07 // The exception proves the rule.

矛盾を抱かないものなど存在しないと知っていたのなら。

 翌日が土曜日だったのは、不幸中の幸いだった。静帆や岡崎に会って、平静でいられる自信はない。
 母さんは隣県の伯母さんのところに泊りがけで出かけていた。スピーカーの不在も手伝って、僕は実力テスト前の貴重な連休をほとんど寝て過ごした。ただでさえ容量の少ない僕の頭はもうぐちゃぐちゃで、何も考えずにすむ状態といったら、走ることか眠ってることくらいしか思い浮かばなかったせいだ。万に一つでも静帆や岡崎に会いたくなかったから、選んだのは後者だった。

「翔太。いい加減起きなさい」

 母さんよりは高くない声に、僕は不機嫌に唸って布団をかぶった。
 眠りすぎて、頭の中で鐘が鳴っている。二日酔いってこんな感じなんだろうか。動こうとしない僕に痺れを切らして、姉ちゃんが布団と毛布をベッドから引きずり落とした。

「寒い!」
「もう十分寝たでしょ。まったく……知ってる? 一日十時間以上寝てたら、脳細胞が死んじゃうんだから」

 市役所勤めでカレンダー通りに休みのある姉ちゃんは、土曜も日曜も家にいた。その間、ずっと寝こけている弟を、さすがに放っときかねたんだろう。いい迷惑だ。
 僕は寝ぼけたまま、首の裏を掻いた。

「知ってる……四時間以上寝ないと、もっと死ぬんだろ」
「そっちは翔太には心配ないわね。いいから起きて。お客様よ」
「は?」

 怪訝な顔で返すと、姉ちゃんは布団を直しながら答えた。

「ほら、新しくきた先生――」
「教師じゃねぇよ、あんな奴」

 反射的に吐き捨てたとたん、腹の奥から、焦げ付くような殺意がよみがえってきた。姉ちゃんが手を止めて、驚いたように僕を見る。それもそうだ。結構いい奴だと思うと食事時の話題に答えたのは、ほんの数日前だったのだから。
 完全に目を覚まして、僕は忌々しさに舌打ちした。起きてるだけで苛々するんだから、そっちの方が体に悪いに決まってるじゃないか。
 不審がる姉ちゃんを部屋から追い出して、シャツとハーフパンツに着替えた。顔を洗って階下に降りる。何をしに来たんだと怒鳴りたかったけど、姉ちゃんにそれを聞かれたくない。
 岡崎は、玄関で所在無く立ち尽くしていた。中に招かれても、そこでいいと断ったんだろう。そんなことが簡単に想像できるくらい、岡崎の顔は沈鬱としていた。
 僕の顔を見て、岡崎が口を開く。

「東……」
「あいつは何も言ってない」

 岡崎と目をあわさずに、スニーカーに足を突っ込んだ。昨日水溜りにはまったせいで、凍るような冷たさが爪先から駆け上がる。

「……だから、あんたの口から、言い訳なんて聞きたくない」

 さっさと帰れよ。
 何しにきたんだよ。
 喉の奥でぐるぐる回る言葉を無理やりに飲み込んで、僕は家を飛び出した。いつものトレーニングコースを無茶苦茶なペースで走る。リズムも呼吸法もあったものじゃなかったから、一キロも走らないうちから息が上がった。
 なんでわざわざ、言い訳に来るんだ。どんな理由があったって許せるわけがないのに、浅ましさに吐き気がする。
 胸中でののしって、僕は、はたと足を止めた。

(どうして、おれのところに来るんだ?)

 静帆が何も言わないと知っていて? 僕の口さえ封じてしまえば、なかったことにしてしまえる――
 湧き上がった怒りに任せて、フェンスを蹴飛ばした。大した痛みさえ残せずに、はっきりと曲がった痕跡だけが、やり場のない感情を受け流してしまう。

(ちくしょう)

 どうして、こんな事になったんだろう。
 何か理由はあったはずだ。あいつは、初めて会ったときから静帆のことを気にかけていた。それも、どう考えてもいい印象じゃない。
 ――考えろ。理由は、何だ?
 不自然なことなら、確かに色々とあった。やけに静帆のことを気にかけてるくせに、静帆じゃなくて僕に話しかけてきた。本を貸そうとしたり、進路に関係のない映画の話をしたり、考えてみればことあるごとに。
 静帆に似ている知り合いがいたと言っていた。そういえばあの時、岡崎は「いる」のではなく、「いた」と言ったのだ。

(くそっ……何だ?)

 僕は頭を掻き毟った。何かが引っかかっているような気がするのに、もやもやとしてまとまらない。
 これじゃ、現実逃避だとわかってても寝てる方がましだ。
 何か変だって事は解っても、それが何なのかはわからない。僕は静帆を心配しているのか怒っているのか、それさえごちゃごちゃしていて言葉にならない。解るのは、岡崎を静帆から引き離したいってことくらいだ。とにかく、早く。いくら似ていても、他人と混同されるなんて――

(待てよ……なんか、今……)

 静帆の両親は、確か五十代か六十代だった。静帆が十五だから、逆算して、四十過ぎに生まれたことになる。最近は子供を生む年齢が高くなってるって聞いたことはあるけど、いくらなんでも、遅過ぎないか?

