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ガルフォールト王国の港町、ガンプリシオには、いくつかの呼び名がある。
傘の街。朝のこない常闇の街。罪過の街――それらはいずれも、五年前の魔工事故による汚染からきたものだ。
ガンプリシオの上空には、複雑な術式で構成された巨大な〈傘〉が浮かんでいる。それは汚染物質とともに日照を遮り、この街を常夜の街に作り替えてしまった。
以来、ガンプリシオに昼夜はない。
日が昇らない中でも、当然ながら人の生活に時間は残っていた。彼らは時計だけを頼りに、平穏だった過去を求めて、同じような生活を繰り返していた。
それがどんなに薄氷のものであるのか、痛いほどに理解しながら。
フラットの扉を開けると、冬の刺すような空気がユラの顔を撫でた。
昼から降りはじめた雪に覆われたガンプリシオは、夜に入り、いっそう冷え込みを増している。
慎重に階段を降りてポストを開けると、学会雑誌の包みが入っていた。
(もうそんな時期なのね。そういえば、気になってた論文が……)
目次だけ目を通そうと封を開け、ユラは思わず顔をしかめた。
封筒の中に、「ユリエネ」宛の手紙が同梱されていたからだ。
「……まったく」
ひたすら無視を貫く相手にしびれを切らしたということか。とうとうこんなせせこましい手段まで執るようになったようだ。
ため息とともに手紙を包みの中へ押し込み、ポストの中に戻した。
捨てたはずの名前が思い出したように目の前に晒されるのは、大抵が、彼女を神都へ引き戻そうとする話だ。
使われる言葉も変わり映えがない。街路灯の修繕などという誰にでもできる仕事をやめて、もっと有意義に、〈神殿〉の役に立てというのだ。
その気はないといくら言っても一向に接触が止まないのは、彼らが研究者という生き物の性質をよく理解しているためだろう。
(根気強いっていうのかしらね。……そろそろ、放っておいてくれてもいいじゃない)
雪を踏みしめて歩きながら、ユラは白い息が闇に掻き消えていくのを見上げた。
昼だろうが夜だろうが変わりない、真っ暗な空だ。〈傘〉に阻まれて星も見えない。
その闇を照らし上げるように立ち並ぶ街路灯は、この街に許された最後の明かりだ。そして、今のユラにとっては生活の糧でもある。
魔法で加工した手製の地図を広げ、ユラは街路灯が切れている場所の目測を立てた。
地図の上を走る術式が次々に数値を弾き出し、四角く区切った枠の中に照度の平均値を示していく。
いちいち重装備で目視巡回し、修繕対象のシェードを回収して交換する同業者のやり方は、ユラに言わせれば無駄の一言だ。あちらはあちらでユラの型破りなやり方に目くじらを立てているのだからお互い様だ。それで構わない。この仕事は市からの請負で、他の人間はただの競合者だ。顔色をうかがって手間を掛ける必要も、説得して和解する必要もない。
元より、誰かと親しくするつもりなどなかった。
一人での生活はとても楽だった。誰かに振り回されることもなく、ただ黙々と働いて、食事をとって、眠るだけだ。
そして、ただ待っている。
平坦で変化のない日々に、痛みがすり減っていくことを。
明かりの切れた街路灯を見つけ、ユラは腰袋から金属の輪を外した。
銀色に磨かれた筒の高さは、ちょうど街路灯のシェード部と同じだ。損耗した術式を手元に写し取り、ユラは目を眇めるようにして綻びの部分を確認した。おなじみの魔力汲上系列と光力変換系列だった。
街路灯の修繕に使う素材はごく限られている。腰袋の試験管ケースから魔素を掬い取り、慣れた手つきで銀の輪の内側に綻びを補うための部分術式を組み上げた。
焦点を合わせれば、術式が青色に鈍く光る。
頭上の街路灯に向かって浮かんでいく輪っかを見上げていると、強い風が通りを吹き抜けた。屋根に積もっていた雪が渦を巻いて舞い上がり、はらはらと落ちてくる。
術式が吸着するまでは約九十秒。頭の中で無意識に数を数えながら、懐中時計を取り出した。
〈傘〉に覆われたガンプリシオでは、月の位置や日の傾きから時間を知ることはできない。ありふれた懐中時計の針は、もう明け方に近い時刻を示していた。
十本目ときりもいい。そろそろ引き上げ時だろう。冷え込みが厳しくなるのは、これからだ。
ふと、夜闇に混じるざわつきに気づき、ユラは息を潜めた。
(……声?)
