06 // Someone is not out of the woods yet.

いまだ抜け出せずにいる者は誰?

 母さんと姉ちゃんの話し合い(というより、喧嘩の一歩手前だ)は、どうやら不調に終わったらしい。一見気難しいように見える父さんは、こと家の女性陣の戦いに関しては我関せずを決め込むので、二人の仲裁なんてやらなかったんだろう。僕も早々に部屋に逃げ込んでいたので、実際にどんな話になったのかはわからなかったけど――けっこう、ひどくやりあったみたいだ。姉ちゃんはともかく、母さんは不機嫌だとすぐ態度に出るから。
 いまいち納得がいかない。
 結婚って、好きだからやるもんじゃないのか? なんで周りが寄ってたかってケチつけるんだよ。
 飯を掻き込みながらそう思ったものの、口に出すような馬鹿はしない。姉ちゃんが相手だと平気なくせに、僕がちょっときついことをいうと、母さんはすぐ泣くのだ。しかも怒りながらぼろぼろ泣くものだから手がつけられない。
 マサ兄のことがどうしても気にかかってしまって、その日は一日中上の空だった。
 僕はまだ中学生だし、結婚なんてまだずっと先の話だ。だから考えたって仕方ない。だけど、どうしても考えてしまう。
 もしも――もしも、静帆と結婚することになって。そのときに、静帆に子供が出来ないってわかったら、母さんは昨日のようなことを、静帆に向けて言うんだろうか。存在を否定してしまうんだろうか。
 そう思うと、腹が立つよりも気が沈んだ。
「翔太……翔太ってば!」
 はたと我に返って、僕は竹箒を抱え込んだまま顔を上げた。静帆が呆れたようにため息をつく。どうやら、さっきから呼んでいたらしい。
「もう掃除終わったよ。チャイム、聞こえなかった?」
「ああ……そっか。気付かなかった」
「今日、ちょっと変だよ……何かあったの?」
 静帆の顔が、心配そうにかげった。
 ――言えないだろ、やっぱり。言っていいのかも微妙なところだ。結婚まで考えてるの、なんて引かれてみろ。
「……そうだよな。下手に意識されたら、クリスマスに一歩前進したいという遠大な野望が……」
「え?」
「あ、いや、何でもない。ちょっと寝不足なだけだって」
 そう?と、まだ心配そうに首を傾げる静帆に、僕は竹箒を振ってみせた。
「そういえば、南高、何とか引っかかりそうだってさ」
「本当?」
「ああ。英語とか頑張っただろ? 順位上がってたし。岡崎センセーがおだててるんでなきゃいいけどな」
 嬉しそうに笑う静帆を見て、ほっと胸を撫で下ろした。どうにかごまかせたか。
 今日は静帆が進路相談だという。順番は一番最初だから、という言葉は、つまり「待っててくれる?」という意味だろう。前にそれに気付かないでけんかになったことがあったので、僕もそれなりに学習してるものだと思う。
 さっきまではぼんやりしていて気付かなかったものの、今日はずいぶん冷える。風はないし晴れているのに、なんだか詐欺のようだ。昼まで降っていた雨は雪には変わらなかったけど、やっぱり冷え込みには関係あるんだろうか。
 僕が愚痴めいたことを考えていると、静帆がふと視線を上げた。
「みて、月が出てる」
「は?」
 細い指が示した先を見上げると、薄く晴れた空に白い月が浮かんでいた。
 それがどうしたんだと言いかけた僕に、静帆は歌うように呟いた。
"O swear not by the moon, th'inconstant moon, That monthly changes in her circled orb, Lest that thy love prove likewise variable."
