12 // All flowers are not in one garland.

 冬休みに入った学校は、部活中の後輩たちの声だけが遠く聞こえて、ひどく静かな感じがした。
 いつも騒がしいから、そんな風に感じるのかもしれない。

 深呼吸を繰り返し、唇を噛んで、化学室の扉を開けた。

 時間には五分遅れていた。岡崎が顔を上げて、表情をこわばらせた。
 どんな顔をしたらいいのか、わからなかったのかもしれない。僕がそうだったからだ。

 傍らには大きな紙袋が置かれていた。買い物で貰うような安っぽいやつじゃない。中にはぎっしりと資料が詰まっていたから、普通の袋じゃもたないだろう。
 切り出し方を迷っているうちに、同じように迷ってたらしい岡崎が、ぎこちなく息を吐いた。

「……中身について、説明したほうがいいかな」

 少しだけ迷って、うなずいた。
 最初は全部持ってきたのかと思っていたけど、中身を説明されるうちに、だいぶ絞り込んできたんだとわかった。それでも、この量だ。
 岡崎の十年間が、そこにあった。
 数値ばかりの書類を綴じたバインダー、計画の詳細が書かれた冊子、カルテみたいな紙束。株価の情報らしいものもあった。中国語っぽいものと英語の文書が半々ぐらいで、それを翻訳したものがいくつかついている。付箋と書き込みでいっぱいになった書類の数々は、会社というものを知らない僕でも、一年やそこらで集められるものじゃないってわかるくらいの量だった。

 多分、知っていたんだろう。
 そうしてずっと疑っていた。何年も苦しんできたんだ。

 だからって、こいつのしたことを許せるわけじゃないけど――複雑な気持ちになった。

 一通りの説明を受けるだけで、二時間近くかかった。
 僕はほとんど黙って聞いていた。岡崎は簡単な言葉を選んで話しているみたいだったけど、全部を理解するのは、たぶん無理だ。
 僕が理解する必要はない。静帆の真実を、僕は証明したいわけじゃない。
 ただ、それが何なのか、どういう意味をもつのかだけ、わかればいい。

 やがて説明も終わって、岡崎が言った。

「正直……君に委ねていいのか、まだ、迷っているよ」

 今さら、何を言い出すんだろう。
 僕は顔をしかめて岡崎を見た。

「君は、子供だ。……馬鹿にしてるわけじゃない。ただ、社会を――現実がどういう仕組みで動いているのかを知らない。……知っていても、僕みたいにろくでもないことしかできないこともあるけれどね」

 自嘲気味に岡崎は笑った。
 丸イスに腰を降ろして、顔を押さえる。

「僕よりは、君のほうが資格をもっていると思う。どうか……僕が言えた義理じゃないが、どうか、彼女とよく話して決めて欲しい。よく考えて、できれば信頼できる大人にも相談して……君たちにとって、一番いい道を選んで欲しいんだ」

 言われなくても、そうするつもりだ。
 反感が先に立って、僕は黙り込んだままだった。

「あとは――これを。関係者から聞いた話を録音してある」

 岡崎が、ポケットから取り出したものを机の上に置いた。
 一瞬、音楽プレイヤーかと思ったけど、それにしては大きいし、よく見てみるとマイクがある。

「レコーダーだよ。……もう一件、いいかな」
「え?」

 意味がわからずに聞き返したけど、岡崎は構わずにボタンを押した。
 録音する気らしい。

 身構える僕に、岡崎はひとつ、深い息を吐いた。

「僕は、槙村静帆さんを殺そうとした」

 ――息を呑んだ。
 予想しなかった言葉に驚く。立ち尽くした僕の前で、岡崎は静かに独白を続けた。

「この手で首を締めた。君がこなければ、僕はきっと彼女を殺していた。日時は2009年12月10日、場所は第二中学校美術室。――以上は、紛れもない事実だ」

 岡崎が僕を見た。
 思わず身を引いてしまって、舌打ちした。そのまま十秒くらいが過ぎて、何も言わない僕に、岡崎がレコーダーのスイッチを切った。

「……なんで……」

 岡崎は苦く笑った。

「殺人未遂の時効は二十五年だ。……その間に、これを持って警察に行って欲しい」
「…………」
「今の君たちには、とても、そんな余裕はないと思う。自首しようとも思ったが、かえってかき回してしまうかもしれない。僕ができる、一番いい方法を選んだつもりだ」

