11 // Drop by drop fills the tub.

 静帆にもう一度会うまで、五日間かかった。
  風邪をこじらせて、病院に担ぎ込まれたからだ。真冬に海に入ったんだから、当たり前の結果かもしれない。
  僕も少し体調を崩したけど、熱を出すほどじゃなかった。抜釘が終わったばかりの足が気になったけど、医者に盛大に呆れられただけで、悪化はしなかった。

 不幸中の幸いと言うには、あまりに不幸のほうが大きすぎる気がする。

 家に何度行っても居留守を使われて途方にくれていた僕に、静帆が入院していることを教えたのは岡崎で、僕はよけいに悔しい思いをした。

 ようやく会いに行ったとき、静帆はもう、前の静帆じゃなくなっていた。

 覚悟はしていたつもりだった。
 だけど、それが甘かったことを、僕はすぐに思い知った。

 静帆は、かげろうみたいに笑うようになった。
 ふわふわとあやふやな幻のように。

「風邪だって」

 肺炎一歩手前だったくせに、静帆はどこか悔しそうな声を出した。
  ベッドの上に投げ出された腕は、細い。

「……科学が、発達して。今の技術なら、遺伝子の病気とか、短命とか、ないみたい」

  もしも静帆がそうだったら、あの人たちは自分たちの選択を悔いただろうか。
 もしも静帆が、救うことの出来ない欠陥を抱いていたなら。

「……そうだったらよかったのに。そしたら――」
「馬鹿言うな。怒るぞ」

  それは頭の中でずっと回っていた疑問だったけど、静帆の口から出てきた途端、僕はすぐさま否定した。
 泣き出しそうな怒り出しそうなくしゃくしゃな顔で、静帆が僕を見た。

「おれは嫌だ。そんなもんより、シズが生きてるほうがいいよ」

  照れ臭さよりも、どうにか気持ちを伝えたくて、静帆の手を取った。

「何でもいいから、生きてるほうがいい」

  握り締めた指先は、ひどく冷たかった。

「……うん」

 

 ドリーは子供を生むことができたけど、たった六歳で死んでしまったんだって。
 みるみる老いていって、肺の病気にかかって、殺されてしまったんだって。
 理由は普通の病気かもしれなくて、でももしかしたら――細胞が年を取りすぎた状態で、生まれたのかもしれないんだって。
 もしかしたら、わたしもそうなのかな。
 日本人の今の平均寿命は、九十歳くらいだから。ドリーと同じ、半分っていったら、四十五歳。まだまだ遠いように思えるけど、友達のお母さんはこれくらいの年だから、たくさんのものを残していくことになるかもしれない。

 ドリーはまだ大事にされたほうで、内臓のどれかがものすごく大きくなってしまって生まれる事無く死んでしまった子とか、生まれても数日で死んでしまった子とか、山ほどいて。
 その研究の結果がわたし。
 そう思うと、苦しくて悔しくて泣きたくなった。

 「わたし」は作られたものなんだ。
 でも、それよりも。
 お父さんとお母さんにとって、あたしが代わりでしかないことが一番つらい。

 ドリーの死体は剥製になって、博物館に飾られているんだって。
 わたしも、死んだら、思う存分ばらばらにされて、細胞の隅まで覗き込まれて、ただの「もの」になってしまうんだろうか。

 それは違うんだよって、岡崎先生は言った。
 違うんだよ、それは一部の科学者のことで、ドリーを生んだ人たちや、ほかの多くの人たちは、病気と戦うために研究しているんだよって。

 ねえ、だけど、それにどれだけの意味があるの。
 ここにいるわたしには何のなぐさめにもならない。胸にあいた穴がどうしてもふさがらない。苦しくて悲しくて、息をすることさえ忘れてしまいそうで。

 

 そんなふうに、ぽつりぽつりと静帆は僕に話をした。
 そこに感情はこもっていなくて、ひどく淡々とした口調が痛くて仕方なかった。たぶん、吐き出さないよりはマシなんだろう。だけど、そのたびに僕は自分の無力さを思い知る。

 今まで、ずっと、否定され続けてきたんだよ。
 静帆は泣き出しそうな目で、そう言って笑った。

 トマトを嫌いだと言えば、「そんなはずはないでしょう」と。
 絵を描きたいと言えば、当然のように喜んだ。
 好きな色、好きなもの、苦手なこと、嫌いなもの。それらすべてに彼らは『静帆』の影を求めていた。

 ぞっとする。
 ある日僕が死んでしまったら、母さんはきっと悲しむだろう。悲しんで、耐えられなくて、同じ僕を取り戻そうとするのだ。だってそれは、普通のことだから。
 だけど、それは僕じゃない。同じ遺伝子を持って同じ外見を持って同じ声をしていても、それはここにいる僕じゃない。自分と同じ姿をした誰かが、僕として僕の名前を呼ばれて僕のいる位置になり代わる――そんな空想が、背中を粟立てた。
 そこには、僕が僕である意味が、あるのだろうか。