「……何だそれ」
 moonとかbyとかいう単語だけがかろうじて聞き取れたけど、意味はさっぱりわからない。それがそのまま顔に出てしまったのか、静帆がちょっと考えるように顎に触れた。
「単語、どれくらいわかった?」
「あー……moonと、byと……inとか」
 片手にも足りない。静帆の顔が段々困ったようなものになっていって、僕はきまずく頭を掻いた。
「で? 何だよ、さっきの」
「ロミオとジュリエット。『夜ごと形を変える移り気な月などにお誓いにならないで。貴方の御心までが月のように変わりそうで不安なのです』……ってところ」
「知らねぇ」
「知らないことはないでしょ。HRで見に行ったじゃない、ロミオとジュリエットのオペラ。覚えてないかな。もしかして、寝てた?」
「ほっとけ」
 あれは少なくとも日本語だったはずだ。わざわざ英語で言う辺りが回りくどい。
 静帆は小学校にあがる前は外国にいたらしくて、発音はびっくりするくらい自然だ。僕が読むとカタカナで聞こえる教科書も、ちゃんとアルファベットに聞こえる。
「でも、三つはきついなぁ……monthlyとかherとか、入ってたんだけど……」
「そりゃ悪うございました。帰国子女は言うことが違うね」
 いきなり吹っかけられてわかるもんか。僕が不機嫌な声を出すと、静帆が珍しく険しい色を見せた。
「……ねえ翔太。私の話、ちゃんと聞いてた?」
「聞いてただろ。聞き取れなかっただけで」
「そうじゃなくて」
 静帆は苛立ちを押さえるように息を吸って吐き、僕に向かってゆっくりと笑みを作った。
「私が小さい頃いたの、中国なんだけど。話したよね?」
「……お、今日は『暴れん坊将軍』の再放送があったんだったな」
「こら! 逃げるな!」
 ちゃんと話を聞いてない、と怒られるのは、これが初めてじゃない。そそくさと背を向けた僕の制服を引っつかんで、静帆は恐い顔で睨んできた。
 好きな色、彼女の星座、二人の相性占い――静帆が繰り出す情報は僕の興味と見事にすれ違ったものばかりで、声は聞いてるけど話はついつい聞き流してしまうのだ。
 しかめっ面の静帆を何とかなだめすかして「ジュース一本で許してあげる」というありがたいお言葉をいただくまでに約十分。今度やったら絶対絶対許さないからと釘を刺されつつ購買に向かい、戻ってくると、静帆はまたぼんやりして空を眺めていた。
 視線の先には、少し欠けた昼の月が、空を切り取るように浮かんでいる。
「……今度はもうちょっとゆっくり言ってくれよ?」
 また出題されるかと身構えながら声を掛けると、静帆がきょとんと振り返って、おかしそうに吹き出した。
「じゃあもう一回同じの。今度はゆっくりね」
 静帆の少し高い声が、ややこしい単語の羅列を音にする。単語は五つ聞き取れたから、今度は片手がふさがった。どうだと僕が胸を張ると、monthlyとherって、さっき私が言った単語じゃない、と呆れたように笑われた。
「しかし、月の形なあ……月自体は形変えてるわけじゃねーじゃん。移り気とか言われても」
「中世だよ。天動説の時代だもん。きっと自分の目に見えてるものが全部で、中心で……だから、月っていうのは宇宙に浮かんでる大きな岩じゃなくて、満ち欠けして光ってるものだったんじゃないかな」
 なかなかこっぱずかしい意見だ。そんなもんかと、僕は頭を掻く。静帆はかまわずに続けた。
「不思議じゃない? あたしたちが『月』って呼んでるものと、あの時代の人が『月』って呼んでるものは、同じなのに、違うものなんだよね」
「……あれ、そんな話だったか?」
 同じなのに違う? 違っても同じ? 僕は混乱して首を傾げた。
「ううん、ロミオとジュリエットじゃなくて、わたしの意見。……そっか、考えてみたら逆のこと言ったね。
 確かあれは……『薔薇と呼ばれるあの花の、たとえ名前を変えたとしても、その香りに変わりはない』」
