04. Violence may also put on the mask of law.

001

 季節は、秋から冬へ移ろうとしていた。

  中央裁判所 プライマル・コートも庁舎のあちこちに年代物のフランクリンストーブを引っ張り出して、襲いくる寒波に備えている。

 机にかじりついて猛然と書類にペンを走らせていたラスは、目の前に記録紙を詰まれて顔を上げた。引きつった顔のラスに、二班の先輩技官がにこやかに返す。

「ラス、これ頼むよ。先々週のだけど」

「はあ!? なんで今さら出してくるんスか!」

「お、じゃあ俺も」

「だあっ! あーもう、わかったよやりますよ! くそっ」

 やけくそ気味に髪をかき回し、ラスは記録紙を広げた。普段部下の管理に厳しいはずのアシュリーが、何も言わないのがなおさら不気味だ。

 二人一組が原則であるのと謹慎の意味とで、この二月は書類仕事に忙殺された。おかげで全体の流れがわかるようにはなったものの、どこかじりじりする気持ちはごまかせない。だが、それも今日で終わりだ。

 ただでさえ汚い字がミミズの踊りになっていたが、背に腹は代えられない。煙が出そうな勢いで司法省への報告書を書き上げ、ラスはコートと書類を引っ掴んで席を立った。

 一班がまだ戻っていないがもう休憩時間だ。大人しく仕事の追加を待つ気は毛頭ない。

「課長! 俺、今から時間休っすから! 戻るまでにそこの書類見といてくださいよ!」

「ああ、うん。エイダ君によろしく」

「そのまま顔見せるつもりみたいですけど」

「えっ? そ、そうなのか……」

 課長がうろたえた。理由は一目瞭然で、彼の背後にそびえるカランコエの皿の山だ。かろうじて鉢植えには手を出していないが、止める人間がいないせいで、ここだけ品種改良の実験室の様相を呈している。

 いつになく真剣に考え込んでいた課長が、やがて、断腸の思いを滲ませながら言った。

「……ラス君」

「ういっす」

「足止めを、頼む」

 重々しい声に、ラスはにこーっと顔一杯に笑う。

 首尾よく二人分の昼食代をせしめて上機嫌で階段を下りていると、掃除のおばちゃんがモップをかけていた。

 あれ、とラスは首を捻る。部外者はエレベーターを使うので、ここを通るのは職員くらいなのだが。

「なんだい、急いで。走ってるとまた転ぶよ」

「転ばねーって。ちょっと遅れそうなんだ、エイダが今日退院でさ」

「おや。お迎えかね」

 含みのある声に引っかかりを覚えて、ラスは後ろ頭に手をやった。

「そりゃ……まあ、俺のせいなんだし」

「ふうぅん?」

「……なんだよ」

 からかいの表情で笑われて、何となく身を引いた。つついても面白いものは出てきそうにない。

 ひとしきりラスを眺め回して、ふと、おばちゃんが真面目な顔をした。

「ラス。エイダがいつからここにいるか知ってるかい?」

「十六だろ。労働法の年齢ぎりぎり。二班の先輩が言ってた、兄貴のこと追いかけてきたんだろうってさ」

「そう、あの子はね、あんたより前から大人の中で生きてきたんだ。……あのとおり、真面目な子だからね。大人ってのがどういうもんなのか、どう振舞わなきゃいけないのか、それをよおく知ってる」

「……いいこと、だよな?」

 押されるようにして訊ねると、苦笑が返ってきた。

「ずいぶんとまた、物分かりがよくなったもんだねぇ」

「悪いかよ。これでも日々成長してるんです」

 ふてくされたラスに、おばちゃんがからからと笑う。

「悪かないよ。でもまあ、あの子はちょっと意固地なとこがあるからね。あんたなら年も近いし、期待してるんだ。頑張んなよ」

 正直、何を頑張れと言われたのか、いまいちよくわからなかった。

 仕事のことはもちろん頑張るつもりだし現在進行形で頑張っているつもりだ。もう二度とあんなドジは踏まない。合い言葉は謙虚の勢いである。

 ただ、言われたのはそれだけではないような気がした。

(気持ちの方か? でも年近いっつっても……友達とは違うしなあ)

 友人という意味なら、グウィードの方が飲み友達という方向でよほど親しい。

 そういえば、彼女は職場の先輩であり仕事の相棒でもある。改めて考えてみると不思議な気がした。友人とは言いがたいが、やはりどこか、他の同僚より気安い感覚なのは確かだ。