 親という存在は、ガキにとって、特別なカテゴリだ。
 どうやったって、代わりにはなれない。

 何百回何千回好きだと繰り返しても、決して届かない。静帆には届かない。一人っきりで自分の中に閉じこもって泣いている。どれだけの力があればそこから引き出せるんだろう。どれだけの言葉をぶつければ、あいつをそこから引き出せるんだろう。

 

 助けて、と。
 あいつは全身で言っているのに。

 

 

 

 鬱々とした気持ちで病室を出た。
 僕が沈み込んでも仕方ない。むしろ、元気付けるくらいじゃないと駄目だと思うのに、僕にはそれだけの器がないんだと実感した。

 ――会いにきてくれるのは、嬉しいよ。

 儚くそう笑う静帆の言葉だけが、僕の足をどうにか静帆のところへ運ばせていた。

 どうにかしないといけないと思うのに、出来ることが見つからない。
 このままじゃだめだ。静帆が殺されてしまう。
 大げさだと思われるかもしれないけど、僕は本気でそう思っていた。

 僕の知っている静帆が、いなくなる。
 そんなの、死んでしまうのと同じだ。

(くそっ……)

 ぐしゃぐしゃと髪をかき回したとき、廊下の先に、見覚えのある男の姿を見つけた。
 難しい顔で医者と何かを話している。彫りの深い顔には、疲労がにじんでいる。
 自分の表情がこわばるのがわかった。
 ――静帆の、父親だ。
 胃を焦がすような感情に、制服を掴んだ。
 唇を噛んで、一歩を踏み出す。考えるより先に声が出た。

「こんにちは」

  ぎょっとしたように俺を見たおじさんは、僕のことを覚えていたらしい。
  ちらっと眉をひそめて、ああ、と適当な相槌を打った。

「君は……東君だったか。静帆の見舞いに?」
「ええ、まあ。……ちょっと、いいすか。話がしたいんすけど」

  我ながらぞんざいな言い方だったと思う。ますますおじさんの顔がしかめられた。
 喧嘩を売るくらいのつもりと勢いだったから、構わない。
 医者と顔を見合わせ、おじさんはため息をつく。
  ぶしつけに大人をにらみつける僕に、二人は困惑して、呆れているようだった。

「……先生、また後で」
「ええ……」

  白衣の姿がすっかり見えなくなるまで見送っていたのは、話を聞かれたくないからじゃなくて、多分ただの時間稼ぎだったんだろう。
  タバコでも吸いたいのか、落ち着かない手つきでおじさんはスーツの襟縁を撫でた。

「それで、何の話かね」
「静帆のことです。……全部、聞きました。あいつからだけじゃない、昔の……最初の、『槙村静帆』を知ってる人間から」

  おじさんの表情が変わった。

「おれは、本当は、そんなことどうだっていいんです。あいつがどうだろうと、どんな風に生まれたって、おれには関係ない。あいつは、あいつです。他の誰でもない」

  うまく言えなくて、もどかしさに唇を噛んだ。

「おばさんは、なんとなく話が通じない気がする。あいつに『静帆』を押し付けてる」
「……それは」
「でも、おじさんは……本当は、わかってるんじゃないですか?」

  苦々しい顔で、おじさんは目を伏せた。

「私たちは『静帆』を愛しているよ。……かけがえのない娘だ。それで、十分だろう」
「あいつはそれで苦しんでるのに?」

  おじさんの顔が苦く歪んだ。やっぱりだ。僕は舌打ちした。この人はわかって、理解して、それでも認めないのだ。

「私にはどうすることもできない。どうしろと言うんだ? 私が何か言ったところで、あの子は信じないだろう」
「だからって……!」
「悪いが、家族の問題だ。君に口を出して欲しくない」

  きっぱりと拒絶されて、かっと血が上った。
  おじさんは深いため息を吐いた。

「……今だけだ。時間がたてば、そんなことにこだわることもなくなる。君にはわからないかもしれないが、大人になるというのはそういうことだ」
「そうやって、あいつを押さえつけるんすか」
「いいや。あの子の傷を癒せるのは、なにもかもを暴くことではないというだけだ。騒ぎ立てられれば、もっと傷つくことになる。……わかるだろう? あの子を守りたければ、バカなことは考えないでくれ」

   怒鳴りつけたい気持ちは、けれど廊下に落ちるだけだった。
  拳を握ってうつむいた僕の肩を叩き、おじさんは言った。

「君には重過ぎる。傷つきたくなければ、離れなさい」

  ふざけるな、と思った。
 自分が自分だという確信さえ持てないのに。生きている意味さえ見失おうとしているのに。
 時間が解決するだなんて、そんなのはいいわけだ。
 だけど僕は、やっぱりうまく言葉にはできなくて――そんな自分が情けなくて、ひたすらに廊下を睨みつけていた。

 

 

 

