04 // Grasp all, lose all.

掴めそうなものが多いほど手に入るものは少なくなる。

「切る」
「cut-cut-cut」
「書く」
「write-wrote-written」
「置く」
「lie-lay-lain……あれ」

 綴りがわからない。固まった僕に、信が顔を上げた。

「音は合ってるよ?」
「いやちょっと待て、えーと、『 l 』『 i 』『 e 』で、『 l 』『 a 』『 i 』『 n 』で……あ、『 l 』『 a 』『 y 』か!」

 おおー、と信が拍手で返してくれる。付き合いのいい奴だ。

「じゃあ次、『乗る』」
「……ride……」
「……」
「……ridded?」
「うーん……惜しい。ride-rode-ridden」
「がー!!」

 僕は頭をかきむしった。さっきから引っかかってばかりなのだ。そのまま理科室の大きな机に脱力した僕を、信が困ったような顔をして見下ろす。

「まーずーいー……なんかもー本気でまずいって、これ」
「そんなことないよ。だいぶ間違いが少なくなってるし。翔太の場合、長文はけっこういいとこ行ってるんだし。慣用句と単語どうにかすれば、なんとかなるよ、英語は」
「うー……そうかあ?」
「後は根性しかないんだからさ。頑張ろうよ。槙村さんと同じとこ行きたいんだろ?」

 僕は机に顎を乗せたまま、ぶすくれて信を見上げた。
 ぼけっとした見た目と性格をしているくせに、こいつはとんでもなく記憶力がいいのだ。ことスポーツの話になるとジャンルを問わず過去十数年分の記録がすらすらと出てきて圧倒される。暗記の多い英語や社会はお手の物だ。

「……そのメモリをおれに分けろ……!」
「えーと……この場合、メモリじゃなくてハードじゃない?」
「どっちでもいいから分けろっ!」
「そ、そんなこと言われても、無理だよ……」

 南高は静帆なら普通に入ることのできるレベルだけど、僕はかなり頑張らないと危ないレベルだ。不毛な言い争い(というより、僕の一方的な八つ当たり)を繰り広げていた僕らに、おかしそうに笑う声が聞こえた。

「あ、いや。ごめんごめん。僕も同じこと言ってたなあって、思い出しちゃってね」

 おかしそうにしながら謝ったのは、岡崎先生だった。

「頑張ってるね。お昼の時間も勉強かい?」
「え……えーと、こぼしたりとかはしてないっすけど……」
「ああ、別に注意してるわけじゃないよ。確かにここは静かだしね。さすがに室内野球だったら、壊れたら怖いものが多いから困るけど。標本って結構高いんだよねぇ。びっくりするよ」
「あー……」

 二年のときに共謀して人体模型に落書きした前科のある僕は、不自然に目をそらした。頭の上がらない様子を見て、信が吹き出しそうなのを必死に堪えた顔をする。
 ついつい引け腰になってしまうのには、一応の理由がある。岡崎先生は、僕に、そのまま職員用ロッカーを貸してくれたのだ。もともと男性用のものが一つだけ空いていたのを、マユミ先生が教頭に掛け合って使わせてくれたものだったから、さすがに駄目だろうと思っていた。
 驚く僕に、『運動会も球技大会も終わってるし、僕の部活の担当は美術部だしね。物置ならほかにもあるから』と笑った後、彼は何でもない口調で付け加えたのだ。『でも、機会があったら、頑張って仲直りしようね』――そのときの僕の気持ちは、どう言えば解ってもらえるだろうか。痛いところを突かれたと言うのか、ほじくり返されたというのか、情報提供元であろう前の担任に恨み言を叫ぶべきか。ともかく過去の行状を思い返させられて、悶絶しそうなほど恥ずかしかった。
 そのことも大いに影響しているんだろうけど、僕はこの教師に割と好感を持ち始めていた。いかにもといった見た目を裏切らず、彼が真面目で人のいい教師だとわかったからだ。
 ただひとつ、彼が見た目を裏切ったのは、年齢だった。そりゃあ確かにスーツに着られてるような違和感はなかったけど、大学生と言われても信じそうなあの顔で、実年齢がなんと三十二。彼が照れたように質問に答えたあの瞬間、クラスは真剣にどよめいていた。童顔にもほどがある。
 ともかく、そこそこ顔が良くて物腰の丁寧な好青年とくれば、女子が放っておくわけがない。早々に人気を獲得した岡崎教諭にとって、問題なのはこれから男子と親しくなれるかどうかだろうと、僕はこっそり合掌していた。
 ところがその同情は、意外な方向に杞憂となった。
 授業が面白いのだ。ニュースやら映画やら漫画やらには、思っていた以上に中学生の化学というものが含まれているらしい。「理科」って範囲の広いカテゴリーで面白いんだよとにこにこ笑う先生を見て、授業が上手いってこういうことかと、僕は妙に納得した。
 先生は機材とプリントを入れた段ボール箱を、よっこいしょと似合わない掛け声とともに机上に降ろした。パソコンと円盤状の機器に興味を引かれて、僕と信は身を乗り出す。