 調子を取ってそらんじた言葉は、僕にも覚えのあるものだった。漫画かなにかで読んだんだろう。それを口にした僕に、アイデンティティのたとえとしてはよくある話だからと静帆はうなずいた。
「私の敵はあなたの名前だけです……薔薇と同じように、名前が変わってもあなたはあなたですから、私のために名前を変えてくださいって言うの」
「無茶言うなよ」
「……わかんないかなぁ。ロマンチックじゃない、情熱的で」
 わかってたまるか。僕は思わず胸中でつぶやいた。眉根を寄せた静帆は不満げだったけど、そうだねロマンチックだねなんて答える男子中学生がいたら、ぜひともお目にかかりたい。そしてとりあえず殴りたい。
 そうこうしてるうちに、進路相談の時間が回ってきたらしい。終わるまで待っていると約束して、僕は教室に足を向けた。
 みんな部活はとっくに引退して、受験に向けて必死になってきてる時期だ。進路相談のない他の生徒は、塾だの家庭教師だので、SHRと掃除が終わるとすぐ帰宅している。
 そのせいか、欠片も気負わずに教室の戸を開けた僕は、中にいたやつの顔を見て動きを止めた。
「佐々原」
 思わず名前を呼んでしまって、呼んでどうするんだと頭を抱えたくなった。できるなら今すぐ扉を閉めて逃げ出したい。あからさますぎる不自然さに穴を掘って埋まりたいと切実に願い始めていると、佐々原が無愛想な声を出した。
「……二十四日に追い出し会やるから、近藤が伝えとけって」
 よっぽど驚いた顔をしてしまったんだろう。佐々原は舌打ちして、僕から目をそらした。
 うちの陸上部の引退は、他の部よりも遅い。地元新聞社の駅伝が最後だ。その後に追い出し会という名のささやかな宴会を開いて、第一中学校陸上部の三年生は引退する。
 まさか、呼ばれるとは思っていなかった。
 僕が部を辞めたのは、もう一年も前だ。今の一年生は僕の知らないやつばかりだし、あれだけ派手ないさかいを起こしておいて――今さら、どんな面で顔を出せって?
 大昔はオリンピック選手だったという監督の、なかばボケかけてる顔を思い出しながら、僕は手のひらを握り締めた。
「……行っても、いいのか」
 喉がからからだった。掠れた僕の声に、少し困惑したような顔をした佐々原が、おれが決めたんじゃねぇよとぼやくように言った。
 最後のチャンスを、与えられたってことなんだろうか。これを逃したら、もう二度と謝る機会なんてない。今さら何を言ってるんだって、白けられるかもしれない。おれが色々言った分を、言い返されるのかもしれない。それでも。
「わかった。行くって、伝えといてくれ」
 佐々原は何か言いたそうな顔をしたけど、何も言わないで教室を出て行った。
 緊張しすぎたせいだろう。僕はその場にしゃがみこんで、深々とため息を吐き出した。



 そろそろ終わっている頃だろう。静帆にどう言い訳したものかと頭を抱えて、僕は美術室に向かった。
 別に、待っていれば教室に戻ってくることはわかってるんだけど、居ても立ってもいられない気分だ。浮かれているような、緊張しているような、よく分からない落ち着かなさが僕の中に充満していた。
 静帆も陸上部のことは気にしていたみたいだったから、そこまで怒らないとは思うんだが――女はこういうとき、ものすごく理不尽になる。二十四日は模試も入っていたし、三時ぐらいに終わって、追い出し会に顔を出して……そうすると、抜けられるのって五時くらいか。さすがにもう暗いだろうなあ。静帆の家は割りと厳しいし、やっぱり難しいかもしれない。
 うんうんと唸りながら階段を下りていると、不意に、叩き付けるような音が聞こえた。
 微かに耳を打った悲鳴が、僕の背中を貫く。
 聞き間違えるはずがない。静帆の声だ。
(まさか)
 僕は困惑したまま廊下を蹴った。雨上がりの解放廊下は心もとなく水を弾いて、吸い付くような音を立てる。
「……て……どうして……のに……どうして……!」
 うわごとのような言葉は岡崎先生のものだった。
(くそっ……何なんだよ!?)
