「ど、して……どうして、あたし、なの」
「シズ」
「ねえ、どうして……!」
泣きながら叫んだ声が痛かった。刺すような水温よりも、ずっと。
しがみつく細い指は震えていた。
泣きじゃくる静帆を必死に海岸まで連れ戻して、やっと息を吐く。
「岡崎から、聞いた」
呼びかけると、静帆の肩が震えた。
「……おかあさん、が……」
しがみつくように顔をうずめて、静帆がしゃくりあげた。
「あたし、知ったんだよって。あたしはその人じゃない、あたしを見てって、言ったのに、お母さん……笑うの。何言ってるの、って。『あなたは静帆でしょ』って」
ぞくりと背中が粟立った。
「で……でも」
喉の皮が張りついたようだった。頭が回らなくて、引き寄せた肩をぎゅっと握る。そんなことで、必死で静帆をつなぎとめているつもりだった。
「そうじゃないだろ、おばさんだっておじさんだって、そんな……」
静帆は泣きだしそうに笑った。
「だってお母さん、トマト嫌いだって言ったら、そんなわけないでしょって言うの。お父さんのお土産、いっつも苺のケーキなの」
どちらも、静帆の嫌いなものだ。
僕は唇をかみしめた。
「ねえ、わかる? あたしは代わりなんだよ。お父さんとお母さんにとって、『静帆』の代わりでしかないんだよ……だったら『あたし』にだって、かわりがいるってことじゃない!!」
――もう、いやだ。
途方にくれた静帆の声に、僕は何も言えなかった。
家に電話を入れる俺を、静帆は止めなかった。
姉ちゃんは頭痛のするような声で応じたあと、すぐに行くから動くんじゃないわよと呻くように言った。現在位置自体がよく分からなかったことにため息を吐かれて、電話は終わった。
静帆は防波堤に腰を下ろして、膝を抱えていた。
―― 倉庫を引っくり返して、「絵」を見つけたのだと静帆は言った。
「きれいな、絵だったよ」
細い声で静帆は言った。
僕は海水につかった学ランの裾を絞って、静帆の細い肩にかぶせた。コートは学校に忘れていたけれど、ないよりはマシだ。
「白くて、無垢で。陰影は深くて繊細なのに、無駄に色を重ねてなくて。……あたしが書きたいって思ってた、そういう感じの絵……」
その時の苦しさを、母親にそれを問い詰めた時の痛みを、分かってやることはできなかった。
膝に顔を埋めて、くぐもった声で静帆は言った。
「……もう、描けない、ね」
その言葉になら、言えることはある。――きっと。
それは、ほかでもない静帆の言葉で、僕を救った言葉だ。
ひとつ息を吸って、吐いた。
「……本当に、それでいいのか?」
静帆がのろのろと顔を上げた。遠い街灯しかない暗がりで、その顔はよく見えない。
あの時の俺の痛みは、きっと静帆には分からなかった。
今の静帆の痛みを、僕は分かちあえない。
それでも、言える言葉はあるはずだ。
「お前が描きたいなら、描いたっていいだろ。悪いわけがねぇよ。お前が描く絵はお前のもんだし、心配しなくたって、どうやったって、おんなじ物にはならない。そういうもんだろ」
「……しょうた……」
僕の名前を呼ぶ、泣き出しそうな声がかすれて消えた。
静帆がそろりと伸ばした手が、僕の手に触れる。
ぎくりと一度肩をはねさせて、ようやくそろそろと握り返そうとした時、車のクラクションが鳴った。
驚いて振り返ると、見覚えのある赤いミニバンが停まっている。血相を変えた姉ちゃんが降りてきて、険しい顔をほっと緩めた。
――すぐに、ずぶぬれの僕らの格好に眉をしかめたけれど。
「……あなたが、槙村さん?」
「は……はい」
静帆が怯えたような声で答えた。ごめんなさい、という静帆の声に、姉ちゃんは苦い笑みを見せた。
「ごめんね、お家にも連絡したけど……」
「……はい」
静帆が沈んだ声で答えた。
僕は静帆の背中を叩いた。
「大丈夫だって。思ってること、言ってみろよ」
静帆が不安そうな顔で僕を振り返る。
少しだけ間をおいて、自分を納得させるみたいにうなずいた。
僕だって、確信があったわけじゃない。だけど、少なくとも話は聞いてくれるはずだ。僕に電話をかけてきたおばさんは、凄く心配していた。それはきっと、嘘じゃない。
