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 どうにかフラットまで辿り着く頃には、早朝といっていい時間になっていた。
 疲労困憊したユラはドクターに無言で診療鞄を引き渡すと、ふらふらと階段を上がった。
 自宅の扉を閉め、肺の空気をすべて押し出すようなため息を吐く。

「……まったく、なんて日なんだか……」

 荷物の重さで腕がパンパンに張っていた。湯につかってしっかり解さなければ、ひどい筋肉痛に襲われるのは間違いない。
 よろよろと浴室に向かい、水を張って、加熱石を沈めた。風呂はユラにとって一番の贅沢だ。適温で水温を維持してくれる魔工具は一人暮らしの人間が使うにはいささか高価だが、仕組みが分かって材料が揃えば、作ることは難しくない。
 ゆらゆらと水面が揺れる。ユラは心底疲れた気分で嘆息し、膝を抱えて額を押しつけた。
 どうにも、このフラットに厄介事を持ち込んでしまった気がしてならない。いくらなんでも目が覚めたら大家の死体が発見されているなんて事にはならないと思うが――いや、あの青年が抱えた事情によっては、その可能性も否定できない。
 考えれば考えるほど悪い予想しか出てこなかったので、振り払うように頭を振った。
 まったくもって自分らしくない。どうしてこんな事になったのだろうと、疲労に眠くなった頭でぼんやり考えた。
 ふと、その答えがおぼろげな輪郭を持つ。

(……ああ、そうか……あの写真……)

 いとけない少女の笑顔を思い出し、ユラは腑に落ちたように息を吐いた。
 まるで、ひだまりで育てられた子どもだった。誰もに望まれて生まれ、本当に大切に育てられてこなければ、きっとあんなにも無垢には笑えない。
 あの少女が痛々しく泣くことを考えると、なんとなく、落ち着かない気分になる。
 だったら仕方ないかと、考えるのをやめて目蓋を下ろした。
 元来、ユラは子どもという存在に弱い。どう扱っていいのかわからなくて、うっかり傷を負わせてしまうような気がして、引け腰になってしまうのだ。
 冷えきっていた身体はもうすっかり温まって、眠気を誘う。

 そのまま眠ってしまったようで、古い夢を見た。
 記憶の中の、甘やかな声が囁いた。

『僕はね、こういうものを作りたいんだよ』

 夢の中で、ユラは故国のアカデミーを出たばかりの駆け出しだった。
 大した実績もないのに故国の主要機関に招聘され、疑念に凝り固まっていたユラを、のちに第六研究室の室長となる第二王子が微笑んで差し招く。
 部屋の中心に据えられていたのは、蜜蜂の巣を思わせる術式模型だ。
 無数の関数が複雑に入り組んでいるのに、どの角度から見ても一切の無駄がない。完成された芸術品のようなその術式が、本来であればどんな力を持っていたのか――そのことを、ユラはよく知っていた。

「600年代に作られた、ヴィヴァーナの地殻変動術式だ。何とも美しいだろう?」
「……よくできた模型ですね」

 そして、どこからどう見ても、第一級レベルの禁術だった。
 現在の魔法法則で組まれたものではない。復元したところで、〈神殿〉が魔法の原泉を押さえている現在では動く可能性のない術式だが、国の魔法機関がこんなものを後生大事に持っているのでは、叛意を疑われても仕方ないだろう。
 これを見せられたということは、否応なしに巻き込まれるということだ。
 驚きや恐れよりも疎ましさがまさった。苦々しい思いで、飴細工のような模型から視線を外す。
 破滅したいのならそれは彼の勝手だが、他人を巻き込まないで欲しい。

「クランヘルム殿下、どうして、これを私に?」

 問いかけに答えず、クランヘルムは微笑を浮かべた。
 秀麗な顔立ちはどこか冷たく、人懐こい笑みを作ったところで、彼が思う通りの印象をユラに与えることはできなかった。

「堅苦しいのはやめよう。今の僕と君は、ただの同僚だよ。もっと友好的に話してくれると嬉しいな」
「同僚って……上司と部下の間違いでは」
「じゃあ上司命令だ。いいね?」
「卑小の身に余ります、殿下」

 恐縮しているのは言葉だけで、顔と態度はあからさまに迷惑だと言っていたはずだ。
 ばっさりとした拒否に、彼は可笑しそうに吹き出した。

「大丈夫、君だけじゃないよ。職場の軋轢を心配する必要はない。僕は、仲間とは対等でいたいんだ」
「……『仲間』ですか」
「そう。同じ目的と、共有できるものを持った仲間だ」

 クランヘルムは黄金色の術式模型を見上げ、うっとりと目を細めた。

「僕はね、ユリエネ。こういうものを作りたいんだよ。……この歪な世界の檻を打ち壊すためには、何よりも力が必要だ。強大な、神にもまさるほどの力が。それを作り上げて、初めて、この世界は自由を手に入れる」
「……それは……」
「君なら理解できるだろう、ユリエネ。この世界の在り方はひどくいびつだ。神殿が世界を支配し、頂点に立つことができる理由はただ一つ。魔工の源泉を、その手で押さえているからだ」

