05 // The longest day must have an end.

遠回りは思っていたよりも、近道に近い。

「失礼しまーす」

 間延びした声を投げると、「どうぞ」と穏やかな返事が返ってきた。
 美術室の空気には相変わらず鼻に引っかかる匂いがあって、僕は思わず息を詰めてしまう。その些細な反応に気づいたのか、岡崎先生が苦笑を浮かべた。

「やっぱり、教室を変えてもらった方がいいかな。みんな落ち着かない感じだったよ」
「他ってあります?」
「うーん……まあ、お願いしてみるよ」

 彼の担当である理科室は、試合の近い将棋部の顧問が頑として譲ってくれなかったらしい。
 僕は椅子を引きながら、まじめな顔を作って言った。

「音楽の内藤先生とかどうっすか。男子に甘いって評判らしいんで」
「ははは、どうだろうね。僕はもうおじさんだからなあ」

 本気にしていない様子で彼は笑ったが、実際、この笑顔で「お願い」すれば、あのおばさんはすんなり落ちそうな気がする。
 さて、と表情を改めて、先生は僕の書いた進路調査用紙を持ち上げた。

「そういえば、東君、槙村さんと同じ高校に行くんだね」

 僕は思わずむせ返った。彼は平然としたまま続ける。

「か、関係ないじゃないすか、そんなの……!」
「そうかな? ずいぶん頑張って、追い上げてるから」

 僕は息をのんだ。幼げな担任の顔をまじまじと見て、膝をつめる。何となく声を潜めて訊いた。

「そ……そうっすか? 本当に?」
「うん。この調子で行けば、十分狙える範囲だと思うよ。頑張ろう。英語と社会が弱いみたいだから、その二つを重点的に勉強した方がいいね。暗記が苦手かな?」

 具体的な勉強方法を相談しながら、僕は気分が浮き上がるのを押さえきれなかった。今楽観しても悪いことにしかならないのはわかっているけど、なんといっても初めて聞いた肯定意見だ。マユミ先生には厳しい顔でうならせてばかりだったので、少し肩の力が抜けた。後は、やる気を出させるためのお世辞でないことを祈ろう。
 一通り相談を終えると、先生が苦笑まじりにプリントの最後に目を落とした。

「それから、最後の項目なんだけど……『将来の夢』とかけて、『市民ランナー』ととく、その心は?」
「『頑張ろう』です」

 呆れられるだろうと思って言ったはずが、岡崎先生は思い切り吹き出し、窮屈そうに体を折って笑い出した。それまでが丁寧だっただけにそれがやけに幼く見えて、僕はちょっと肩をすくめる。

「やられたなあ。時代劇が好きだって聞いてたけど、よくわかったね。いまどきの子なのに」

 にじんだ涙を拭いながら、ふうと息をついて、彼は指を組み合わせた。

「どうして『市民』なんだい? 市民ランナーっていうのは、職業じゃないだろう」
「マユミ先生から聞いてないんすか」
「……怪我のことなら」

 岡崎先生は、慎重に言葉を選んだ。僕はうなずく。

「走るのが、好きなんで。続けたいんです。……仕事は残業が少なければ、何でもいいかと思って」

 僕にとっての一番は、他を引き離してそれだ。それでも、実業団に入るにはそれなりの記録が必要になる。この足がそこまで回復するのか、まだわからない。――というよりも、このときの僕はきっと、考えまいとしていたんだろうと思う。
 頑張っても走れないと思ったから努力を放棄して、記録よりも走りたいだけなんだと思い直してもう一度努力しようと思った。だけどそれは、多分、百パーセントの切り替えにはならないのだ。僕の意識のどこかには、もしかしたらそこまで行けるかもしれないと期待するような気持ちがあって、逆に、過剰な期待を否定して記録に興味を失ったようなそぶりをさせる部分もある。それはせめぎあっているというより、僕の中でごちゃごちゃと溶け込んでいるみたいだった。
 噛みしめるように断じた僕に、彼は何か言いたげな、曖昧な表情を浮かべた。僕はそれを遮るために、逆に質問を向ける。

「先生は、どうして教師になったんすか?」

 しかも大卒後すぐにじゃない。元は保険会社に勤めていたというから、下世話な話をすれば稼ぎもよかったはずだ。三十すぎといえば働き盛りよねぇと、姉ちゃんも首を傾げていた。
 岡崎先生は目をしばたかせ、照れたように笑って頭をかいた。

「笑わないかい?」
「いや、聞いてみないとわかんないすけど」
「『陽のあたる教室』って映画、知ってるかな。学校の話なんだけどね……それが最初なんだ、お恥ずかしながら」

