02//The wish is father to the thought.

願いは叶うと愚かしいほどの無邪気さで信じ込んで。

 東翔太あずま しょうたという僕の名前は、一時期胡散臭いくらいに華々しく紙面を飾ったことがある。
 たかだか3000mの中学新は、本当なら全国紙に載るほどのことじゃない。ただ、それまでの記録を12秒も縮めたこと、舞台が国体だったこと、前年のオリンピックでマラソン選手が世界新を出したがために、陸上が注目されていたこと――そんな要素が入り混じって、僕の名前は地方紙では一面で、全国紙では隅っこに、活字として登場したのだった。
 今、こんな風に他人事のように思い返せるのは、ひどく不思議な気がする。
 やったことよりも大きすぎる注目と期待に、僕はうかれていた。コーチや父さんはそれを不安に思っていたのだろう。口うるさく思いあがりをたしなめられはしたものの、がらりと変わった周囲の反応は、そんなものを押しつぶしてしまうくらいの勢いだった。誉められたりけなされたり妬まれたり、良いことも悪いことも数え上げればなかなか色々とあったけれど、それまで話したことがなかったようなやつと友達になったりした。女の子に初めて告白された。有名な私立高校から気の早い推薦入学の連絡が来たりした。

 それは全部、僕がたった三ヶ月で失ってしまったものだ。

 ――その日は傘をさすほどでもない雨が降っていて、時刻は夕方にかかっていた。通い慣れた道だったし、車の通りもそう多くない。ただ、その道は国道に合流する道だった。信号待ちの時間が長いせいで、スピードを出す車が多いことは知っていたはずなのに。
 左右も見ないで無防備に道路を横切った、あの瞬間を何度も夢にみた。薄く暗がりに沈んだ道を無灯火の車が走ってきて、角に引っ掛けられるようにして跳ね飛ばされる。湿ったアスファルトの感触に追い付くように、焼けるような痛みが右足を駆け上がってくる。
 悲鳴さえ出なかった。朦朧とする意識の中で、僕は必死に何かへ願っていた。
 いやだ、嘘だ。そんなうわごとを言っていたと、後から聞いた。すぐそばにあったガソリンスタンドからアルバイトの大学生が駆け寄って、あわてた様子で何かを怒鳴っていた。
 あのときには、もう、予感がしていたのかもしれない。
 それでも、手術後に、人のよさそうな医者が深刻な表情で複雑骨折だと告げたときには、打ちのめされるような衝撃を覚えた。

「複雑骨折というのはね、骨が粉々になってしまったものをいうんじゃないんだよ。解放骨折ともいってね。折れた骨が皮膚とか、皮下組織を傷つけて外に出てしまった骨折のことをいうんだ。……君の場合は、頸骨と腓骨が破断してしまっている」
「治るんですか」

 急くように問いかけた僕に、彼は視線を落とした。
 リハビリをすれば日常生活に支障をきたさない程度には回復する。僕にはまるで、それが言い訳のように聞こえた。
 もう二度と、走ることはできない。どんなに頑張ってもどんなに願っても、この足はもう二度と走らない。
 絶望感は紙に浸した水のように、じわじわと僕を満たしていった。
 痛みで眠れずに夜中に泣いた。吊り上げられた足は心臓がもう一つ脈打っているように痛むくせに、感覚がなくて苛立った。
 立つどころか身動きさえできず天井を見上げる日々は、僕の神経をささくれだたせた。感情の全部が怒りに形を侵食されていく。僕は何もかもに腹を立てて、怒鳴り散らすことが多くなっていった。
 同情も嘲笑もたくさんだった。手当たり次第に苛立ちを振りまいていた僕から人が離れていったのは当たり前のことだったのだとも思う。だけど、その頃の僕にはそれさえも苛立ちの理由になった。当然、周りの気遣うような言葉も目も、次第に腫れ物を扱うようなものに変わっていく。
 そんなときだった。
 僕が、静帆と初めて話をしたのは。


