うちの朝は、なぜか毎朝あわただしい。母さんの性格のような気もするけど、そう言ったら目鯨を立てて怒るだろう。
ロードワークの習慣と、静帆との約束も手伝って、僕は大体同じ時間に家を出る。時計を気にしながら教科書を詰めこんだ鞄に弁当を押し込んでいると、母さんが唐突にドアを開けた。
「ちょっと翔太! あんたこれ持って行きなさい!」
「は?」
贈答品ですと主張する派手な包みを押し付けられ、僕はあっけに取られて母さんを見た。
「いい、あんた真弓先生にはさんっざんお世話になったんだからね。ちゃんと、お礼言うのよ!」
「はあ……わかった」
「はあじゃないでしょう! まったくねぇ、母さんも本当なら、ご挨拶に行きたいとは思うんだけど……」
「げっ! やめろよ、なんで保護者が来るんだよ!」
「……翔太! あんたまだ、それくらいのことやってたんだって意識が――」
思わず反論してしまった僕に、母さんがまなじりを吊り上げる。朝っぱらから本腰を入れた説教を浴びせられそうになったところへ、姉ちゃんの暢気な声が水を入れた。
「母さぁん、あたしの保険証知らない?」
「ええ?……このあいだ歯医者行ってたじゃないの、まったく……!」
助かった。矛先がそれているうちにと、僕は急いで鞄を引っ付かんだ。廊下をこっそりと抜けた僕に、母さんに怒られている姉ちゃんがこっそり目くばせする。サンキュ、と片手で拝んで家を出た僕は、そのまま逃げるように駆け出した。
僕が住んでいるのは、区域的には自転車通学の地域だ。ただここのところ、トレーニングという聞こえのいい単語でごまかして徒歩で通学している。
静帆はもう待ち合わせの場所にいた。僕に気付いていつものように笑ったので、僕もつられて笑う。
「よ」
「おはよ、翔太。……それ、どうしたの?」
「あー、賄賂?」
疑問形で頭を掻くと、静帆が首を傾げた。
「ああ、黄金色のお菓子」
「むしろ袖の下とか」
「普通わかんないよ、それ」
おかしそうに笑って、静帆は僕のかばんを受け取った。自転車のペースにあわせて僕は走り出す。抜釘から一月近く経って、足の調子は大分戻ってきている。気分はすこぶる良かった。
「マユミ先生に渡すんでしょ? 成績もう出るんだし、賄賂は変じゃないかな。素直にお礼とか、感謝の気持ちとか……」
「だったらやっぱ花束だろ。……何だろうな、これ。割れ物じゃないだろうけど」
「あ! 駄目だってば、振ったら!」
静帆が慌てて僕を止める。紙袋の中の平べったい箱は、振っても大した音がしなかった。
テストが終わり、冬が来る頃には、僕らはなんとなく一緒にいることが多くなっていた。確か最初は気恥ずかしさに言い訳できるような理由があった気がするけど、一度習慣にしてしまえば、不思議なもので気にならなくなる。
学校についたのは始業の三十分前で、校内には人気が少なかった。自転車を停めに行く静帆と別れて、僕は職員用の更衣室に足を向ける。
マユミ先生が融通してくれたロッカーも使い納めだ。筋トレとロードワークと受験勉強で、僕は時間をやたらと惜しく感じていた。ただ走っているだけでは落ちた筋力は効率良く戻らない。だけど筋トレばかりは正直言ってつまらない。受験で勉強に時間を取られるこの時期には、一石二鳥の時間確保だった。問題は制服だったのだ。
――ちなみに陸上部には、いまだ戻れる状況じゃない。自業自得だ。面と向かって頭を下げれば少しは違うのかもしれないけど、今さらだと白けられそうな気もする。それだけの度胸は、卒業が近くなった今でも、まだ形にならない。
汗を拭いて制服に着替えると、僕は渡り廊下の前で、ぼけっと静帆を待っていた。
中庭には落葉樹が寒そうにして立っている。色の減った冬そのものの景色を眺めてた僕は、ふと、他に人影があることに気付いた。スーツを着て身をかがめているのは、若い男だ。まだ三十には届かないだろう。箒とちり取りととゴミ箱の組み合わせで、どうやら掃除をしているらしいことがわかる。
(見ない顔だな……)
保護者の年代には若すぎるから、多分新任の教師だろう。うちの校長は清掃奉仕が心の教育だのなんだのと豪語していて、新しく赴任してきた教師はまず総じてこの洗礼を受ける。マユミ先生の産休自体時期外れではあるものの、もう新しい教師が来ているんだろうか。部外者がスーツ着て掃除してるわけはないだろうけど、なんだか首をかしげてしまう。
とりあえず、挨拶しとくべきか。僕がそんなことを思いながらぼんやり見ていると、男がドラム缶のゴミ箱に蹴つまずいた。
当然、それはガラガラと派手な音を立てて、中身をアスファルトにぶちまける。
(うーわ、鈍くせぇ)
内心で呆れながら、僕は足元に転がってきたゴミ箱を拾い上げた。