(まさか、でも……もしかしたら)

 僕は踵を返すと、来た道を走り始めた。
 岡崎の言っていた「知り合い」は、静帆の姉かもしれない。静帆からそんな話は聞いたことがないけれど、もしかしたら、岡崎はそれを知っているんじゃないか?
 考えすぎかもしれない。だけど、一度気になり始めたら、止まらなくなっていた。アスファルトを踏みしめる振動が脳を揺さぶるようで、吐き気までこみ上げてくる。
 汗だくで玄関に駆け込むと、姉ちゃんが怒った顔で僕を出迎えた。

「翔太、あんた、先生にどういう態度……」

 姉ちゃんの険しい顔が、心配そうな顔に変わる。ぜいぜいと肩で息をしながら、僕は意気込んで訊いた。

「姉ちゃん、戸籍って本人でないと取れない?」
「戸籍って……戸籍謄本のこと? どうしたの? 待って、タオル持ってくるから」

 別にいい、と叫びそうになったけど、姉ちゃんはすぐに奥へ引っ込んでしまった。もどかしく靴を脱いでタオルを受け取り、僕は、絡まりきった頭を勢いよく振った。
 姉ちゃんは心配そうに僕を見て、温めた牛乳を注いだカップを差し出した。

「戸籍謄本も抄本も、他人が請求することは出来るけど……納得される理由がないなら、まず無理よ。本籍地でないと取れないし……」
「姉ちゃん、市役所で出してるんじゃねーのかよ」
「うちの市に本籍があればね。一番多いのは、住民票だけど……」
「次男とか次女とか書いてあるのは? 住民票には書いてある? 死んだ人も入ってるのは?」
「翔太、落ち着いて。一体どうしたの? 正臣君のこと?」

 違うとも言えずに、僕は黙り込んだ。
 マサ兄のことは関係がない。だけど、静帆のことを話せるわけがない。間抜けなことに、いまさらそんなことに気付いたのだ。

「……違うのね?」
「……」
「ねえ、翔太。何を考えてるのか知らないけど、戸籍も住民票も、他人が簡単に見ていいものじゃないのよ。わかってる?」
「わかってる……けど。どうしても、知りたいんだ」
「どうして?」

 唇をかみ締めた僕に、姉ちゃんは困ったような顔をした。

「……よく、考えてみなきゃだめよ。あんたがちゃんと考えて、どうしてもって言うなら、申請のしかたは教えてあげるけど……」
 どうせネットで調べられることだから、と、姉ちゃんはため息をついた。
「汗流してきなさい。風邪引くわよ。……この話は、また今度ね」





 風呂から上がって携帯電話を引っつかむと、不慣れな手つきで信のアドレスを引っ張り出した。三回目の呼び出し音が途中で途切れて、信の驚いたような声が聞こえてくる。

『びっくりした……どうしたのさ、翔太』

 メールさえ滅多にやり取りしない間柄だ。乾かしていない髪をタオルでぐしゃぐしゃにしながら、僕は早口に訊ねた。

「信、お前さ、ブレードなんとかってアンドロイドの映画、知ってるか?」
『ブレードなんとか……「ブレードランナー」のこと?』
「多分」
『ええと、うん、見たことあるよ。あ、原作なら図書室にあったけど。「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」ってタイトル。知ってる?』
「知ってるわけねぇだろ。SFじゃねーか」
『……食わず嫌いじゃないかなあ……』

 そんなことはどうでもいい。呆れたような声音に、僕は不機嫌に応じた。

「それより、どんな話なんだ? クローンとかと関係あるのか?」
『え? えーっと……クローンとは、関係なかったと思うよ。核戦争で地球はボロボロになってて、生物がどんどん絶滅していってる世界で……本物の生き物を飼ってるっていうのがステータスになってるんだ。主人公も羊を飼ってるんだけど、それは本当は機械の羊で、本物の羊を手に入れるために賞金稼ぎをしてるんだ。その賞金首っていうのが逃亡したアンドロイドなんだけど。映画だと、初公開版と完全版と最終版があって……』
「違うのかよ!」
『ご、ごめん』

 反射的に謝る信に、思わず深々とため息を吐き出した。

「……悪い、八つ当たりだ」
『あ、いや、うん……でも、実際どれも結構違うんだよ。深読みしたらどこまでも怪しくなるし』
「それはどうでもいいから、こう、ががっとまとめらんねぇ?」
『う、うーん……あ、そうだ! 「我思う、ゆえに我あり」って聞いたことある? デカルトって哲学者の言葉なんだけど。映画でヒロインが言う台詞なんだ。……うん、これならクローンにも当てはまるよ』