姉ちゃんに渡されたバスタオルで、ぎこちなく服を拭いていた静帆は、ずっとこわばった顔のままだった。姉ちゃんがいなかったら、手を握ってやることくらいはできたかもしれないけれど、さすがに今の状況では度胸が足りない。
姉ちゃんはさっきからこっそりと、しきりに時計を気にしていた。一度電話をかけて、留守電だったみたいから、たぶん静帆の両親が着くのを待ってるんだろう。
仕方ない、といったふうに、姉ちゃんがため息を吐いた。
「……このままだと風邪ひいちゃうわね。一度うちに――」
そう言いかけたとき、ヘッドライトが近づいてくるのに気づいた。静帆が小さく肩を震わせた。
クラウンが無理のない制動で停車して、青ざめた顔のおばさんが助手席から駆け下りてくる。
「静帆……! ああ、よかった、どうしてこんな……」
静帆は唇をかんだままうつむいていた。声を振り絞るみたいに、血の気の引いた唇を何度か動かして、冷え切った指を握り締めている静帆に、僕はなけなしの度胸を引っ張り出して、手をつかんだ。
少し遅れて、おじさんが車を降りてくる。静帆は僕の手を握り返して、ようやく顔を上げた。
「いやだ、こんなに冷えて……早く帰りましょう。ね?」
「……お母さん、聞いて。あたし……あたし、ね」
「いいの、大丈夫よ。ごめんなさいね、あなたがそんなに悩んでたなんて……高校だったら、あなたの好きなところに行けばいいのよ。お父さんもわかってくれたわ」
思わず、息を飲んだ。
――何を言ってるんだ?
信じられない思いで、おばさんのいっそ穏やかな微笑を見た。
慈しむような、いとおしむような、負の感情の一切ない、顔。
「……ちがう、違うの、お母さん。あたし……!」
「ええ、ええ。わかってるわ。おうちでゆっくり聞いてあげるから、ね? ほら、帰りましょう。はやく温まらなきゃ、風邪を引いてしまうわ」
静帆の肩を強引に抱いて、おばさんは静帆を車に引き連れていく。おじさんが、姉ちゃんに会釈するのが見えた。
呆然とした僕の手から、静帆の手が力なく離れる。
打ち砕かれたような気持ちをようやく取り戻して、僕はその背中に叫んだ。
「……待てよ!!」
「翔太!」
姉ちゃんが僕の腕をつかんだ。
「待てよ、なんだよそれ! マジでわかってねぇのかよ!? そんなわけねぇだろ!!」
「翔太、やめなさい!」
「なんでそんなっ……ちくしょう、人の話くらい聞けよ!!」
おじさんが、一度だけちらりと僕を見た。おばさんは振り返らなかった。
「ふざけんなっ……!! 何であいつが、こんな……!!」
吐き出す言葉はどこまでも無力で、きっと、静帆にさえ届かなかった。
限界だった。もう耐えられなかった。僕は姉ちゃんに、洗いざらいをぶちまけた。エンジンを切った車の中で暑いくらいの暖房にめまいを起こしながら。
混乱していて行ったり来たりした僕の説明を、姉ちゃんは根気よく黙って聞いた。
やがて、僕が自分の中の言葉をすべて吐き出してしまうと、姉ちゃんは黙って車を出て、缶コーヒーを買ってきた。
「風邪引くから」
びしょぬれのスラックスは丸めて足下に投げてあった。そういえば、膝にかけているコートは姉ちゃんのお気に入りだったはずだ。今の状態でつれて帰る訳にも行かないと思ったんだろう。それに気づいて、自分の余裕のなさに泣きたい気分になった。
僕はぼそぼそと礼を言って、缶コーヒーをすすった。熱かったけれど、味がわからなかった。
「……ねえ、翔太。あの子が好き?」
即答できるような質問じゃない。僕にそれだけの元気があれば、コーヒーを気道に入れてしまっていたかもしれないけど、胡乱な目を姉ちゃんに向けるのが精一杯だった。
「あんたがあの子を好きで、傷つけたくないって思うなら……母さんと父さんには、あの子のことは黙ってたほうがいいわ」
姉ちゃんが何を言っているのか、僕はすぐに飲み込めなかった。
信じられなかったからだと思う。それが解ったとき、僕は思わず怒鳴りそうになった。
「なんで、そんな――あいつは何も悪いことなんてしてないのに!?