深夜にはそぐわない怒声だ。背中にぴりっと緊張が走り、ユラは息を潜めた。
誰が近づいて来る。それも、相当焦っているような足取りだ。
迷いながら顔を上げた。街路灯の復旧まではあと十数秒。一番まずいタイミングで鉢合わせそうだ。
厄介ごとの予感に、ユラは腰袋から呼子笛を引き抜いた。
銀の輪の中で灯りが点るのと、相手が姿を見せるのとは、ほぼ同時だった。
抜き身の刃を手にした男だ。灯りに怯んだ眼差しがユラを認め、苦々しい決意を点す。
ユラは迷いなく笛を口元に持って行ったが――次の瞬間には、その手を壁に押しつけられていた。
「痛っ……!」
勢いのまま肩を壁にぶつけた。
苦痛に呻くユラの喉元を男の拳が押さえる。刃を突きつけるのではなくとも、声を奪うには十分だ。
ユラは渾身の力を込めて相手を睨みつけた。
荒い息の下、抑えた低い声が言った。
「……危害を加えるつもりはない。悪いが、少しの間、静かに――」
ドン、という腹に響く音が男の体を跳ね上げた。
目を瞠った男が、膝から雪道に崩れ落ちる。
壊れそうなほど早鐘を打つ胸を押さえ、ユラは右手を握りしめた。
電撃を放った手袋から、緩衝しきれなかった負荷で焦げ付いた匂いが漂う。仕込んでいた術式は正確に作動したようだ。
――危なかった。もし相手が最初から口封じに殺すつもりで来たなら、きっと何もできずに殺されていた。
そう思うと同時に生来の負けん気が首をもたげてくる。震える指先を何度か握って落ち着けると、ことさら居丈高に髪を払った。
「人にものを頼むんだったら、それなりの態度ってものがあるんじゃない?」
当然ながら返答はない。麻痺した神経が満足に回復するまで、まだ少しばかり時間がかかるだろう。
後は笛で警吏を呼んで、早々に立ち去るだけだ。
泥濘の中に埋もれたダガーは、とても護身用とは思えない凶悪な大きさだ。飾り気のなさがいかにも実用的で、たちの悪さを醸し出している。
男を警戒しながらダガーを拾い上げ、足元に懐中時計を見つけた。
留め具が壊れてしまっている。量産品でありふれた型なのだが、それなりに愛着のある品だ。中身が無事であることを祈りながら蓋を開け、ユラは目を瞠った。
「……え?」
いとけない少女が、写真の中で微笑んでいた。年齢は十たらずといったところだろうか。両手に抱えた花よりもなお可憐な笑顔。まるで天使画のような無垢さだ。
まじまじと写真を眺め、ユラは、いまだうずくまっている時計の持ち主に視線を移した。
とてもではないが、こんな年齢の娘がいるようには見えない。
「……あなた、もしかして幼女趣味――」
「兄のっ……! 娘、だ……!」
「……あら、そう」
息も絶え絶えの反論だった。この状況で、力を振り絞って言うべきはそれなのだろうか。
男は大きく息をつき、膝を押さえながら腰を上げた。
とっさに警戒するユラに、脱力したような声が言った。
「……悪かった。つい、動転して……」
「は?」
「それを、返してくれないか。……大事なものなんだ」
ユラは呆気に取られて、男をまじまじと眺めた。
まさか、謝られるとは思わなかった。
確かに悪いのは相手だ。たとえやりすぎだと非難されてもユラは正当防衛を主張する。――ただ、普通、こんな目に遭えば大抵の人間は殺気立つだろう。ましてや謝るなんて、どんなお人好しだろうと考えるはずがない。
「……わけがわからないんだけど。あなた一体、何して逃げて来たのよ」
「それは……」
「って違う、待って、言わなくていい。知りたくないわ。ろくな事にならないもの」
男が困惑を浮かべた。ひどい混乱ぶりだとユラは空を仰ぎ、街路灯に道具を引っかけたままだということに気づいて手を伸ばした。
光を遮るものがなくなり、辺りの明るさが増す。
男は身動きをしないまま、じっとユラの反応を待っていた。無理に取り返そうとする様子はない。真面目そうで、ここ数分のやりとりがなければ、ただの人畜無害な青年だと思っただろう。
ユラは肩をすくめた。
何だか、この状況そのものが間抜けなものに思えてくる。