 その頃、僕は意地になっていた。ようやく退院しても松葉杖を使わなければ歩くことができない状態で、入院していたときよりも浴びせられる同情の数が増えたこともあって、神経質になっていたのだろう。
 足は痛かったけれど、必要以上になにもかもさせまいとする周りが疎ましかった。だから学校恒例の大掃除のときには、わざわざ早めに担当場所へ向かったのだ。今考えると変な方向にむきになっていたなと苦笑してしまうけど、そのときの僕にはそれが本当に腹立たしかったのだ。
 美術室にたどり着くころには、既に息切れしていた。ちくちくと刺すような疲労感に舌打ちして重い引き戸をこじ開けると、鼻に付くアクリルの匂いが流れ出してきた。薄暗い部屋に並ぶ机は、絵を描くために斜めにすることができるもので、他の授業に使われるものよりも大きい。そのせいだろうか、美術室は広い割に狭苦しくて、薄暗い印象を覚える。
 僕は手近にあった箱のような椅子を引きよせて、足を休ませた。じん、としびれるような痛みは音を立てたように感じた。休み時間いっぱいを移動に費やしたおかげで、クラスメイトが来るまでにはまだ余裕がある。
 松葉杖での歩行で痛くなった腕と脇をこすりながら机によりかかって、絵の具臭い部屋を見渡す。目に入った様子は否が応にも大掃除の面倒さを主張してきた。授業で使いっぱなしにされた色水のバケツ、その中に突っ込まれた筆も床だの机だの水場だのにこびりついた絵の具も、探せばいくらでもやることは湧いて出そうだ。
 ふと、僕は妙な感覚に顔をしかめた。

(……ん?)

 美術室は、美術部の活動場所でもある。授業でやっているようなものとは明らかに素材の違う描きかけのキャンパスが、あっちこっちを向きながら教室の後ろに並んでいた。
 僕は悪寒のようなものを覚えて、松葉杖を床に突いた。体重を上から乗せるようにして足を動かす。外のざわめきに、ズキズキと痛む足の音がかぶさった。
 一番隅に立てかけられた絵の前に立ち、僕はひどい既視感を覚えて立ちすくんだ。

「……な……」

 頭を打たれたような気がした。目眩によろけて机に寄りかかり、僕は呆然とその絵を見た。
 川べりを走る、ジャージ姿の中学生がそこにいた。
 僕はそいつをよく知っていた。そいつが着ているパーカーのメーカーもつま先しか見えないシューズのブランドもそいつが走っている場所も、全て。

(……嫌だ)

 ざわめきが聞こえなくなる。――感覚を、思い出す。
 気道を洗うような朝の空気。均一な呼吸の仕方。踏み出す足の震動が芯に響く。

(嫌だ――!)

 僕は衝動的にその絵を床に叩き落とした。けたたましい音とともに雑音が甦ってきて、僕は自分が何をしたのか、ようやく認識する。
 美術室の扉が開いたとき身をすくめたのは、多分僕の中に罪悪感があったからだろう。
 戸口で呆然と立ちつくしていたのは、同じクラスの槙村静帆だった。無理やりに空気を固めたような沈黙が、ごちゃごちゃした教室に糸を張る。
 まきむら、と呼んだ僕の声は、ひどくぎこちない音になって落ちた。
 彼女については、大人しい子だという曖昧な印象しか持っていなかった。まともに話したこともなかったはずだ。彼女は青ざめた顔で床を見詰めていたが、やがて泣きだしそうに視線をそらした。

「……私……謝らないから」

 何を言われたのか、すぐには解らなかった。
 僕の頭の中は困惑と後ろめたさでぐちゃぐちゃで、言葉を忘れたまま息を詰めて槙村を見た。
 握りしめた手が、少し震えていることに気付いた。
 ――怯えているのだろうか。そう胸中に呟いて、僕はようやくその理由に気付いた。