 なんで一人で生きていけないんだろう。
 誰にも頼らずに生きていけないんだろう。

 僕がどれだけ静帆を必要としても、何百回好きだと言っても、それだけでは足りないのだ。
 親というのは根のようなものだ。それがなくても挿し木のように生きては行けるけれど、どうしても、絶対的な肯定を手に入れることができない。
 血のつながりは決して否定できない。それ以上に確固たるものは存在しない。それは幻想である場合も少なくないけれど、多くの場合、それは絶対だ。子供にとって、ある時期を過ぎるまで、親は絶対的な存在だという。少しずつ離れていくことを自立と呼ぶのなら――僕らは、まだそこまでたどり着けずにいた。

「……翔太? おい、驚いたな。翔太じゃないか?」

  自動販売機の前でじっと座り込んでいた僕は、聞き覚えの明るい声に顔を上げた。
 軽快な笑い方をする従兄弟が、驚いた顔で僕の顔を覗き込んでいた。

「……マサ兄、なんで」
「なんでって、俺の職場だろうが。忘れてたのか?」

  忘れてた。そういえば、県立病院の看護士になったって言ってたっけ。
 こんなときに知り合いに会うとは思わなかったから、どんな顔をすればいいのかわからなかった。
 そして思い出す。
 今は結婚の話で、うちの母さんからさんざん色々言われてて、僕の顔なんて見たくないだろうに。

「俺に会いに来たってわけでもなさそうだけど。どした? くっらい顔しやがって」

  大きな手がわしゃわしゃと、頭を振るみたいに髪をぐしゃぐしゃにしていった。
 ぐらぐらする視界に、あわててマサ兄の手から逃れる。

「ちょっと、彼女が入院してて……」
「へえ」

  慣れているんだろう。マサ兄はちょっと眉をひそめた後は、それ以上突っ込んで聞いてはこなかった。

「翔太が彼女ねえ。マセやがって」
「うるさいよ」
「で、どんな子だ? おにーさんに教えてみな」
「やだよ。関係ないだろ」
「おーおー、かっわいくねぇの」

  にやにやと笑う顔は、あんまり疲れたふうでもない。
 もっと消耗してるんじゃないかと思ってたから、不思議な気がした。

「……マサ兄こそ、どうなの」
「あん?」
「結婚相手、なんか……ウチの母さんとか、いろいろ言ってたけど」
「ああ、あれか」

  マサ兄は苦笑いを浮かべて、自動販売機にコインを入れた。
 微糖のカップコーヒーを二つ。何も聞かないで買ってしまったので、ミルクを入れて欲しいとは言えなかった。
 礼を言って受け取る。温かさに、少しだけ気分がほぐれた。

「予想外だって言えばそうだけどな。そりゃムカついたさ。毎日怒鳴ってたな。……でも、腹括った」
「……なんて?」
「おふくろも親父も、俺のことを思ってんのは確かだ。形はそりゃあ頭に来るし、納得してやることはできないけどな。……親は親だからな。取り替えようがねえよ」

 僕は黙ってコーヒーをすすった。
 親は親。そうだ、だから、厄介なんだ。

「説得するさ。何ヶ月でも、何年でも。俺は、あいつだから結婚したいんだ、あいつを幸せにしたいから結婚したいんだ。……子供ができるかどうかは、それとは関係ない」
「……治療とか、すんの?」
「どうだろうなあ」

  ため息のような声で言って、マサ兄は病院の天井を見上げた。

「つらいって言うし。治療しなきゃしないで、おふくろもうるせぇだろうしな。春美はやっぱり子供が欲しいらしいし……おまえの好きなようにすればいいっつったら、泣かれたよ」
「何で?」
「だろ? そう思うだろ?」

  ぱっと飛びつくみたいに確認されて、ちょっと身を引いた。
 マサ兄は、それまでとはちょっと違う苦笑いを浮かべた。

「一緒に考えて欲しいんだってさ」
「……一緒に」
「他人事じゃなくて、二人の問題だから。そんな風に言って欲しくないって、泣かれた」

  よくわからなかった。
 だってマサ兄は、別に彼女のことをないがしろにしてそう言ったわけじゃないのに。

「女って、強く見えるようで結構弱いんだよ。つくづく実感した。……支えてやりたいんだけどな。どうすりゃいいのかわからなくて、全部投げたくなったときもあったけどさ」

 けれど、そうはならなかったんだ。
 答えを知りたくて、じっと見つめる僕に、マサ兄は優しい笑顔を見せた。

「腹括ったって言ったろ。俺は、あいつの味方だ。あいつ以外の味方にはならない。それだけ、はっきりさせた」

  ――味方。

  口の中で繰り返した。僕は、静帆の味方になれているだろうか。全部を敵に回してでも、あいつを守ろうとしてるんだって、あいつに思ってもらえるだろうか。
 どうにかできるか、じゃない。
 どうにかしようとしてるって、僕は、静帆に思ってもらうことができるだろうか。

 僕にとっての静帆は静帆だけなんだって。
 信じてもらうには、どうしたらいいだろう。