 荒れてたときに恩師に出会ったとかじゃないのか。
 肩透かしを食らった僕が反応に困っていると、彼は苦笑して続けた。

「その後も、いい先生に恵まれてね。学校の先生になるのが夢だったんだよ。ただ、恥ずかしい話だけど、新卒……大学を出る前の就職活動で、採用試験に落ちちゃってね。どうしても先生にはなれなかったから、保険会社に就職したんだ。あとは、早い話がリストラかな。どこも不景気だからね。僕の勤めていたところも、人を減らすことになったんだけど……まあ、いろいろあってね。どうせなら仕事を辞めて、この機会に、もう一度頑張ってみようと思ったんだ」
「へえ……」

 なんだか、不思議な気がした。共感とでも言うのだろうか。はっきりしない、好意のような尊敬のような、混じり合った感情だ。
 目の前にいる大人は、挫折して、もう一度同じ道を選んだ人間だった。今まで僕が聞かされてきたのは、いかに間違いなく、いかに回り道をせずに高校、大学、就職と駒を進めていくことだけだ。だけど、彼は違う。卑屈になる訳でもない、誇張する訳でもない穏やかさに、僕は彼が「大人」なんだということを強く意識した。
 夢のために引き返すことは、もしかしたら、そう馬鹿なことじゃないのかもしれない。

「でも、映画かあ」
「いや、人生の転機になるような、って意味でね。よかったらDVDを貸そうか……って、ああ」

 失言だと言いたげに口元を押さえる。それが妙に子供っぽく見えた。

「受験生に何言ってるんすか」
「そうだね、ごめん。でもいい映画なんだよ。あと……『ブレードランナー』とか」

 妙なつなぎだ。僕は首を傾げた。

「はあ。それも教師ものっすか?」
「いや、アンドロイドの話だよ。……ところで、今日のビデオはどうだった?」
「どう、って……まあ、面白かったかな……?」
「授業のときにも言ったけど、あれは割と肯定的なスタンスで作られてるんだ。まだまだ、クローン技術は誤解と偏見で見られることが多い。教材も、割とそういったものが多いから……あれは逆に、少し偏ってるかなとは思ったんだけど、派手なだけ興味も引くだろうしね」
「……はあ」

 なんでそんな話をしてくるのか、僕にはさっぱりわからなかった。僕を見る岡崎先生の目は真剣で、とても進路相談のついでとは思えない。

「君はどう思う? 『クローン』というものについて」
「……よくわかんないっすけど、まあ、人工授精とあんま変わらないのかもなとか……。思ってたのと、なんか違う感じっすね。映画とかのクローンってコピー人間みたいなイメージあったし。なんかグロいなって」
「そうか。僕が学生の頃にも、漫画とかで流行ったテーマだね。昔はもっとすごい勘違いがあったみたいだよ? 運命論みたいなことまで言われてたらしいね。遺伝子の中には、人間がどんな人生を送るかまで書かれてるって」
「へえ」

 眉唾ものだ。僕は素直にうなずいた。

「まあ、近年だと、そう単純なものじゃないって言うのがわかってきてるから……飼い猫のクローンを誕生させた実験だと、同じ遺伝子を持った体細胞クローンでも、毛の模様が全然違ったらしいね。猫の毛皮は染色体の関係になるから、遺伝子が同じでも必ず同じ見ためになる訳じゃない。コピーっていうのは、最近ではよく言われるけど、間違いなんだ。遺伝子は万能じゃないし、生き物はそんなに単純なものじゃない。電子データみたいに、完全に複製できるものじゃない――」

 熱の入った説明を吐き出してしまうと、岡崎先生は、どこか重苦しい色をその目に浮かべた。

「……クローンは、複製ではないよ。ましてや復元ではありえない。僕はそう思う」
「はあ」

 なんだかよくわからないけど、よく調べてるんだな。母さんも、何か熱中して調べてるときには食事のときもテレビのときもスイッチが入るたび講釈をたれてくるので、僕はいつものとおり、やる気のない相づちを打った。

「ところで先生、時間かなり過ぎてますけど。次のやつ呼んできていいですか」
「え?……あ! ごめん、長引いてしまったな」

 スイッチが切れたらしい。慌てて時計を見た先生に喉の奥で笑って席を立ち、僕はふと、思い出したように振り返った。

「あ、そういえば……先生、最初会ったとき、槙村に似てる知り合いがいるって言ってましたよね」

 少し、動揺したように見えた。
 怪訝に思う僕に、彼は少し痛みの漂う笑みを見せる。

「うん、似てるね。気が強いのに、悩み事を一人で抱えてしまうような子だったよ。……槙村さんが、どうかはわからないけど……君も気をつけてあげてほしい」

 僕は曖昧にうなずいた。まるで親戚のおじさんみたいな言い方だ。よほど、その似ているという知り合いに思い入れがあるんだろう。
 何となく聞くのも悪いような気がして、僕はそのまま美術室を後にした。
 初対面のときこそ妙に動揺していたものの、あれ以降、静帆に対する岡崎先生の様子は他の生徒と同じようなものになっていた。もしかしたら、静帆の親戚か何かなのかもしれないと思って気になってたんだけど、別に無理に聞くようなことでもない。――その人が元恋人だとかで、似てる静帆に手ぇ出そうってならその喧嘩は買うけどな。ロリコンってわけじゃないみたいだし、まあ大丈夫だろ。
 木枯らしの吹く廊下に、背中を丸めながら教室に戻ると、気まずい顔に出会った。
 ストーブでよどんだ空気がぴりっと張り詰めて、間に挟まれた信が居心地悪げに声を掛ける。