「……これ、槙村が?」

 引きつった声が喉に引っかかり、僕はそこで、ようやく息をすることができた。かたくなにうつむいていた槙村は、顔を上げることでそれを肯定した。

「なんで……こんな――」
「……私はっ」

 槙村は反論のように僕の言葉を遮って、けれどすぐに、迷うように視線を伏せた。

「……私、東君のこと、ずっと知ってたよ。……あたしの家、東君の朝練のコースにあって、時々見かけてた。毎日がんばっててすごいなって思ってた。うらやましかった。すごく楽しそうで……走るの、すごく好きなんだなって……」
「……やめろ」

 押し殺した僕の声に、静帆は打たれたように声を強くした。

「やめないよ!……このままでいいの!? ほんとに、もう二度と走れなくてもいいの!? あんなに楽しそうだったのに、今頑張らなきゃもう二度と走れないかもしれないのに、ほんとに――!」
「やめろ!!」

 ガァン、と耳を打つ音が響いた。机の足に叩きつけた松葉杖は僕の手を離れて床に転がる。摩擦で熱くなった右手よりも、目の奥が熱を持っていた。
 無様だった。みっともないと思った。威嚇しても槙村はいつまでもそこに居座って、震えているくせに僕から目を離さない。自分の奥に押さえこんでいた何かが堰を切って溢れてくるような焦りに、僕はのろのろと松葉杖を拾って、不格好な沈黙の中から逃げ出した。
 美術室を出ても、ざわめきが遠かった。心音がうるさいくらいに存在を主張する。握りしめた拳を胸に押し付けて、僕はうなだれた。

 ――それでいいの?

 誰もそんなことは言わなかった。腫れ物に触るような曖昧な顔は、可能性なんてないんだと言っていた。憐れまれていた。

 ――走りたくないの?

 走りたい。
 それしかないんだ。他の誰かじゃない。僕自身が、走っていることでしか生きていると思えない。だけど怖い。頑張っても努力してももう二度と走れなかったら、どうすればいい?

 ――今頑張らなきゃ、本当に、

 誰も言ってくれなかった。
 頑張れなんて、頑張って良いんだなんて、そうすれば可能性があるだなんて、そんな無責任で勝手な台詞を――僕が、何よりも求めていた言葉を。





 リハビリを始めるのは簡単だった。何もしないということは、僕の気持ちに相当な負担をかけていたらしい。目的を持って体を動かすようになっただけで、随分楽に眠れるようになった。リハビリのリの字も言い出さなかった(今考えれば、言い出せなかった)母さんにも、このまま甘えさせていては駄目だと言う思いがあったのだろう。スポーツクラブに通いたいと言い出した僕に二つ返事でうなずいたあと、ひどくほっとした笑みを見せた。 
 毎日がまた、意味をもって動き始めた。まもなく松葉杖が取れ、そげ落ちた筋力を取り戻すために僕は本格的なトレーニングを始めた。事故の前と同じくらいに回復する見込みは相変わらず低いままなのに、それが、いつの間にか辛くはなくなっていた。もう一度走りたかった。
 好きだからやるんだ。走りたいから努力するんだ――記録を二の次だと思えるようになれば、地道すぎるリハビリも苦ではなくなった。そのこと自体が、僕にはとても嬉しかった。
 槙村は、あれ以来あからさまに僕を避けていた。
 全身でおびえにおびえて「ごめんなさい」と言っている彼女と、美術室であれだけの啖呵を切った彼女にはやたらギャップが激しくて、僕はなんだかそれを見るたび、笑い出したいような衝動を押さえ込まなければいけなかった。
 そのときにはもう、僕は彼女を好きになっていた。
 逃げる彼女を捕まえて告白して、ほとんど反射で断られて、落ち込んで復活して再挑戦してオーケーの返事をもらうまで約三ヶ月。我がことながら考えると涙ぐましいものがあるけど、今はこうして「お付き合い」するに至っているのだから、不満らしい不満はない。
 事故から一年が過ぎようとしていた。リハビリも順調だし来月の市民マラソンには出られるだろうと鼻歌でも歌いそうなところで、折れた骨の代わりに埋めていた金属柱を抜く手術を受けたのだ。
 思いもしないところで蹴つまづくとは、夢にも思わないで。