 肌を刺す木枯らしとは裏腹に、街は鮮やかに色づいていた。十二月に入り、街はクリスマスを待ち遠しげにして飾り立てられている。

 病室に顔を見せると、エイダはすっかり支度を整えていた。

 長い髪を珍しく三つ編みにして、オフホワイトのコートを着込んでいる。普段の彼女の印象は黒ウサギだが、今日の格好はまるで白ウサギだ。

「よ。荷物持ち、参上しました」

「ほんとに来たんだ。仕事大丈夫?」

「どーにか。ちゃんと一通りは片付けてきた」

「ふうん。……読める字で?」

 う、と言葉に詰まり、ラスはしどろもどろに言った。

「いや、まあ、多分解読はできると……って、なんだよその顔」

「え、ごめん、ちょっと驚いた。書いたんだからいいだろとか言うかと」

 まじまじと見つめてくるエイダに渋面を作って、ラスは大きな鞄を持ち上げた。

 何が詰まっているのか、ずしりと腕に重量がかかる。

「他に荷物は?」

「ん、あとはこれくらい」

 エイダが身を乗り出して、ベッドサイドの本を手に取った。

 お堅い政治雑誌に混じった、赤に白抜きの派手なロゴに目が行く。

「珍しいな、おまえがゴシップ紙なんて」

「信憑性はともかく情報量は多いから。暇つぶしにはなるよ」

「なるほどね」

 適当な相槌を打って鞄を担ぎ、少しばかり逡巡して訊ねた。

「……体、大丈夫か?」

「うん。動くのは問題なし。体力はもうちょっとかな。これから取り戻さないとね」

 気遣われてか、ぽんと背中を叩かれた。

 怪我の影響を見せず、エイダは軽快な足取りで病室を出て行く。きれいに編まれた長い髪が、ラスの目の前でゆらゆらと跳ねるように揺れた。

 鈴がついているわけではないが、見ているとなんとなく、引っ張ってみたくなる。

 うずうずしながら眺めていると、エイダがくるりと振り返った。

「何? 黙り込んじゃって。重いなら自分で持つよ?」

「あ、いや。違うから気にするな」

 あわてるラスにエイダはいぶかしむような顔をしたが、それ以上は言わなかった。やはり本調子ではないらしい。

 ラスはごほんとわざとらしく咳払いして、切り出した。

「それより、昼メシまだだろ。食って行こうぜ」

「いいの?」

 エイダがぱっと表情を輝かせた。

 虚を突かれて、ラスは心持ち身を反らす。

「なんだよ、やけに嬉しそうだな」

「病院のごはんって味気ないんだよ。栄養はきちんとしてるのわかるんだけど、あんまりおいしくなくって」

「あー、なるほど……」

 少しばかり複雑になってうなずいた。

 ただでさえ一人減って大変なんだからと言われて、ほとんど見舞いに顔を出さなかったのだ。真に受けないで、菓子でも持ってくればよかっただろうか。

 十二月に入り、街はすっかりクリスマス色に染まっている。文房具屋にずらりと並んだカードを見て、ラスはポケットの中身を思い出した。

「悪い、郵便局寄っていいか?」

「うん。……あ、クリスマスカードね」

 納得したようにうなずいて、エイダは小さく息を吐いた。

「もう十二月かぁ。なんだか置いてかれた気分」

「早いもんだよな」

「雪、まだ降らないね? 楽しみにしてるのに」

「……おい」

 じとりとエイダを睨むと、彼女は楽しそうに笑った。揺れる三つ編みはほつれもなくきれいに編まれていて、やっぱりなんとなく引っ張りたくなった。

 郵便局で実家宛に八枚のカードを送り、ラスは残る一枚をエイダに差し出す。

 きょとんと目を瞬き、エイダが焦げ茶色の封筒をまじまじと見つめた。

「……あたしの分?」

「ああ」

「あ……ありがと」

 開けていい、と訊ねられてうなずいた。

 くすんだ白のカードには、封筒と同じ深い焦げ茶色でイラストが描かれていた。

 十八世紀のロンドンを彷彿とさせる街並みに、雪遊びをしている子供や跳ねる犬、手をつないでいる親子、人待ち顔で時計を見ている男性などが、可愛らしい絵柄でクリスマスを謳歌している。街灯や屋根に積もった雪には銀色の粉が振られて、きらきらと光っていた。