「なんすか、それ?」
「プロジェクターだよ。次の授業で使おうと思って……ここなら暗幕もあるしね」
「うわ、もしかしてホログラフィーですか!? 立体映像の! これ日立の最新式ですね!」
「見たい?」

 嬉しそうな問い掛けに、僕らは揃って頷いた。
 パソコンを立ち上げた岡崎先生が、教材用のDVDをホログラフィーに映し出す。立体感を持つ映像が、いくつもの鏡を持つ円盤の上に現れた。緑色をした二頭身のキャラクターが、そのままぐるんとバック転をして話し出す。長い耳と出っ歯はウサギに似ているような気もするが、あんまりかわいくない。ただ、その質感は驚くほど細密だった。

『やあみんな! ボクはミッチャー。今日はボクと一緒に、遺伝子の不思議を探検しようか!』



       *


 出だしこそまともだったものの、遺伝子産業の民間会社が作ったらしいそのビデオは、相当笑えるものだった。
 暗幕の引かれた生物室の中央、目新しいものに惹きつけられたクラスメイトの注目を一心に浴びて、空中に立体化した「ミッチャー」は溌剌と声を上げる。

『みんな覚えてるかなっていうか生まれてないね! 時はまさに世紀末の1996年7月、ノストラダムスの大予言より3年ほど前ってわけだ!……え? ノストラダムスって誰かって? ウッソ、わかんないの!? まァ昔の有名人だとでも思えばいいよ!』

 現れたのは、円盤のようなものの上に羊が乗ったCGの雑誌だった。見出しは“A flock of clones”……clonesってのは多分クローンだろう。flockって何だ? 羊はsheepじゃなかったっけ。そんなことを思っているうちに、映像は実際の羊に移る。

『それはともかく1996年。イギリスで世界初の体細胞クローン羊、「ドリー」が誕生した! そりゃーもう、ビックリ仰天だったさ! こーんな感じに日本でも大騒ぎだ!』

 ぐるぐると新聞の記事が回っていく。全方向にテレビの画面がアップで映り、有識者が真顔で告げる。ミッチャーも歌うように口真似をした。『これは大変な問題ですよ』!
 その言葉と同時に、シュンと音を立てて映像が一点に集約した。

『さてはて、初めてのデビューで世界を震撼させた体細胞クローン・ドリーちゃんだけれども、みんなはクローンって何か知ってるかな?』

 円盤の上にアルファベットが浮かぶ。Klon。それがぐにゃりと変化してcloneに変わる。

『クローンってのはギリシャ語の「小枝」からきた英語だ! 生物学的に全く同じ遺伝子を持つ生物や細胞をいう! この、からまったバネみたいなぐるぐるがDNAだ。遺伝子はこの中にあるんだね。これは、アデニン・チミン・シトシン・グアニンっていう4つの塩基が並んでできてるんだけど、これの並び方は個体によって違うんだ!』

 文字の後ろに、丸の連なった螺旋が回り始めた。色とりどりのそれが大きくクローズアップされて、アルファベットが書かれているのが見える。

『要するに、遺伝子ってのは基本的にオンリーワンのものだ。その個体だけのもので、親と子供だって似てるけど違う。基本的に、同じものはひとつだってない! その遺伝子が全く同じ個体を作ろうってのが、即ちクローン技術というわけだ』