「これ、返すわ。留め具が壊れてるみたいよ」
「……ありがとう」
男は時計を胸に押し抱き、心底ほっとしたように息を吐いた。
それなりに警戒していたのだが、妙な素振りもない。お礼まで言われて、違和感は大きくなるばかりだ。
落ち着かない気分で立ち去れずにいるうちに、向こう通りから追っ手らしき声が聞こえてきた。
「ねえ、ひとつ答えて」
「……答えられることなら」
「あなた、その子に合わせる顔はなくしてない?」
男は頷かなかった。
当然だろう。ただそれでも、ユラを見返したその目は揺らがず、そこに後ろめたさは見つけられない。
腹を括るには、それで十分だった。
「いいわ。立って。五分だけ隠してあげる」
「え……」
「言っておくけど、下手な真似したら、今度こそ息の根を止めるわよ」
困惑する男を強引に立たせ、手早く外套を脱いだ。
手袋と同じく、外套にも術式を仕込んである。いざというとき身を隠すための光学迷彩だ。わざわざそのために裾を長くし、安価ではないが媒介として相性のいいキャメルを選んだのだ。――もっとも、まさか自分以外のために使うことになるとは思わなかったが。
「待ってくれ、君は――」
「黙って。どこか……そうね、あそこでいいか」
足取りのおぼつかない男を引っ張り、近くにあったアパートの玄関口に押し込んだ。男に頭から外套を被らせ、自分も中に潜り込む。ぴったりと寄り添うような体勢になってしまったが致し方ない。
さすがに二人で入るには狭かったが、迷彩の効果は垂直方向だ。なんとかなるだろう。
裾の位置を調整していると、不意に、男が身を強張らせた。
不審に思って顔を上げたとたん、男の手がユラの肩を押した。距離を取ろうとしたようだが、痺れのせいかろくに力が入っていない。
「……ちょっと、何?」
「いや、その……」
「人の親切をふいにする気? 見つかりたくないならじっとしてて」
もの言いたげな男を睨んで黙らせ、腰袋の試験管から辰砂を掬い取って魔素を練り出す。
分断していた術式が繋がり、青白い光が浮かんで、外套に組み込んでいた迷彩術式を完成させた。
間を置かず、騒々しい足音が街路を訪れた。
ユラに押さえつけられた男がわずかに身を固くする。
追っ手は二人に気づくことはなく、やがてその場を去っていった。
足音が戻ってこない事を確かめ、ユラは男の胸にダガーと懐中時計を押しつけた。
「ほら、あいつら行ったわよ。感謝してよね」
「……あ、ああ……助かったよ」
男は口元を手で覆い、ほとんど首を真横に向けていた。
心なしか顔が赤い。
ユラは眉を顰めた。礼を言うなら、目線くらい寄越すべきだろう。
「……何よ?」
「何って……! ……いや、ごめん。なんでもない……」
男は反論を諦めたようにうなだれた。そのままうずくまってしまう男の頭を見下ろし、ユラは首を傾げた。一体なんだというのだろう。
釈然としないまま、一張羅の具合を確かめた。それなりに厚みのあったはずの布は、五分たらずの間に擦り切れかけていた。もう使い物にならないだろう。向こうが透けて見えそうな外套を、しゃがみ込んだままの男に被せてやった。
「これ、あげるわ。迷彩効果はあと一時間くらいあるから」
「……いいのか? 魔工具なんて、高価な……」
「効果が切れたら、ただのゴミよ。いらないなら捨てていいわ。足が着くような作り方はしてないから」
外套越しにユラを見上げた男は、ふと、困惑するばかりだった表情を苦笑の形に緩めた。
そんな顔をすると、ますますお人好しの見本のようだ。
「すまない。……ありがとう」
「別に。せっかく匿ってあげたんだから、せいぜい頑張って逃げなさいよ」
ユラは返事を待たずに背を向けた。
そのまま雪に覆われた道をざくざく歩いて大通りに向かったが、もう少しで路地を出るというところで、背後から重いものが倒れる音が聞こえた。
それが何なのか想像がついてしまい、ユラは思わず、足を止めてしまった。
(……関係ない。私には関係ない、関係ない、関係ない……よし関係ない!)