「わかってる。わかってるわよ。……でも母さんは、きっと翔太があの子と付き合うの、嫌な顔をすると思う。きっといろいろ傷つくことになるわ。正臣君のこともあるし、きっと過剰反応するわ。あの子によけいなことまで背負い込ませたくないでしょう」
二の句を告げない僕に、姉ちゃんは苦い色を浮かべた。
「……これが友達だったら、違うんだけどね。友達は他人だもの。母さんにとって第三者だわ。でも、付き合ってる子でしょう?……親って、子供のことは過剰なくらい心配するものなの。それが普通のことなのよ」
姉ちゃんは吐き捨てるように言った。いつもおっとり構えている姉ちゃんには珍しい。
「……でも、そんな、結婚とか、そういうのじゃないだろ」
「わかってる。でも、下手したら敵を増やすことになるってこと、あんたはわかってなきゃいけないと思うから」
姉ちゃんは髪をくしゃりとかきあげ、鬱憤をぶつけるようにハンドルを叩いた。長いため息を吐いて、ハンドルに額を押し付ける。
「……ごめん。翔太だって混乱してるのにね」
「……」
「わたしだってわかってなかったのよ。母さんや叔母さんが、あんなに『普通』にこだわってるなんて、執着してるなんて、それ以外はぜんぜん許容できないんだなんて……こんなことでも起きなきゃ、知らなかった。わかんないわよ。どうしてなの?」
僕はうなだれて、唇をかみしめた。分かりたくなかった。
「わたしたちにとってはそれだけでも、母さんたちにとってはそれだけじゃないのよ。分別のあるようなこと言えるのは、他人のことだけなの。……あの子が悪いんじゃないって、そんなこと誰だってわかってる。でも、だめなの。理屈じゃないのよ。親っていうのは、そういうものなのかもしれない」
ひどく弱く息を吐いて、姉ちゃんは僕を見た。
痛々しい、頼りない目だった。
「……ねえ、翔太。嘘をつけって言ってるわけじゃないの。今はまだ、あんたにもあの子にも、母さんと真っ向からけんかできる余裕はないでしょう? あんたが大人になって、結婚できる年齢になったら、社会も少しくらいは変わってるかもしれないから……そのときまで、言わない方がいい」
熱い缶をきつく握り締めて、僕は、こたえる言葉がないことに唇を噛んだ。
思い知らされる。
僕は今まで、大人という存在を信じていたのだ。
大人は正しいのだと。だから言う通りにしなさいと言えるのだと。理論立って正しければ、人間として正しい道なら、その通りに生きているはずだと。認めてもらえるはずだと。そうでない大人がいることも知っていたけれど、少なくとも僕の周りには、そんな大人はいないと思いこんでいた。
そうではないと認めることが、こんなに苦しいなんて、知らなかった。
失望とは違う、もっと真っ暗な、途方にくれるような苦しさに、僕は泣くことさえできないまま缶コーヒーのプルトップを見つめていた。