「……イライラしてるねぇ」

 家にいるよりも学校で共同生活を行うほうが、足は痛いし移動は多いしで当然のことながら疲れる。自転車の後ろでぶすくれた僕に、静帆が呆れたように苦笑した。

「だってもーなんつーかもー、支え抜いただけなのに何でこんな痛いんだよちくしょう。すぐ走れると思ってたのに」
「焦らない焦らない、ひとやすみひとやすみ」
「うーわ無責任」
「だって他に言うことないでしょ? 代わってあげられないもん」

 さらりと受け流して笑った静帆は、少しだけ語尾をため息に混じらせた。
 女の後ろに乗っけてもらうというのは、余り格好のいいものじゃない。疲れてふらふらになってるのに何言ってるのと説得されなければ、多分這いずって岐路に着くことになっていただろう。抜釘前はジョグでついていける速さだったから、思うように行かない自分の足に不満はふつふつと湧いた。

「……抱きつくぞちくしょう」
「転んだら痛いよー?」

 本気にしていない様子で静帆が笑う。足が治ったら覚えてろよと僕はうめいたが、実のところ、ネックになってるのは足の不自由さじゃない。

「そういえば、聞いた? マユミ先生のこと」
「ああ……産休早めに取るって話か」
「残念だなあ、一緒に卒業できなくて。……新しい先生ってどんな人かな」
「おれは美人で若い女教師を希望するね。親友のために」

 静帆はおかしそうに笑った。

「細井君、マユミ先生好きだったもんね」
「知ってたのか?」
「うーん、なんとなく、そんな感じしなかった?」
「……そんな感じ……」

 どんな感じだと僕は考え込む。どうして静帆は気づいてるのに僕は気付かないんだろう。今日のあれくらいあからさまならわかるけど、それまでそんな素振りを見た覚えはない。

「まあいいか。……そういえばさ、シズ、もう高校決めたか?」

 聞こう聞こうと思いながら今まで聞けなかったことを、僕はようやく口にした。
 静帆もなんとなく慎重な空気を漂わせて、言葉を返す。

「……うん、一応……翔太は?」

 市内には二つの県立高校と一つの私立高校がある。僕らの中学の卒業生は、大抵がそのうちのひとつを選んでいた。
 今の僕の希望としては、静帆と同じ高校に行きたい。だけどそう口にしてしまうと、強制してしまうみたいで何か嫌な気がした。もしかしたら、静帆も同じだったのかもしれない。

「おれはまだ。……でさ、その……お前はどこにしたのかなって……」

 居心地悪い思いをしながら訊ねると、ふと静帆が吹き出した。

「……なんだよ」
「ううん、何だか変だなって。すごーく不自然だよね、ぎくしゃくしてる」

 だって仕方ないじゃないか。僕は思わず仏頂面を作る。

「本当のこというとね、お母さんは南にしろって言ってるんだ。進学校ってイメージ強いでしょ? 就職に有利だからって。翔太は?」
「おれも似たようなもんだよ。大学は国公立でなきゃお金だしませんからね、だってさ」

 静帆が苦笑じみた笑みをこぼした。怪我が治りはじめて僕が立ち直る頃になると、母さんは今度は息子の将来とやらを本格的に気にし始めたらしい。姉ちゃんのときはここまで言ってなかったような気がするのに、すっかり口うるさくなってしまった。

「でもまあ……そっか。同じようなもんか」

 なんだかほっとして、僕は暗くなった空を仰いだ。やっと本音が言えると思うと、息苦しさがようやく緩んだ。

「同じとこ、行けるといいな」
「うん。頑張ろうね」

 今の僕の前に、やることは山積みになっている。だけど、一歩先さえ見えなかったあの頃より、幸せなんだろうと思う。
 そのときの僕は確かに不安定で、なのにひどく満たされていたのだ。




photo by RainRain