「貴様ら、一体何をしていた!? 何のための二課だ!」
階上で延々とがなりたてる声が筒抜けに降って来る。
ほとんど雑音に近いそれを右から左に聞き流しながら、グウィードは組み合わせた手を枕に、椅子の背にもたれて目を閉じていた。
新設から三ヶ月。ゼロ地点からの準備期間には短すぎたが、失態は失態だ。長官の罵声を浴びている部課長がしているように、このセクションは歯を食いしばって耐えるほかない。
首相が舞台の上で、主演女優に頭を撃ち抜かれたというニュースは、いまだかつてない衝撃をもってマイセスを揺さぶった。
暗殺犯の名はカリサ・エリシナ。ロシア系のグラマラスなオペラ歌手は、花束を受け取る代わりに銃弾を返し、次いで自らのこめかみに銃口を押し付けた。
十秒にも満たない時間で、裁きを受けるべき人間はこの世から消えた。
それは何を意味するのか。裁判が行われないということだ。刑事訴訟はあくまで被告人のためのものであり、裁かれる人間がいない以上、宥めすかそうが怒鳴りつけようが法精霊は判決文を打ち出さない。
ただし、これはあくまで刑事訴訟での話だ。民事は違う。残された首相の妻子には、犯人に対する賠償請求権がある。グウィードは即座にカリサ・エリシナの法定相続人をあたらせたが、洗い出すまでもなく、天涯孤独の身であることがわかった。
法精霊を通じて事実関係を引き出す道は、これで完全に閉ざされた。
厄介なのは、女が痴情のもつれを示唆する遺書を残していたことだ。
一部の新聞はすでにこれを暗殺ではなく、単なる醜聞として扱っている。無神経なのではない。大いに意図的だ。暗殺であれば反政府勢力への反感は高まる。醜聞であれば笑い話ですむ。目下、メディアが神経を尖らせている国内秩序法案を廃案にするにはどちらがいいか――自明の話だろう。
ぎしりと椅子を鳴らし、グウィードはゆっくりと息を止めた。
確信があった。女を使い、その陰に隠れる不愉快な気配。小心で臆病な卑怯者。馬鹿馬鹿しく気高い理想に腐臭が混じり始めていることに、そいつは気づいているのだろうか。
――上等だ。腐りきる前に喰らってやろうじゃねェか。
口の中でつぶやいたとき、乱雑な足音が廊下の先から聞こえてきた。間もなく、数人の捜査員が姿を見せる。どの顔にも疲労の色が濃い。
グウィードは時計を見た。予定よりも、一時間ほど早かった。
「駄目です、ありませんでした。都内すべての裁判所の記録を当たりましたが、 教唆犯 も 幇助犯 も覚知されていません」
「案の定か。頭の回る野郎だな」
グウィードはがりがりと頭を掻き、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。部下はいぶかしげに眉を寄せた。焦りも苛立ちも、その声からは感じられなかった。
「聞き込みの手が足りねェ。休んだら三班と合流しろ」
「……エモノの調達ルートは出てきたんですか」
反感が口を滑らせた。
向けられた目に部下は怯んだが、グウィードは口角を上げて答えた。
「FN社のM1906だ。登録は半年前、取得方法は譲受。今は保証人の裏を取らせてる。譲渡者はベルギー人の可能性が高い。もう国内にゃいねぇだろうよ」
マイセスの銃規制はイギリス並だ。護身用の所持は一応認められているものの、価格が高く数は流通していない。
カリサ・エリシナは難民への慰問も積極的に行っていたというから、その伝手を使ったのだろう。在外公館が査証を大盤振る舞いしたおかげで、当時の難民の入国審査は非常に緩いものだった。
二つ上の階ではいまだに長官の怒声が続いている。ちらりとそれを気にかけ、部下がこぼした。
「……本当に、暗殺なんでしょうか」
「どういう意味だ?」
切り込むような声が問い返した。
喉笛を掴まれたような錯覚を起こし、部下は喘ぐように唇を震わせた。
「い……遺書が、あります。……今の時点で、単独犯の可能性を捨てるのは……」
「どこの馬鹿女がわざわざ銃なんざ調達して、公衆の面前で元首を撃ち殺すんだ? やらせた野郎がいるに決まってるだろうが」
見えない集団だ。犯罪を指示した人間が必ず存在する。刑法61条、教唆の定義ぎりぎりに女優をたきつけ、その手に銃を握らせた者が。
国民の多くは、この国で裁かれない犯罪などないと信じている。法精霊が覚知しなければ、そこに犯罪はないのだと思い込んでいるのだ。それが醜聞説のよりどころになっている。だがまさか、捜査員までもがその神話に取り付かれているとは思わなかった。
グウィードは目に鋭い光を灯し、部下の胸に指を押し付けた。
「いいか、これは暗殺だ。女に手を汚させて、てめぇは安全圏に隠れてやがるクソ野郎がいる。そいつを炙り出せ。引きずり出して泥水を飲ませてやれ。いいな」
苦い顔でうなずき、部下が部屋を出て行く。
入れ替わりに、バートが似たような渋面で戻ってきた。
「さっき、保守党のコリンソンが就任演説をしていたんですが……」
「お悔やみでも言ってたか?」
「 国内秩序法案 への支持を表明しました。それだけではなく、その……事件を防ぐため、事前に、 虞犯者 を拘束することも視野に入れると」
グウィードが目をみはった。ゆっくりと獰猛な笑みを浮かべ、低い声を漏らす。
「野郎、大きく出たじゃねェか」
保守党は本来、この法案へは懐疑的だった。後任の首相に指名された党首が支持を打ち出したのだとすれば、大きな方針転換だ。
「二班と三班だけ残して呼び戻せ。状況が変わるぜ」