 許せないと思っていた。許すつもりなんてなかった。
 それは、今でも変わらないのに。

 追い詰めて、すまない、と。
 岡崎は言った。

 

 

 

 

 晴れた空に、花びらのような大きな雪が舞っていた。
 思わず見上げて、僕はなんだか、泣きたいような気分になった。

 

 

 

「翔太? うわ、雪積もってるよ」

 玄関まで僕を出迎えた信は、目を丸くして僕のコートを指差した。
 ああ、とだけ返してコートを脱ぐ。積もっているというのは大げさだけど、雪が貼り絵みたいに紺のコートをまだらな白に変えていた。

「どうしたのさ、その大荷物……あ、何かあったかいもの入れてくるよ。部屋行ってて」

 母親みたいな世話焼きぶりを発揮して、信はあわただしく奥に引っ込む。
 言われたとおりに信の部屋で待っていると、マグカップを二つ持って信が現れた。

「はい、あったまるよ」
「……マグカップで汁粉かよ……」
「え? えと、変かな?」

 こういうこと、こいつは本気で言ってるから憎めないんだ。
 なんだか無性におかしくなって、声を立てずに笑った。

 唐突に押しかけた僕に、信は嫌な顔ひとつしなかった。
 甘ったるい汁粉は喉に引っかかるみたいだったけど、確かに温かかった。

「珍しいね、翔太がしょげてるの」
「……そうかあ?」
「うん、大体さ、しょげてるんじゃなくて怒ってるじゃん」

 そうかもしれない。
 思わず納得してしまって、苦笑いを浮かべた。

「頼みがある」
「うん」
「……これ、預かってくれ」

 言って、紙袋を指差した。
 信の目がじっと紙袋を見て、それから俺に視線を向けた。

「ちょっと、いろいろあるかもだけど……中身、見ないで、隠しててくれないか」

 何か言われるだろうか。
 何も言わないで頼むなんて、卑怯かもしれない。だけど、軽々しく言えるようなことでもなくて――それでも、聞いて欲しいような、言ってしまいたいような気もして、僕は視線を落とした。

 信が明るい声で言った。

「僕さ、スポーツが好きなんだよね」
「……知ってる」
「何かを持ってる人って、すっごくキラキラしてて。そういう人って、見てるだけですごくワクワクするんだ。僕は、翔太もそうだと思う」

 信は笑った。
 昔は能天気で腹立たしかったその笑顔は、僕なんて到底かなわないくらいの器に見えた。

「いつか、箱根とか福岡とかで、翔太を見たいんだ。それだけ、知ってて」

 

 

 

 

 

 

 

 先に静帆に電話して、おばさんが買い物に出ていることを確かめた。
 卑怯くさい気もするけど、会わせてくれないんだから仕方ない。退院してからというものの、静帆はすっかり引きこもってしまっていて、何もする気になれないみたいで、僕と一緒にいてもぼんやりしていることが多かった。

 このままじゃ駄目だと、ずっとその思いばかり空回っていた。
 それはもう、終わらせたい。無理矢理にでも。

「……翔太?」

 静帆がベッドに座ったまま、怪訝そうな顔で僕を見た。
 床にバッグを落とすと、そのまま視線がついてくる。当然だ。明らかな大荷物だから。

「なに、それ」
「荷造りしてきた」
「え……?」
「逃げよう」

 口にした言葉とは裏腹に、感情は煮立っていて、そして同時に強く静かに凪いでいた。
 そろそろと顔を上げる静帆の目に、おれはきっぱりと繰り返した。

「逃げよう。どこまでだっていつまでだって、おまえをおまえじゃなくする全部から。どこにでも連れてく。……おれが、連れてくから」

 静帆の目が、期待と困惑をかわるがわる映しながら揺れた。
 引くわけにはいかない。
 このまま、静帆が死んでいくのを待つ気なんかない。
 ――あのとき、少しずつ死んでいっていたおれを、静帆が引っ張り上げたのと同じように。