 ぴょんとミッチャーが飛んだ途端、人間の模型が現れる。平らだったものが膨らむような効果は肉眼で見ると圧巻で、そこかしこから感嘆に似た声が漏れた。

『哺乳類の体ってのは、ほとんどがタンパク質でできている! 歩くのも座るのも食べた物を消化するのも排泄するのも全部、脳からの命令をタンパク質が筋肉に伝えてるんだ! 遺伝子は、このタンパク質を作るためのデータベースってわけだね。動物の作り方が詰め込んであるわけだ。
 ……んん? 設計図みたいなものかって? ちょぉっと違うかな! 同じ遺伝子をもっていても、育つ環境で個体は変化するからね! 片方はぶくぶく太って片方はやせっぽちってのもありうるんだ!』

 僕は意外に思って、ミッチャーの両脇で高速成長していく羊の姿を見た。
 ひょろひょろと折れそうな羊と食肉用になりそうな丸い羊が同じ遺伝子の動物だと言われても、いまいちぴんとこない。

『さて、この遺伝子というデータベースは、細胞の核の中にある。つまりクローン技術ってのは、このデータベースを入れ替えてしまうことで、その個体が生まれたときとおんなじ受精卵を作って、おんなじ遺伝子をもつ生物を作る技術だ!』

 受精卵と成体の羊が並んで、一部が大きく拡大され、細胞の中身をイメージした映像が映し出された。ミッチャーの奇妙に小さな手が伸びて、その細胞から赤い丸を取り出して、別の丸を細胞の中に突っ込んだ。その動作に息を詰めてしまった僕は、リアリティがあるのも考え物だと顔をしかめる。ただの映像なのに痛そうに思えた。
 当たり前だけど、そんな僕の困惑に構うことなく、ミッチャーは細胞の周りをくるくる回る。

『哺乳類のクローン技術には、二つの種類がある。受精卵クローンと体細胞クローンだ。何が違うかっていうと、取り出した後に入れ替えるデータベース・核の年齢が違う。簡単に言っちゃえば、受精卵クローンってのは生まれる前の細胞から取り出した核を使ったクローンで、体細胞クローンってのは、成長した個体から取り出した核を使ったクローンなんだ! みんながイメージするクローンは、成長した動物のクローン、すなわち体細胞クローンだね?』

 細胞が弾けるように消えた。次に現れた卵の映像に、オタマジャクシが飛び込む。

『受精卵クローンってのは、子供が出来る初期の段階の受精卵を使う。こーんな感じに受精した卵子は「胚」っていうんだけど、まあ名前の通り哺乳類版の卵ってとこだね! これがこの後どんどん細かい細胞に分かれて分かれてを繰り返して『動物』になるわけだ。この段階で取り出した核を使うのが、受精卵クローンと呼ばれるやり方だ』

 ミッチャーが長い両手で浚うように映像を払うと、無意味なくらい派手な音楽とともに、再び羊の映像が現れた。

『さてこの「ドリー」だけど、彼女は違う! 大人の哺乳類から核を取り出して、受精卵にぐぐっと埋め込んで作る体細胞クローニングでの、初めての成功ってわけだ! そりゃ大騒ぎにもなるね! ちなみにこのドリーちゃん、乳腺細胞の核をもらったってことで、巨乳の人気歌手ドリー・パートンさんから名前をもらったらしい! まっさか巨乳ってだけで世界初の体細胞クローンに名前を使われるなんて、彼女も思っちゃいなかっただろう! 許可もらってたのかねぇ? まあいいや!』

 無責任に言い放って、ミッチャーはばねのように伸びた手で羊を引き寄せた。両手で二つに分けられた羊は、それぞれが個体の映像に変わる。

『ともかくドリーは、核をもらった羊と完全に同じ遺伝子を持って誕生した! つまりこの二匹は、ぐるぐる螺旋の遺伝子に全く一緒の情報を持っていることになる!……え? 受精卵が同じって言うなら、双子だって同じじゃないかって? いいところに気がついたね! 実は一卵性双生児もこのぐるぐる螺旋は同じなんだ! 一卵性双生児っていうのは、最初は一つだった卵細胞が分裂した場合に生まれるものだからね!
 要するにクローンといっても、映画みたいな「オリジナルと全く同じ」個体にはならないってことだ。人間の一卵性双生児だって、遺伝子は同じでも性格は全然違うことのほうが多いよね? もちろん指紋だって違う――』

