01//It's Easier said than done.

ごちゃごちゃ悩むより、何かやってるほうがよっぽど楽だ。

 担任のマユミ先生が産休に入ると聞いたとき、正直に言って僕はそれどころじゃなかった。
 それは迫る中間考査のせいじゃなく、麗しき独身貴族・飯塚先生謹製の愛という名のプリントが、束になって机に詰めこまれていたからだ。
 ……怪我を克服してようやく復帰した生徒にこの仕打ち。非行に走ってやろうか。
 ようやく金具の抜けた足もうるさいくらいに痛かったので、相槌を打つ僕の声はうめき声に近かった。

「まだそんな腹でかく見えないけど。もう生まれんの?」
「まだだと思うよ、たぶん。実家に戻るから、ちょっと早めに休むんだって」

 はあ、と重苦しいため息をついたのは、情報提供者で僕の残り少ない友人の細井信ほそい しんだ。
 今思い返すと恥ずかしいことこの上ないんだが、事故の後、僕はかなり陰鬱な方向にやさぐれていて、これでもかというほどに友達をなくしてしまったのだ。信にも結構ひどいことを言った覚えがあるものの、人がいいのか忘れっぽいのか、信は何事もなかったかのように友達づきあいを続けてくれている。

「それで、女子が鶴なんか折ってるのか」
「うん、そうらしいね……」
「……なんかやけに暗いな。もしかしてお前、マユミ先生のこと好きだったとか?」

 信のやつがひどく沈んだ顔をしているので、僕はからかうつもりで言った。
 ところが信の昼行灯っぽい顔が、一瞬でトマトのごとく真っ赤になるのをみて、僕は自分の失敗を悟る。――まずい。当ててしまった。

「ちっ、ちちちちがうよそんな!! なんで!!」
「……あ、うん、そうだよな、悪い」

 平べったく謝ると、僕は気もそぞろにプリントを見下ろした。どうにも気まずい。
 真弓今日子先生は明るくて姉御肌でお節介焼きな、若さに物を言わせた熱血教師だ。それは見舞いにきた先生と鉢合わせした姉ちゃんの評だが、後半はともかく前半は僕にも納得できる。信との共通点といったら、お人よしってとこくらいだろう。
 それにしても、年上で教師で既婚者で妊婦……やたらハードな初恋だ。いや、初恋かどうかなんて知らないけど。

「いつっ……!」

 つまらないことを考えていた罰でも当たったのか、左足がまたズキズキと痛み始めた。
 思わず机に突っ伏してうなり始めた僕に、信が不安そうな声をかける。

「……まだ痛いんだ? 痛みどめとか持ってないの」
「ある……」
「飲んできなよ。……って、水汲んできたほうがいいか。持ってくるよ」

 どうやって。
 そう突っ込む暇もなく、信はあわただしく教室を出て行った。学校の水道に、コップなんて気のきいたものはない。夏じゃないから水筒も持ってきてないし、まさかバケツだの花瓶だのを使いはしないだろう。気が回るようで実のところ空回っている辺りがあいつらしい。
 痛みにうんうんうなりながら考えていると、突っ伏した頭の上から、一番聞きたかった声が降ってきた。

「おはよう、翔太。痛そうだね……だいじょうぶ?」

 しかめたままの顔を上げると、静帆が心配そうな顔でのぞき込んでいた。みっともないことこの上ない状況で、僕はどうにか笑みらしきものを作る。

「よおシズ、ただいま」
「おかえり。……手術、どうだった?」
「失敗するようなモンじゃないっつったろ」

 痛いことは痛いが、実際に今回の入院は抜釘手術のためで、折れた骨の代わりに入れてあった金属を取っただけだ。強がって答えた僕に、静帆は呆れと困惑の入り混じった顔を見せた。

「だって翔太、メールなんて返したと思ってるのよ」
「……なんだっけ?」
「『終わった』。一行。一言。心配にもなるでしょ? ドキドキして来てみたら、痛そうにしてるし」
「……おれが悪かったです」
「よろしい」

 かしこまった顔でうなずいたあと、静帆はおかしそうに笑った。始業前のざわついた教室にその様子はなんだかしっくりきて、たった一週間離れていただけなのに、帰ってきたんだという実感をくれる。
 恋してるって素晴らしい。
 こっぱずかしいことを思った僕は、突っ伏した腕を伸ばして、前の席のイスを叩いた。

「まあ座れよ。信のやつ、水くみにいってるし」
「水?」
「痛いなら痛みどめ飲めってさ」
「そうなんだ。細井君って親切だよね」
「パシリ体質っつーかなんつーか――」
「またそういう言い方……。言っとくけどね、翔太が休んでる間、細井君が委員の仕事とか全部やってくれたんだよ。感謝しなさい」

 律儀な静帆らしくしかめっつらを作ると、細い指が怪我をしていないほうの足をつねった。
 結構痛かったので思わず声を呑んでいるところに、信が水を持って戻ってくる。
 それを見て、僕らは二人そろってあぜんとした。

「ごめん、ビニール袋しかなかった」

 差し出されたのはスーパーで配ってるような、大きなビニール袋。
 ――それで錠剤を呑めと?

「……悪い。もう痛み引いた……」

 信がちょっとだけ肩を落とす。
 引きつった僕の嘘に、さすがの静帆も小言を言わなかった。


photo by RainRain