 たどり着いた扉を力任せに開いて、僕は愕然とした。
 机に押し付けられた静帆の体。それに多い被さるような大人の姿。その大きな手は、静帆の細い首に絡み付いていた。
 沈黙が降るようだった。声帯が凍り付いて声が出ない。
 真っ白な頭のまま、気がついたときには、僕は岡崎を殴り倒していた。頭一つぶん大きい岡崎の体は、机の列に背中から突っ込んで、けたたましい音を立てる。
「……に、やってん、だよ……?」
「……」
 解放された静帆が、引きつった咳を繰り返す。岡崎は床に尻餅をついたまま、答えなかった。
 呆然とした顔は、まるで自分が何をしていたのか解らないといったようだ。それがなおさら感情を逆撫でて、僕は倒れた机に足を振り降ろす。
 ガァン、と、頭に響く音が鳴った。
「何してんだっつってんだよ!!」
「しょう、た……やめて……!」
 引き止めるように僕の腕を掴んだのは、ほかでもない、静帆だった。
 信じられない思いで静帆を見返す。かたかたと震える指は僕の腕に食い込んで、血の気が引いていた。指だけじゃない。蒼白な顔を泣き出しそうにして、静帆は僕を引き止める。
「おねがい、いいの、行こう」
「何言って――」
「いいの! お願いだから……!」
 悲鳴に近い声で訴えて、静帆は僕の腕にすがりついてきた。僕は、まだ呆然としている岡崎を睨みつけて、悔しさに唇を噛む。
 信じられなかった。腸が煮えくり返るっていうのは、多分この感覚を言うのだ。裏切られたような気分だった。もう二、三発殴らなければ気が済まない。いっそのこと、殺してやりたい。
 いい奴だ、なんて思っていた。
 ちくしょう、なんて馬鹿だったんだ!
「しょう……」
 何か言おうとするのを遮って、僕は静帆を美術室から連れ出した。
 許せなかった。信じられなかった。悔しさを踏みつけるように歩いていた僕は、静帆の腕をあざが残るくらいの強さで引っ張っていることに気付かなかった。
 静帆は青ざめたまま黙り込んで、腕を引かれるままに僕の後をついてくる。
 教室の扉を閉めて、僕はようやく静帆を見た。
「……何されたんだ?」
 静帆はくしゃくしゃと顔をゆがめて、首を振った。腹の奥を苛立ちが駆け上がってくる。それがあまりに強くて、めまいがした。
 制服には特に乱れたような様子はない。ただ、それでも、首筋に残る赤い跡が、生々しく静帆の身に起きたことを証明していた。
 ――殺すつもりだったのだ。本当に。
 理由などわからないし、わかりたくもない。答えようとしない静帆に、僕は拳を握り締めた。
「ともかく……誰か……大人に」
「だめ!」
 唐突に上がった声に、僕は呆然と目を見張った。
「だめって……何言ってんだよ!」
「ちがう、違うの。平気だから、大丈夫だから、誰にも言わないで……!」
「馬鹿言うな! お前今さっき――」
 殺されかけたんだという言葉を噛みちぎるように飲み込んで、僕は舌打ちした。
「……ともかく、あんなの普通じゃねぇよ。このままほっとけるわけないだろ!?」
「違うの、先生は悪くないの……だって……」
「何が違うんだよ!」
 張り詰めていた糸が切れたのか、静帆がぼろぼろと泣き出した。
 それ以上は、何も言わないで首を振るばかりだ。僕がどれだけ問い詰めても、何があったのかも、あいつをかばうような真似をする理由も、何一つ口にしない。
 同じようなやり取りを繰り返しているうちに、僕の中で、何かが音をたてて弾けた。
「くそっ……勝手にしろ!!」
 感情に任せて静帆の腕を振り払った。そのまま鞄を引っつかんで、教室を飛び出す。
 頭の中で割れるような音がしていた。泣いている静帆を気遣う余裕さえかき消してしまうくらいに。わからない。わかるもんか、何もかも全部!
 階段を駆け下りて、僕は悔しさをぶつけるように壁を蹴りつけた。






photo by 男衾村 - 復興計画(加工使用)