 そっけないメッセージに目を落として、エイダが口元をほころばせる。

「きれい」

「そりゃ良かった。おまえ、そういうの好きそうだと思ってさ」

「ありがと。カード貰うの、久しぶりだわ」

 え、とラスは思わずエイダを見た。

 ぐしゃぐしゃと頭をかき回し、言葉を絞り出す。

「あー……悪い、もしかして……」

「ああ、ごめん。気にしないで、異教徒ってわけじゃないから。単に神様を信じてないだけ。ニーチェ的な無神論ってほどでもないんだけど」

 肩をすくめたエイダはあっさりしたもので、ラスは言葉に詰まった。

「神様って、何にもしてくれないしね。いるって信じてたら腹立たしいじゃない。だから信じないことにしたの。いないものは恨めないでしょ?」

「えらくまた、極論だな」

 ラスの田舎は文字通りの田舎だったので、信じる信じない以前に教会も神様も当たり前の存在だった。

 けれどなんとなく、エイダの言うこともわかるような気がする。

 義兄が死んだとき、神様に愛されすぎたのだと誰かが言った。無性に腹が立ったのを覚えている。もとより信仰心というより年中行事でやっていたことだが、言われてみれば、そもそも信じないという発想がなかった。

 昼食には、パニーノが食べたいというエイダのリクエストで庁舎近くのバールに寄った。

 カウンターでいいと言うエイダを宥めすかしてテーブルに引っ張り込む。なにせ別命が下っているので、さっと食べて戻るわけにはいかない。

 ラジオから流れるオペラが店の雰囲気とちぐはぐだったが、具沢山のパニーノは旨かった。こんがり焼き目をつけたパンに風味のいいチーズ。ソーセージは弾けるような歯ごたえで、噛みつくと溢れ出す肉汁がトマトと合っている。何より、笑み崩れたエイダの顔が嬉しかった。

 よぎった思いに赤面して顔を背けたとき、エイダが言った。

「下院、通っちゃったね」

「へ?」

 あわてて顔を戻すと、エイダが首を傾げた。

国内秩序法 インターナル・オーダー。本当にクリスマスまでに成立させるつもりみたい」

「ああ、あれか」

 意味のない相槌を打って、ラスはテーブルからエイダの本を持ち上げた。

 ふと、雑誌に混じって、一冊だけ薄い小説があるのに気づいた。見覚えのある深い臙脂色。アリス・イン・ワンダーランドだ。

「スーレに借りたのか?」

「ううん、買ったの。……知らない? 『アリスになるか、トランプのままか』」

 声に苦い色があった。

 目を上げたラスに、エイダは小さく肩をすくめる。

「反対運動のキャッチコピーに使われてるみたいね。ここだけ抜き出すなら、今の状況の風刺にぴったりなの。無茶な女王様の兵士にアリスは反抗する。『あんたたちなんか、ただのトランプじゃないの!』ってね」

「ああ、そういえば……」

 抵抗するか、服従するか。その二択なのだとエイダは苦く笑う。

「意見をまとめる手としては有効かな。わかりやすい選択肢を出して、そこに人をはめ込むの。……自然発生的な動きにしてはそれなりに統率が取れてるみたい。優秀な扇動者がいるのかもね」

 否定的な響きはなかったが、どこか不安げにも聞こえた。

 黙り込んだラスに肩をすくめて、エイダは二杯目のコーヒーを注文した。

 温かいカップを両手で包み込み、そっと息を吹きかける。湯気の向こうの伏せ目がちな顔は物憂げで、小作りの綺麗な顔を際立たせていたが、なんとなく彼女には似合わない表情のような気がした。