「あ、えーと、翔太。どうだった?」
「ああ……ま、ぼちぼちだってさ」

 なんだよそれ、とぎこちなく笑う信の隣で、修也が音を立てて椅子を引いた。乱暴に問題集を机に突っ込んで無言のまま背中を向ける。……折れてねぇかな、あれ。

「あ、修也、次だっけ」
「ああ。じゃーな」

 無愛想に言い置いて、修也は教室を出て行く。僕が何となくそれを見送っていると、信が気の抜けたため息を吐き出した。思わず、苦笑いが浮かぶ。

「わりぃな」
「……ほんと、頼むよ……僕、こういうの苦手なんだって」

 佐々原修也は、僕が所属していた陸上部の部員だ。部をやめる決定的な契機になったいざこざで、僕は地を這うような機嫌をそのままみんなにぶつけてしまった。
 思い返すと自分の吐いた暴言のすごさに青くなる。それは自分の中にあれだけの語彙があったのかと呆れるくらいの口の回りようで、修也をはじめとする陸上部の面々が、僕を許してくれるとは思わなかった。
 謝るべきだという気持ちはある。だけど、謝ったところで許されるものだろうか。
 そんなことを考えて躊躇している、自分自身に嫌気がする。

「気まずいのはわかるけどさ。いい加減謝らないと、あっという間に卒業だよ?」

 信のため息交じりの忠告は、木枯らしより、きつく身にしみた。





 日が暮れた頃に帰宅すると、母さんの怒ったような声が響いていた。
 どうやら、電話の相手は伯母さんらしい。じいちゃんの山にごみが不法投棄されてたときと同じ怒り方だ。呆れも入り混じって、相当感情的になっている。
 おばさんもかなり頭にきているらしくて、電話の向こうで早口で何かまくし立てているのが階段まで聞こえた。
 とばっちりを食ってはたまらない。ポテトチップスと牛乳パックを抱えて部屋に引っ込み、僕は深々とため息を吐き出した。夕飯までに鎮火してればいいけど、望みは薄そうだ。

 予想通り、母さんの怒りは食卓まで持ち越された。

「今日ね、篠崎の伯母さんから電話があったんだけど……」

 篠崎の伯母さんは、母さんの姉にあたる。父さんは夜勤の日で、聞き手は僕と姉ちゃんだけだ。だからか余計にぷりぷりしながら、母さんはご飯をよそった。

「正臣君、だまされたんですって。まったく、今になってそんなこと言うなんて……」
「だまされたって、誰に?」

 姉ちゃんが首をかしげた。憤懣やるかたない様子で、母さんが鼻息を荒くする。

「結婚相手によ。不妊症だったんですって」

 フニンショウ。聞きなれない言葉が、頭の中ですぐに漢字と結びつかなかった。
 それがどういう意味なのかをようやく飲み込んで、僕は思わず口を挟んだ。

「フニンショウって、子供ができないって、あれ?」
「そうよ。信じられないわ。卑怯じゃないの。姉さんがさんざん勧めなきゃ、検査もしないつもりだったんだからね。危うくだまされるところだったわよ」

 険しい顔で毒づく母さんの言葉に、心臓がどくどくと鳴った。
 そのとき電話が鳴り響かなければ、なんだよそれ、とでも噛み付いていたかもしれない。
 姉さんかしら、と部屋を出た母さんを、僕は呆然と見送る。
 ――なんだよ、それ。
 卑怯って? 子供ができないとだめなのか? 母さんの口ぶりだと、結婚もやめるような感じだった。
 幼馴染なんだよと従兄が幸せそうに笑ったのは、つい一月前のことだ。

「翔太」

 眉をひそめた姉ちゃんが、低く僕を呼んだ。

「……なんだろ、あれ。マジで言ってんのかな」
「本気だと思うわよ。……びっくりしたわ」

 ため息のような声に、僕も思わずこくこくとうなずく。

「翔太、早く食べて部屋戻んなさいよ」
「そうする」

 いつもおっとりしてる姉ちゃんが厳しい顔をしている。どうやら、僕抜きで母さんと一戦交えるつもりらしい。
 ぐるぐると頭の中で言葉が回る。
 好きだったはずのロールキャベツは、ほとんど味がしなかった。




photo by 男衾村 - 復興計画 (加工使用)