃には、そんなものはなかった。
 肩をすくめることでそれ以上考えるのをやめ、ユラは腰を上げた。

「これだけ動けるなら心配いらないわね。後は大人しく拾い主の帰還を待って、放り出されないようにご機嫌伺いの一つでもしたら」

 男は困ったような苦笑をユラに返した。

「ありがとう」
「……そこで『ありがとう』はおかしくない?」
「そうかな」
「そうよ」
「でも、本当に感謝している。彼が俺を拾ってくれたのは、きっと君がいたからだ」
「何それ。なんでそんなこと言えるの……」

 怪訝そうだったユラの顔が、さっと赤みを帯びた。

「……まさか、聞いてたの……!?」
「え?」

 昨晩、ドクターは何と言って男を拾ったのだったか。――放っておけばユラが戻ってきてしまうのではないかと、そんなからかい方をしてはいなかったか。
 きょとんと目を瞬いた男に、ユラはむきになって言い募った。

「違うわよ! あれはドクターが勝手に勘違いしてただけで、私はそんなお人好しじゃないんだから!」
「いや、でも……」
「違うって言ってる! それ以上喋らないで!」

 立ち上がったユラの顔は今や真っ赤だ。
 怒って立ち去るユラを、男は呆然と見送っていたが――彼女が棚に膝をぶつけたのを見て、あわてて声をかけた。

「だ、大丈夫か?」

 よろめいたユラは返事をせず、壊しそうな勢いで扉を閉めた。
 反射的に首をすくめ、男は知らず詰めていた息を、そろそろと吐いた。

 何か、怒らせるようなことを言っただろうか。
 いや――そうではない。都合良く考えるなら、たぶん、彼女のあれは、図星をつかれた人間のものだ。
 ひそやかな笑い声をこぼして、彼は天井を見上げた。

 少なくとも、今すぐどうこうという状況に陥っているわけではないことは分かった。取り上げた武器の在処を教えたのは、選択をこちらに委ねた結果だろう。
 このまま出ていけば、関わり合いにならず話を終わらせることができる。
 傷が完全に塞がるまでは時間が必要だろうが、幸い、動くくらいなら支障はなさそうだ。
 出ていくあてがあるなら、そうすべきだった。

 ため息をもう一つ落とし、男はベッドから降りた。服は昨夜のそのままだったが、ポケットの中身やホルスター、ベルトの類はすべてなくなっていた。
 ユラの言葉通り、それらは隣室のテーブルの上に、非常にわかりやすく並べられていた。
 潜入工作員という職業柄、身元を示すのは時計一つだけだ。その時計が既に見られてしまっている以上、焦るようなものもない。
 ダガーには手を着けず、財布に手を伸ばす。中身を心配したのは、単純に自分の全財産が記憶通りかどうかを確かめたかったからだ。

 果たしてその通りで、男は苦い顔になった。
 汽車賃にも足りはしない。着の身着のままで逃げてきたことが、今更だが悔やまれた。

「……まいったな……」

 落とした呟きは、なんとも情けない響きを帯びていた。