「ラスは、なんで施行技官になったの?」

 突然の質問に、ラスは目をみはった。

「なんでって言われても……あのさ、怒んねえ?」

「たぶん」

「一番給料が良かったから」

 エイダがきょとんと目を瞬き、ついで苦笑気味に眉尻を下げた。

「そっか、仕送りしなきゃいけないもんね。家族とは仲いいの?」

「いいわけねぇだろ。日々戦争だぞ。姉貴も兄貴もうるせぇし下は下でうるせぇし」

「そう? にぎやかでいいじゃない」

「にぎやかなんてレベルじゃねえよ」

 思い切り顔をしかめたラスに肩をすくめ、エイダはカップに目を落とした。

「あたしは、もっと褒められたものじゃなかったな。兄さんのこと追いかけてきたの」

「……へえ」

 他人からは聞いていたが、生真面目な彼女の口から聞かされるとは思わなかった。

 できるだけ気のない相槌を返して、ラスは話の先を促す。

「あの人、あんな感じだから。心配でほっとけなかったんだってずっと思ってたけど……本当は、寂しかったからなのかもしれないなって、最近、思うの」

「……別にいいだろ、動機がなんだって」

 エイダがちらりと目を上げた。

「あいつが身内だからって雇うタマかよ。現におまえは仕事ができて、役に立ってる。それで十分だろ」

「……ありがと」

 エイダが淡く微笑んだ。

 やはりそれはどこか儚げで、ラスを落ち着かなくさせる。

「……ずっとね、あの人の妹だってことは、あたしの負い目だった。……だからきっと、そんな風に言ってもらいたくて必死にやってきたんだわ。こうしなきゃいけないとか、ああすべきだとか、そういうのにすごくこだわってた。自分を正当化したかったのね」

「小難しく考えすぎだろ」

「そうかも。……きっと、前提自体が間違ってたんだわ」

 上演が終わったらしく、ラジオからは電気分解された拍手の音が溢れだしていた。

 ふと、首相の名前が聞こえて振り返る。どうやら花束を贈ることになっているらしい。

 手持ち無沙汰に再び雑誌をめくると、ちょうどよく、首相の強引なやり口にまつわる諸々が特集されていた。ライバルを心無い方法で蹴落としただの、夫婦仲は実は冷え切っているだの、過去の汚職の噂だの、まさに言いたい放題だ。信頼性の低いゴシップ紙とはいえ、デイリー・ジャーナルを廃刊に追い込んだ男がよく放っているものだと思う。

 ふと、エイダが心配そうに見ているのに気づいた。

 首を傾けて、はたと気づく。ラスが同じ話を蒸し返さないかと思っているのだろう。

「んな顔するなよ。そう何度もバカやらねぇって」

「ごめん。変な顔、してた?」

 珍しく申し訳なさそうな声で言うので、肩をすくめて返した。別に責めたつもりはないのだが。

「でもまあ、複雑なのは複雑だよな。俺だけじゃないとは思うけどさ」

「うん……」

 ふと、沈黙が落ちた。

 あれ以来、反対派の学生と会ったことはなかった。エイダが怪我をしたことで多忙になったこともあるし、頭と気持ちを整理したかったのもある。エイダが退院するまでは、と、自分の中で区切りをつけていた。

 時間はあっという間に過ぎ、法案もどんどん現実味を帯びて行く。焦りがないといえば嘘になる。

 自分個人にできることが、何かあるだろうか。

 一月考えたが、まだ答えは出ない。

 思案に沈むエイダの顔をちらりと見て、ラスは細く息を吐いた。

「……法って、何なんだろうな」

 エイダが驚いたように顔を上げた。

「あ、いや。……悪い、俺、あんまりよく知らねえから」

「ううん、違うの。あたしも、同じこと思ってた。 法律 レクスは支配者の道具になってしまうかもしれない。じゃあ、それを止めるのはイウスしかないんじゃないかって。……今の法に、それができるんだろうかって」

 真剣な表情で言い募るエイダに、よくわからないとは言えなかった。

 気圧されるようにうなずくと、彼女はふと言葉を切った。

 少しだけ迷うように目を伏せて、物思いを振り切るようにエイダが顔を上げる。大きな漆黒の瞳が、決意を込めてラスを見つめた。

「……ラス、あたし――」

 ――乾いた音が、唐突に言葉の先を奪った。

 ラスは驚いて振り返る。

 音源はラジオだ。それが何の音なのか認識する暇もなく、再び、同じ音が鳴る。音質はひどく軽いのに、途方もない不吉さを感じさせる音だった。

 心臓が、冷たい鼓動を打った。店内はしんと静まり返っていた。ラジオも不気味な沈黙を保ち、一声さえ発せられないまま硬直した時間が過ぎる。

 乾いた唇を動かし、ラスは喘ぐように言った。

「今の……」

 不意に、ラジオの向こうで悲鳴が上がった。

 続いて怒号が混じり、大波のような混乱が電波を通して流れてくる。

「……銃声、か?」

 つぶやいたラスに、エイダが口元を覆った。

 まさか、と震える声で言う。

 拍手。カーテンコール。花束。二発の銃声。指し示すものはひとつだ。

 ――一九二二年十二月一日。マイセスの若き首相が、凶弾に倒れた。