そこで初めて僕に気付いたのだろう。人のよさそうなその男は、苦笑いを浮かべて頭を掻いた。こうしてみると随分背が高いのに、頼りない雰囲気があるのはなぜだろう。
「ええと、おはよう」
「おはようございます」
こころもち頭を下げて挨拶すると、彼はやたら嬉しそうな顔をしてゴミ箱を受け取った。
「ありがとう。……早いんだね、朝練かな?」
「似たようなもんです」
「そうか。頑張ってるんだね」
突っ込まれるだろうかと思いながら返すと、あっさりと納得されてしまう。
はあ、まあ、と僕が曖昧な返事を返したところに、はきはきした声が割って入ってきた。
「あ、先生! 今日の……あら東君。いやだ、そろそろそんな時間なのね」
色を抜いた髪を一つに束ねた女性は、今日まで担任のマユミ先生だった。派手な印象の顔立ちとは逆に、闊達な話し方は演説をしているように力強くて特徴がある。保護者も生徒もまず、公務員らしからぬその外見にあっけに取られる人だ。
「……おはようございます」
「はい、おはようございます。東君、こちら岡崎先生。卒業までうちのクラス受け持ってくれるのよ」
「はあ」
よろしく、と新任教師――岡崎先生が相好を崩す。やっぱりそうなのかとうなずくと、マユミ先生はどこか笑みを含ませて僕を見た。……何か、嫌な感じだ。
「岡崎先生、幸先いいですよー。我がクラスの問題児を、もう一人手なづけちゃったなんて!」
「誰が手なづけられたんすか」
「あら。問題児ってのは否定しないのね」
その通り、否定はできない。面と向かって暴言を吐きまくったのはたった一年前だ。忘れたくともまだ覚えている。覚えちゃいるが、これはもしかして仕返しなんだろうか。お礼参りは生徒の特権のはずだぞ。
胸中でぼやきながらふてくされて黙りこんだ僕に、マユミ先生がからからと笑って背中を叩いた。
「冗談冗談。ちょっと口は悪いけど、根性のある良い子ですよ。よろしくお願いしますね」
「はい。頑張ります」
教師二人ですっかり和んでいる。僕はむずがゆいやら気恥ずかしいやらで頭を掻きむしりたい気分になりながら、居心地悪く視線を外した。
「翔太、これ忘れて……! ……あ」
紙袋を掲げた静帆が、僕と一緒にいる二人に気付いて、気まずげに口ごもった。大人の前で名前を呼びあうのは、確かに少し気恥ずかしい。
「ああ、それか。悪い」
「あ、ううん。先生、おはようございます」
きちんと腰を折って挨拶した静帆に、マユミ先生が僕を斜めに見た。
「おはようございます、槙村さん。相変わらず仲がいいのねぇ」
「あ、う、その……」
「……だから、そこで口ごもるなって……」
真っ赤になって静帆はうつむく。その反応を面白がられていることにいい加減気付いて欲しい。
ため息をつきたい気分で隣を見た僕は、岡崎先生の顔にぎょっとして息を飲んだ。
(……?)
僕はそのとき、それを、ホラー映画で出てくる種類の顔だと思った。顔を引きつらせたその感情の正体を、無意識に「恐怖」だと感じたのだろう。
静帆も困惑した顔で僕を見た。ぎこちない空気に気付いて、マユミ先生が僕らの方を振り返り、いぶかしげに首をかしげた。
「先生? どうかなさいました?」
「え? あ、ああ……いえ、昔の知り合いに似ていて……すみません」
彼はようやく、笑みに似た表情を作った。青ざめたままの顔では凍った空気を溶かすには足りなかったけれど、どうにか動揺を飲み込もうとしてぎこちなく声を絞る。
それにしても驚きすぎじゃないだろうか。静帆はそういったことにやたら気を揉むので、僕は淀んだ空気をどうにかしようと、道化じみた大げさな声をマユミ先生に投げた。
「ところでマユミ先生。これ、おれの気持ちです。受け取ってください」
「まあ、東君……気持ちは嬉しいけど、私には主人とお腹の子供が……」
察しのいい先生が、わざとらしい苦悩の表情を作る。あっけにとられる二人分の視線を受けながら、僕はパタパタと手を横に振った。
「いや、おれも年増よりは若い方がいいっす」
「うふふいい度胸だわー」
「いてててて!」
頬をつねり上げられて悲鳴を上げると、静帆がようやく笑った。
僕はそのことにほっとしながら、マユミ先生が放した頬を撫でる。結構本気で痛かったんだけど、もしかして本当に怒ってたんだろうか。
「しょ……東君、ずっと気にしてたんですよ。マユミ先生が担任で良かったって言ってました」
「あら、あの東君が?」
「あのってどのっすか本人目の前にして! 静帆、お前も余計なこと言うなよ!」
「あはは、本当のことじゃない」
「だから暴露すんじゃねー!」
静帆は笑いながら先生にぺこりと一礼して、逃げるようにきびすを返す。
追いかける僕は、気付かなかった。
まるで頭を殴られたかのように、立ち尽くした男の姿に。
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