「でも……」

 おれは、ベッドの上に投げ出された静帆の手を取った。
 びくりと肩をすぼめた静帆が、驚いたようにおれを見る。

「む、無理だよ。だって……」
「なんで」
「だって……だって、翔太、受験……」
「確かにおれはただの中学生で、受験生で、稼いでるわけじゃねーし親に食わせてもらってるし、何の力もないけど。……おまえを、守ってやることさえできないけど」

 細い手を、強く握り締めた。

「……一緒に逃げてやることくらいは、できる」

 戦うんだ。このまま殺されたりしない。諦めたりしない。受け入れたりしない。それはバカなことかもしれない。
 しれない、じゃなく、きっとどうしようもなくバカなことだろう。
 それでもこれが、たったひとつ、僕が静帆にしてやれることだった
 賭けられるものなんて、それくらいしかない。
 静帆は全部を否定された。それを取り返すには、僕が全部を静帆に投げ出すくらいしかない。きっとそうでもしなきゃ、静帆は僕を信じない。

「一緒に逃げるんだ。どこまでもどこまでも。誰も捕まえられないくらい遠いとこまで。おれたちは捕まらないんだって、ガキが思いどおりになんかなるわけないって、思わせてやろうぜ」

 泣きだしそうな顔で、静帆は笑った。

「うそつき」
「……おいコラ」

 冗談めかしてかえしたけど、結構ショックな単語だった。
 それでも静帆の目は久しぶりに見るくらい、ちゃんと僕を見ていて、それだけが救いになる。

「素直に、信じられたらよかったな。捕まるわけないって、どこまででも逃げられるって。それであたしは、自由に、なるの」
「シズ――」
「ごめんね、翔太。あたし、かわいくない。知ってるの、知らないふりができないの。ばかでごめんね。あたしは……翔太から、大事なものをとりあげちゃうかもしれないのが、怖い」
「いいよ」

 きっぱりと、答えた。

「おまえは、おれをくれたから。……そのおれは、ぜんぶお前のもんだよ」

 静帆の目があっという間に揺れて、こらえようとした涙がこぼれた。
 痛いくらいに僕の手を握り返して、背中を曲げて嗚咽を堪える。
 床に膝をついて、僕はその顔を見上げた。

「なあ、おれのこと好き?」

 泣きながら静帆がうなずいた。
 嬉しくなって、笑いながら抱きしめた。

「だったら、かっこつけさせてくれよ」

 実はかっこついてねぇけど、とおどけて言うと、細い腕がしがみついてきた。
 大人じゃないおれにできる精一杯で、この手を守ろうと思った。

 見てろよ、と、僕は胸中で吠えた。
 世界一のバカになるんだ。

 

 

 

 

 

 

 静帆の荷造りは時間がかかりそうだったから、その間に、姉ちゃんの携帯に電話をかけた。
 仕事中だろうし、どうかなと思ってたけど、予想外に二十コールくらいでつながった。

「あ、姉ちゃん? 出てくれてよかった。今いい?」
『……どうしたの、急に』
「いや、不詳の弟がちょっと旅に出ますんで、ごほーこくに」

 電話の向こうで絶句する気配がした。
 そりゃそうだよなあ、とうなずいていると、やがて肺の中の空気をぜんぶ絞りだすようなため息が落ちる。

『……あの子はいっしょ?』
「うん」
『ばかね』
「うん。バカでいられるぎりぎりまで、バカやろうと思う」

 もう一度、ため息。
 苦悩するような沈黙の後、姉ちゃんは苦りきった声で言った。

『翔太』
「ん」
『気をつけて。……帰ってくんのよ。負けるな』
「うん」

 あとは、ヘンな人についていかないこと、甘い話は避けること、危ないと思ったらすぐ引き返すこと、なんて長々と注意事項を並べ立て始めた姉ちゃんの話に半分聞き流しながら相槌を打っていると、静帆がようやく部屋から出てきた。

 その顔はまだ不安とか迷いとか、そういうものが残っていたけど。
 だからこそ、僕はバカみたいに笑って手を差し出す。

「行こう」

 うなずいて差し出されたこの手を、僕は一生、離すつもりなんてなかった。