 予想外の指摘に、僕は思わず辺りを見渡した。ミッチャーの甲高い声は当たり前のように説明を続けていたけれど、双子が同じ遺伝子を持っているなんて考えもしなかったからだ。だけどきょろきょろしてみても、誰にも困惑した様子はない。僕は居心地の悪さに肩をすぼめた。教壇に近い机にいた静帆は、何だか不機嫌そうに頬杖をついて映像を見ていた。
 ヒュンと音がして、羊の映像が縮まる。

『――人類の科学はクローンを実現した。さて、それはどんなことに応用できるのかをご説明しよう!
 クローン技術ってのは、同じ遺伝的特徴を持つ動物をたくさん作り出すことができる。つまり、人間が選んだ特徴を持つ動物をたくさん作り出すことができるんだ! たとえば、おいしい牛肉をクローンで作ったり、病気の治療に必要な薬を乳の中に分泌する羊を作ったり、トキとかパンダとかの絶滅しそうな動物をクローンで絶滅回避したりね!
 ……あ、なんだそりゃって思う? そうだよねぇ、特に最後の! クローンで同じもの大量生産して種の保存をやってみようなんて、ブラックジョークだよホント。人類70億人が一卵性双生児ならぬ70億生児になってみるとこ想像してみなよ! どれもこれも同じ顔! 笑えないね!
 まァ賛否両論あるだろうけど、それは置いといて本命に行こう! それは、今日本で一番注目されてる、人工臓器の製造だ!』

 研究所のような映像が現れた。ミッチャーが振った右手に、黄色いカードが飛び出す。臓器提供の意思表示カードのようだ。そういえば、姉ちゃんがちょっと前に母さんに怒られていた。あれはこういうことだったのか。

『臓器移植で問題となるのは、ドナー、つまり提供者の不足と、異物への拒否反応だ。1997年に臓器移植法ができてから、提供される臓器の幅は少しだけ広がった。だけど、移植が必要な人の数に対して、提供者の数は圧倒的に少ないんだ。特に心臓の場合、年間200人から600人の人が新たに移植を必要としているのに、実際に日本で移植手術を受けられた人は、1年間に10人もいない。腎臓は二つあるうちのひとつを分けてあげるってことが出来るから移植できることも多いんだけど、今度は拒否反応、免疫反応っていう問題がある。人間の体ってのはデリケートなんだよね。別のものを代わりにしようとしても、「何だこいつは俺じゃないぞ! 誰だ!」って、体が攻撃していっちゃうのさ。
 けど、クローン技術を使って臓器を作れば、もともとあったものと同じだから、この拒否反応が起きない! 提供者を延々と待ち続ける必要もない! しかしクローン人間をわざわざ作って臓器を取り出すなんて、そいつはちょっとあんまりだ。
 そこで! クローン技術は細胞生物学の手を借りる!』

 胚の映像が映し出され、一部分が輝かしく点滅を始めた。

『人間の胚にはいろんな細胞になることができる、ES細胞というものが存在する! つまり、この細胞から臓器だけを作り出すことが可能なんだ! クローン技術を使ってこの細胞を作り出すと、遺伝情報がほぼ100パーセント同じ臓器を作り出すことが出来る。これなら、クローンの個体を作ることなく臓器だけを製造できるね! 細胞分化とクローン技術と組み合わせることで、臓器移植は、ぐっと有効なものになるんだ!
 人間の受精卵を使うってことで、カトリック中心に色々と議論は巻き起こった。ヨーロッパの多くの国々は、ドリーが生まれた後に相次いでヒト受精卵での研究を禁じたしね! ヒトに許される境界はどこだとか、クローン技術は本当に安全なのか――そんなふうに長い長い遠回りをしてきたこの技術について、2019年、日本でクローン法がようやく改正された!』

 馴染み深い皺顔の首相が、映像のテレビの中に渋い表情で映った。
 そのまま画面が遠ざかっていく。どうやら、国会議事堂の中らしい。

『それまでのクローン法は、人間のクローンを作っちゃいけないとか、人間とほかの動物の遺伝子を混ぜちゃいけないとか、そういう大雑把なところしか決めてなかったんだ。だけど今回の改正で、ES細胞を利用した臓器製造が現実のものとなる! ほかにも不妊治療としての使用・研究が認められたね! ただし安心してくれ、これらの研究や製造はすべて国の認可を受けた機関でしか認められていないからね! クローン技術が濫用されることはまず考えられない!』