 夢を語るような声に、心の中がひどく冷たく凝り固まっていくのを感じた。
 ああ、と――得心が行ったような気分で、言葉を飲み込んだ。
 この綺麗な緑色の瞳には、自分とはあまりにも違うものが見えているのだろう。
 政治の道具として力を使うというのなら、彼の言う「力」は見せ金に収まらない。もしもそれを実現しようとするなら、最初から〈神殿〉の壊滅を狙って、それを成し遂げなければ、確実に潰される。
 どれだけの人間が死ぬだろう。
 どれだけの人間が、平穏で退屈だった生活を叩き壊されるだろう。
 そこに生まれる全ての犠牲を、この男は、必要なものだと語るのだろう。微笑して、形ばかりの痛ましさを浮かべて。
 寒気を覚え、自らの腕を抱きしめた。

「……選定の段階で、私の愛国心が薄いことはよくご存知でしょう。その上で私を選んでくださったということは、私の人格ではなく、能力を買ってくださったのだと考えています」
「それで?」

 クランヘルムは困惑も苛立ちも見せず、楽しげに先を促す。
 細く息を吐いて、その緑色の目を見つめ返した。

「どんな仕事であろうが、私は最良の結果を得るために最大限の努力をします。それ以外の精神的な貢献をお求めなら、どうぞ他を当たってください」
「はははっ! 本当に面白いね、予想以上だよ!」

 腹を押さえて笑い出したクランヘルムは、やがて躊躇なくユラに手をさしのべた。
 抵抗せず右手を預けると、彼はまるで貴婦人にするかのような口吻を落とした。

「……そう、君はそれでいい。今の僕は、別に信奉者の数を増やしたいわけじゃないんだ」
「それは幸いです、クランヘルム殿下」
「なかなか強情だね。……君の手、甘い香りがする。香水じゃなさそうだ」
「魔素の匂いでしょう。今は植物をサンプルに、実験を――」
紅樒リッテの花かな? いい香りだね。とても、君らしい」
「……女を有毒植物に喩えるなんて、いい趣味ですね」

 思わず毒を吐き、しまったと顔をしかめた。
 わかりやすい反応だったのか、王子に気分を害した様子はなかった。細い手を恭しく取ったまま微笑み、指の腹でユラの荒れた皮膚を撫でただけだ。

「さて、ユリエネ。象牙の塔に入るには、名前が必要だということは聞いたね?」
「ええ」
「君には僕が名前を与えよう。――ユリエネ・〈リッテ〉・ベルシア。今日からそれが君の名前だ」

 思わず眉をひそめた。
 名前にこだわりなどなかったが、これはひどい。

「……あえてそれを付けるなんて、意趣返しですか?」
「とんでもない。これ以上に君を表す名前なんてないだろう? ……僕は君を待ち望んでいた。ようこそ、僕の紅樒リッテ。心から歓迎するよ」

 

 ぴちゃんと音が響き、ユラは弾かれたように目を覚ました。
 どれだけ眠ってしまっていたのか、頭が重くてこめかみを押さえる。加熱石のおかげで湯は温度を失っていなかったが、指先がすっかりふやけて皺になっていた。
 明らかに風邪を引き始めている。疲労が抜けないまま、よろよろと浴槽から出た。
 申し訳程度に水気を飛ばしてベッドの中に潜り込み、丸まって眠りについた。
 今度は夢を見なかった。

 次に重苦しい眠りを妨げたのは、単調なノッカーの音だった。
 一度は開いた目蓋が、体調不良と睡眠不足で再びくっつきそうになる。
 郵便配達人なら無視してしまいたいところだが、扉の向こうからかけられた声は、昨日迷惑をかけたばかりの大家のものだった。
 ユラは眉間にくっきりと皺を刻みながら、毛布を引きずって扉に向かう。
 鍵を開け、申し訳程度の隙間から答えた。

「何か用なの、ドクター。厄介事なら――」
「すまない、寝ていたところだったかね」
「……私の生活リズムは知ってるでしょ……」

 ため息混じりに先を促すと、苦笑いの大家が気遣わしげに言った。

「厄介な急患が入ってね。どうしても仕事を休めなくなってしまったんだ。さらに困ったことには、例の彼だが、まだ目を覚ましていない。出掛けにでも様子を見ておいてくれないか?」
「……なんで私が」
「おや、最初に拾ったのは君だろう?」
「私は拾ってないわ。大体、人を犬猫みたいに――」
「私も彼が健康な状態なら遠慮するんだが、怪我のせいで熱を出しているんだよ。命には別状ないと思うが、万一このまま死んでしまったら寝覚めが悪いだろう? あれだけ苦労して運んだんだ、君もそう思わないかい?」
「……それは……そうかも、しれないけど」
「すまないが、頼むよ」

 押し問答の挙句、結局押し切られた。
 しぶしぶ受け取った鍵を手に、ユラは不機嫌になりながらベッドに戻る。
 そのまま三時間ほど眠ると、どうにか動ける程度には体調が戻っていた。鉛のようなけだるさは抜けないが、この分なら、仕事に行っても問題ないだろう。
 そんなに仕事熱心でもないユラが仕事を気にしたのは、ただ単に、大家からの頼まれごとを片付けるためだけに身なりを整えるのが、なんとなく嫌だったからだ。
 妙な意地を張っている自覚に蓋をして、のろのろと支度を整えて部屋を出る。
 鍵をかけるときに出てきたため息は、単なる不機嫌よりもいくぶん複雑なものだった。