 ようやく回答を見つけたと言わんばかりに、信は嬉々として喋りだした。

『要するに、アイデンティティの話なんだ。自分は誰なのか、自分はここに存在するのか、もしかしたらここにいるのは良く出来たアンドロイドで、偽者の記憶を植え付けられているんじゃないか、って……自分という存在がどこで証明されるのか、突き詰めてしまえば、そんなものはどこにもない、っていう話』
「暗ぇ」
『あはは、やっぱり、言うんじゃないかと思った』

 そんなにわかりやすかっただろうか。がしがしと頭を拭きながら口を尖らせると、信はふと、ため息のような声で呟いた。

『でも、一度疑問に思ったら、ずっとついて回ると思うんだ。翔太みたいに割り切れる人ばっかりじゃないから。……疑うような現実があったら、僕だって、悩むかもしれない』
「……自分は自分だろ?」
『うん、でも、翔太も悩んだじゃないか。走れない自分は自分じゃないって。……多分、それと同じだよ』

 解るような解らないような気分になって、僕は黙り込んだ。気まずい空気に焦ったのか、信が慌てて話題を変える。

『でも、珍しいね、翔太が洋画のこと訊いてくるなんてさ』
「……まあ、ちょっとな」

 一瞬迷ったものの、僕は首を振った。静帆のことは話せるような段階じゃない。そもそも、僕だって、何が何だかさっぱりわかってない状況なのだ。
 礼を言って電話を切り、僕は勢いよくベッドに倒れこんだ。






 月曜は、朝から気が重かった。帰宅した母さんが怒り心頭だったのもあるだろう。身内だとはいえ、よく他人事にそんなエネルギーを使えるものだ。自分と周りで手一杯の僕には、到底真似できないし、したいとも思わない。
 「今日は先に行く」と静帆にメールを打つと、ややあって、「わかった」と一言だけの返事が戻ってきた。いつものやり取りよりも随分と簡潔で、お互いに素っ気ない。
 液晶の中の文字は、気のせいか、ほっとしているように見えた。

「あれ……翔太、一人?」

 教室で顔を見合わせた信は、挨拶もそこそこに、意外そうに訊ねてきた。別にいいだろ、と返しはしたものの、考えてみれば、一人で登校するのは再退院した日以来だ。昨日の今日のことだから、信も気になってはいたんだろう。

「喧嘩でもしたの?」
「……んなとこだよ」

 姉ちゃんには、結局頭を下げて頼み込んだ。そうしないと、嫌な予想がぐるぐると頭の中を回って、どうしようもなくなっていた。

(漫画の読みすぎだよな……)

 あまりにも突飛だ。ありえない話だ。それなのに、それはどうしても頭から離れない。
 僕が疲れて机に伏したとき、ふと、信が意外そうな声をこぼした。

「あれ、槙村さんだ」
「そうかよ」
「岡崎先生と一緒だよ。珍し……」

 信が言い終えるのを待たず、僕は椅子を蹴って立ち上がった。

「ちょっ、翔太?」

 窓の下に信の言葉どおりの光景を見つけて、頭に血が駆け上る。驚いて呼び止める声にも耳を貸さずに教室を飛び出した。怪我が回復したばかりだと言うのに、ここのところ全力で走ってばかりだ。
 正面玄関を抜けると、奇妙なくらい距離を開けて話している二人の姿が見えた。

「シズ!」

 何でこんな奴に近づいてるんだと、半ば静帆に対して怒りながら腕を引いた。岡崎も気まずいのだろう。困ったように目を反らす様子が、余計に神経を逆撫でる。
 静帆は岡崎を見詰めたまま、静かに訊いた。

「その人、トマトとか苺とか、好きでしたか?」
「――」

 岡崎は口篭って、うつむいた。
 それはもう、うなずいたようなものだったけど、僕は無理やりに静帆を引っ張ってその場から離れた。近づけたくなかったのもある。それから、多分、答えを聞きたくなくて。
 静帆は黙って僕に腕を引かれていた。朝っぱらから不穏な空気を漂わせていたせいか、じろじろと他の生徒の視線を集めてしまう。
 手を離すタイミングを掴めずにいると、静帆が足を止めた。

「……ごめん」
「シズ――」

 理由を問いただす暇もなく、静帆は僕の手を放してきびすを返した。
 静帆は結局、一度も、僕の顔を見ようとしなかった。






 授業が終わってすぐに、僕は市役所に足を向けた。僕が通う市立第一中学校から市役所までは、歩いても二十分程度だ。
 姉ちゃんは忙しそうなのに、いつもと変わらないのんびりした様子で客に説明をしていたけど、僕に気付いて、小さく手を振った。

「忙しい?」
「いつもと同じくらいね。……除票込みの住民票謄本を出すから。こっちが、交付請求書と記載事項の証明願い。判子持ってきた?」

 うなずいて、ややこしい手続きを済ませ(多分、姉ちゃんがいなければもっとややこしかったんだろう)、市の模様の入った紙を手渡された。姉ちゃんが表情を翳らせる。その理由は、すぐにわかった。
 僕は唇を噛み締める。

 続柄に「子」と書かれた欄は、二つあった。
 そして、そのどちらにも、「静帆」という名が記されていた。




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