 一番最初と同じ、軽快な音楽が流れた。
 その中で、ミッチャーは最後まで大げさな手振りのまま言葉を結ぶ。

『医療目的の使用が国のお墨付きを得たことで、日本のクローン技術は大きな転換点を迎えた! 今後はさらに変化が進むだろう!
 こんな風に、クローン技術には色んな可能性がある。もちろん問題点も山ほどあるね。だからこそ、みんなで考えて、話し合うことが必要なんだ!』




       *


 教室に帰る階段で声をかけると、振り返った静帆はやっぱりどこか機嫌が悪かった。
 いつも一緒にいる友達が、先に行ってるねと肩を叩いていく。

「何?」
「今日、おれ進路相談なんだよ。順番遅いから、先帰ってていいぜ」
「わかった」
「……何ふてくされてんだ?」

 ようやく訊ねた僕に、静帆は膨れっ面のまま、視線を落とした。

「だって、お弁当にトマトが入ってたんだもん」
「はあ」
「きらいだから入れないでって言ったのに、やっぱり入れちゃうの、お母さん。ひどいでしょ?」

 何やら本当に怒っているようなので、首を傾げた。僕には特に嫌いなものというのがないから、そんなに腹を立てることなのかどうか、いまいちよくわからない。

「……栄養あるからじゃねぇの」
「だって、嫌いだって言ったら、『そんなはずないでしょ』って言うんだよ?」
「なんだそりゃ」
「ね? 訳がわかんないよ」

 むくれる静帆に、僕は重々しげに口を開いた。

「……そうか、わかったぞ。槙村一族には、代々トマトをこよなく愛してしまうという呪いが……」
「何言ってるのっ!」

 よっぽど嫌らしい。目くじらを立てて怒る静帆を、僕はまあまあと宥める。

「ともかくだめなの。あのつぶつぶ感が気持ち悪いし、あとで舌がちくちくするし……栄養ならほかの野菜でもとれるもん」
「それ、言えるのがいいよな。うちの母親だったら数日トマト漬けにされる」
「えっ」
「それか『文句があるなら自分で作りなさい!』だな。本気で言ってるから勝てねぇよ」
「あ……甘やかされてるって言いたいの?」

 拗ねた口調でつぶやいた静帆に、僕は喉を鳴らして笑った。
 年を取ってからの子供は可愛いって言うけど、静帆の両親は静帆を猫っかわいがりしている。本人にも、どうやら自覚はあるらしい。
 もう、とそっぽをむいた静帆を追うようにして階段を降りると、木枯らしが廊下を駆け抜けて、僕は思わず身震いした。

「寒くなったよなあ」
「そうだね。もうすぐ冬休みだもん。……あっという間だったね、中学って」
「そうか?……まあ、そうかもな」

 少し早すぎる感慨にも思えたけど、確かに、もう数ヶ月で卒業だ。受験がまだ終わっていないせいか、僕にはまだ先のことのように思えていた。
 ふと、僕は一段先を降りる静帆を見た。

「クリスマスなんだけど――」

 静帆が驚いたように振り返った。言葉の先を察したのだろう。
 付き合い始めて半年以上経つが、僕らはいまだに、デートらしきものをしたことがない。受験生だということもあるけど、春休みも夏休みも、僕の足が自力で移動できるような状況じゃなかったからだ。

「……どっか、行きたいとことかあるか?」
「海!」

 目を輝かせて即答された。僕は思わず顔を引きつらせる。

「泳ぐのかよ?」
「違うよ、見に行くだけ」
「……なんで冬にわざわざ」
「だって、夏は行けなかったでしょ?」
「そりゃまあ……つーか、そんなに海が好きか」
「うん。だめかな」
「いや、いいけどさあ……すっげぇ寒いと思うけど」

 うかがうように上目遣いで訊ねられて、僕はうろたえて顔をそらした。彼女を可愛いと思うことは、やたら僕を落ち着かなくさせた。居ても立ってもいられないとでもいうのだろうか、ともかくむずむずする。

(海ねえ)

 凍みるほど寒いだろうけど、別に電車を使わなきゃ行けないほど遠くはない。金もかからない。冬でも日本海のように荒れてはいないだろうから、別に危なくもない。考えてみれば、無理難題という訳でもないだろう。

「了解。海だな」
「約束ね」

 こぼれるような笑顔で小指を差し出された僕は、気恥ずかしさに途方に暮れて立ち尽くした。

photo by Wish