09//There is another side to the picture.

それを嬉しいことなのだと、思い込めたなら良かった。

 空は、厚い雲に覆われていた。まるで汚れた綿で蓋をしているようだった。ただでさえ弱々しい冬の日光はますます押さえこまれて、途切れ途切れに呼吸をしているような頼りなさを覚えた。
 扉を閉めた手が、かじかんで震えた。それを押さえこもうとしてポケットに突っ込んで、僕は、それが寒さだけのせいではないことに、初めて気付いた。
 衝動のままに目の前の扉を蹴った。古臭い鉄の固まりは派手な悲鳴を上げたけど、足に走った痺れ程度しか残さなかった。

 ――ちくしょう。

  意味の解らない焦げるようなもどかしさは、敗北感に似ていた。
 不意に、携帯電話が大げさなほどに振動する。心臓を打たれた気がしてそれを引っ張り出すと、液晶画面に見なれない番号が表示されていた。回線電話だ。

『あっ……翔太君? あの、私、静帆の母です』

 おとなしそうな声が、ひどくせわしなく聞こえた。思わず黙りこんだ僕に、おばさんは構わずに続ける。

『あの……うちの静帆、一緒にいないかしら』
「いや、いませんけど……」

 嘆くような言葉を漏らして、おばさんの声がくぐもる。嫌な予感が心臓を締め付けた。僕は焦るまま声を荒げる。

「もしもし? 静帆……さんに、何かあったんですか!?」
『それが……あの子、急におかしなことを言い出して、飛び出してしまって……もう暗くなるのに、戻ってこないのよ』

  心当たりがないかとしきりに訊ねる声が、遠くなった。






 跳ね除けるくらいの勢いで家庭科室の扉を開けた。驚いたようなあきれたような部員の顔が見えたけど、ほとんど目もくれずに中に駆け込む。郷沖がけらけらと笑って迎えた。

「おっまえ、便所長すぎ。もうしょーがねぇからトリで……」
「大木、自転車貸してくれ」

  いきなり話を振られてか、大木は細い目をしばたかせた。

「なんだよ、急に」
「頼む。急いでるんだ!」
「おいおい東君? マジ必死だな。ちょっと落ち着けって」

  馬でもなだめるように郷沖が背中をたたく。
  かっとして、噛み付きそうな勢いで振り返ったとき、唐突に、胸の前に手が突きつけられた。

「……え……」

  佐々原だった。
  予想外の相手に、間の抜けた反応をしてしまう。佐々原は眉間にしわを寄せたまま鍵を押し付けて、ふいと横を向いた。

「一番奥の青いやつ」
「佐々原」
「急ぐんだろ」

  唇を噛んで、押し付けられた鍵を握り締めた。
  ごめんもありがとうも何一つ伝えられてない中途半端な状態で、放り出そうとしてると思われても仕方ないのに。
  どうしてなんだろう。どういえばいいんだろう。どれだけ考えても何も浮かばない自分を殴ってやりたかった。

「……おれ、は」

  しん、と静まり返った部屋が、言葉の先を待ってるようだった。
  からからに渇いた喉から、揺れ動く声を絞り出す。

「ずっと、謝りたいと、思ってた。……勝手だけど、取り返しなんて、つかねぇけど、でも」

  苦しかったんだなんて、言えない。
  自分もつらかったんだなんて、そんな馬鹿馬鹿しいくらい他人には関係のないことを、言える訳がない。

「ごめん。ありがとう。……恩に着る」

  上手く言えなかった言葉を飲み込んで、教室を駆け出た。







 ――あのときは、君と同じ年齢だった。まだ十五だったよ。

 身を切るような岡崎の声が、頭の中で追いついてきた。僕は振り切ろうとペダルを踏みつけた。ごうごうと耳元で風の音が強くなる。それでも、その続きから逃げることはできなかった。