明らかな厄介事にこれ以上首を突っ込むなど、愚かの極みだ。
呪文のように言い聞かせて顔を上げ、大通りに踏み込んだユラは、前方不注意で通行人に顔をぶつけた。
いくらガンプリシオが常夜の街だとはいえ、時刻は深夜だ。タイミングの悪さに驚いた。
「ご、ごめんなさい。前を見ていなくて……」
「……おや、ユラ?」
質のいいカシミアのコートから顔を上げれば、見知った初老の紳士がユラを見下ろしていた。
その紳士を、ユラはよく知っていた。
目を合わせようとすると首が痛くなるくらいの長身。低く落ち着いた声と、老眼鏡の奥の穏やかな眼差し。重そうな診療鞄――残念ながらどこからどう見ても人違いではなく、世話になっているフラットの大家だった。
「ドクター……」
「前を見ていないと危ないだろう。……仕事中かい? 随分な薄着じゃないか。今夜はこれから、一段と冷え込みがきつくなるそうだ。風邪を引いてもいけない。そろそろ……」
そこでドクターの目が、ユラの背後に向いた。
「……追い剥ぎでもしていたのかね?」
「違うわよ! こっちは被害者!」
むきになって否定したユラは、ドクターの人の悪い笑みに、からかわれた事を察した。
長身の紳士は苦い顔になるユラの脇を抜け、軽い足取りで路地に入っていく。
振り返れば案の定、道ばたに倒れ伏している男の姿があった。膝をついて男の呼吸を確かめる大家を、ユラはしかめ面で眺め、無駄とは思いながら声を掛けた。
「……ねえ、ドクター。言っておくけど、それって結構な厄介事よ」
「なるほど、違いない。なかなかの重傷だな。傷口は塞いでいるようだが……」
ユラは眉をひそめた。
衣服が血塗れというわけでもないので、まさか怪我人だとは思わなかった。
――もしかして、出会い頭の電撃でとどめをさしてしまったのだろうか。
「さて、どうしたものかな。彼を警吏に突き出すか、もしくは私のフラットで匿うか。ユラ、君の希望は?」
「……そのまま放置するっていうのは、選択肢に入らないわけ?」
二人の会話が聞こえているのかいないのか、男はぐったりとして反応がない。どうやら意識が朦朧としているようだ。
男を助け起こしながら、ドクターはあっさりとうなずいた。
「それはいただけない。時間は節約するものだからね。特にこんな、寒さの厳しい日には」
「……どういうこと?」
「ふむ。君のことだから、後から気になって戻ってきてしまうだろう?」
ドクターは真顔だった。
ユラの頬に、かっと朱が上る。
「なっ……戻らないわよ!」
「おや、そうかね?」
「戻らないってば! ……ああもうわかった、わかったわよ、手伝うから! からかわないで!」
むきになって言い募り、ユラは乱暴に男の腕を引っ張り上げた。うめき声が聞こえたような気がしたが、無視してドクターの広い背中に押し上げる。
ドクターが体勢を整えたのを確かめて、診療鞄を持ち上げた。
「重っ……! なにこれ、一体何が入ってるの」
「医者は荷物が多いものなんだよ」
「勤務医のくせに……」
ぶつぶつ言いながらも自主的に鞄を運ぶユラに、ドクターが目を細める。
真っ暗な空からは、また雪が降り始めていた。