『交通事故だった。静帆は、僕の目の前で車に轢かれて……そのまま、意識が戻ることはなかった』

 唇を噛みしめる。自分の感情を分かりたくないと思った。こいつが痛みを抱えていたなんて、同情なんて、絶対にしたくなかった。

『……あまりにも突然で……どうしていいかわからなかった。悲しいのかどうかさえわからなかったよ。ただ、信じられなかった』

 そして十何年かぶりに帰って来た母校で、静帆と出会ったのだと、泣きだしそうに笑った。

『彼女は「静帆」に似すぎていた。まさかと思ったよ。いくら名前が同じだからって、そんなことがあるはずがないと……それなのに、嫌な考えが頭を離れなかった』

  そうして、確かめたのだ。
  静帆の経歴。生まれてから今まであいつがたどってきた場所。その周りを。

『……中国だ。もともと規制には部分容認を求めていた国だし、技術水準も高い。国内の規制が弱い。日本企業との、日元製薬との関係も深い……』

 だからなんだと、叫んだはずだったのに、弱々しい声にしかならなかった。

『悪意なんて、ないと思っていた。彼女は悪くない。だから、君にも彼女を受け入れて欲しいと、そう思っていたつもりだった』

 知っている。わかっていた。だけどそれが許せなかった。ふざけるなと怒鳴りたかった。

『彼女が何をしたわけでもない。……静帆と同じことを言った、ただそれだけだ。それなのに、僕は……その瞬間、彼女の存在が、どうしても許せなくなった』

 両手で頭を覆う岡崎の姿を見たくなくて、僕は自分のつま先を睨みつけていた。

『知らなかったんだ。……知らなかったんだ……! 自分がこんなに情けない大人だなんて、こんなにあっさりと負けてしまうなんて、僕は……結局、僕が……一番馬鹿なままだ……!!』

  失ったものを取り戻したのだと、そう思えたらよかった。
 彼女は別の人間だと、本当に割り切れていたならばよかった。
  中途半端に理性的な振りをして物わかりのいい大人である振りをして未型のような顔をして、何よりも唾棄すべきは他ならぬ自分だった。
 誰を責める資格もない、弱くてみっともない自分だった。

(ちくしょう、ちくしょう、ちくしょうっ……!)

 僕はがむしゃらにペダルを漕いだ。
 岡崎の痛みだの苦しみだのが伝わってきてしまって、そんな自分に吐き気がする。
 膝がそれを掻きまわすように、ずきずきと痛みだしていた。

(いや痛くない、痛くない。痛くないっつったら痛くない。気のせいだ、妄想だ、錯覚だ)

  ――リハビリは焦らないことが大事です。君が本当に、もう一度走りたいのなら――
  頭をよぎった医者の言葉に首の裏側が冷えていく。馬鹿だ、と僕は唇を歪めた。

(んな場合かよ。ビビってんじゃねぇっての)

 こんなときにまで怯えている自分がおかしかった。
  無理をするなって? そうだな、そうしたらずっと先には前みたいに走れるようになるかもしれない。
 でも、今走らなかったら――今逃げ出したら、きっと一生後悔する。

『翔太』

 すがるような声。あいつは、ずっと強がってた。泣いても良いんだって言ってやれるほど、僕が強くなかったせいだ。

『翔太』

 待ってろ。
 今、行くから。






 一緒に行くと約束していた海はどこだかわからなくて、しらみ潰しに白浜を探した。ずっと同じ道の延長線にある海岸は、もうとっくに黒くばかりなっていて、静帆が見たがっていた綺麗な海はかけらもない。
  隣街の駅あたりに差しかかったとき、黒い海辺に、白い人影が見えた。
 思わず目を見張る。影は、海の中に足を踏みいれていた。

「シズ!」

 静帆は暗がりの中で振り返った。僕の名前を呼んだ気がした。気のせいだとしても構わない。
 自転車を蹴倒して、砂浜をほとんど転がるような勢いで静帆に手を伸ばした。
 海水は痛いくらいだった。引き戻すように抱きしめた細い体は一歩も動かなくて、そのことに、泣きたいくらいほっとした。

「しょぅ……た……」

  かすれた声はぜんぜん不思議そうじゃなくて、ぎこちない手が僕の背中を掴んで、まるで最初からそうするつもりだったように、静帆は泣いた。
 抱きしめた肩も背中もひどく冷えていたけれど、それでもやわらかく温度を持っていた。安心しすぎて涙が出た。
 僕は、本当に馬鹿だ。
 何やってるんだよと怒りたかったはずなのに、大丈夫だって安心させてやりたかったのに、膝を打つ波は凍るほど冷たいのに、間抜けなまま抱きしめるほかに何も思いつかなかった。