005

 医者はいかにも居心地が悪そうに、ひとつ咳払いをして口を開いた。シュミットと極力目を合わせないようにして、早口に告げる。

 結論から言えば、命に別状はない。打撲以外には鎖骨と肋軟骨に各一箇所のヒビ、あとは捻挫程度だ。ヤリ=スーレはその時点で顔色を失っていたのだが、続いて全治三週間という言葉を聞いて安堵の息を吐いた。感覚的には、そう長いものではない。

「心配要りません。お若いですし、すぐに治りますよ。ただ、鎖骨の骨折箇所が筋肉の付着部なんです。重いものを持ったり手を上げたりして筋肉が引っ張られると、完全に骨折してしまう可能性がありますから……まあ、しばらく大人しくしていた方がいいですね」

 シュミットはうなずき、音を立てずに腰を上げた。

「完治まで入院させる」

「え? いや、何もそこまで……」

 黒い目に一瞥され、医者が顔を引きつらせて言葉を呑んだ。

「……あ、いや、わかりました。そうですね、その方がいい」

 無言のまま部屋を出て行くシュミットに代わり、ヤリ=スーレが丁寧に一礼した。医者の大きな嘆息がそれを送り出す。

 外来の椅子で唇を噛んでいたラスが、のろのろと顔を上げた。

「あの、俺……」

「――死ぬなら、一人で死ね」

 立ち止まりもせず投げつけられた言葉に、ラスは打たれたように唇を噛んでうなだれた。

 規則正しい足音が去っていく。反感を覚えることさえできずに拳を握り締めると、ヤリ=スーレの大きな手がラスの肩を叩いた。

「……ごめん。わかってる、俺が悪い……」

 くしゃくしゃと頭を撫でられて、泣きそうになった。

 唇を噛むラスの背を、ヤリ=スーレが促すように押した。うつむくばかりだった首を痛いくらいに上げると、優しい目がうなずいた。

 引きずるような足を病室に向け、ラスは扉の前で胸の辺りを擦った。

 動悸がなかなか治まらない。

 ゆっくりと息を吸って、吐き出して、ようやく扉に手を掛けた。

 病室は思ったよりも白くなかった。ベッドに横たわったエイダが、半分夢の中にいるような目でラスを見る。思わず硬直したラスに首を傾げ、次いで痛みか何かで顔をしかめた。

「……びっくりした……ここ、病院? もしかして、あたし、気絶した?」

「あ、ああ。なんか、診察の途中で」

「うん、そう、そうだった。……死ぬかと思った。あの医者、ヤブじゃないの」

 痛み止めのせいか言葉こそ切れ切れだったが、内容はしっかり悪態をついている。ほっとするような、でも笑ってはいけないような気がして、表情をうまく作れなかった。

「……なんて顔、してるの」

 エイダが困ったように眉尻を下げた。

「兄さんにきついこと言われた? 気にしなくていいよ。あの人、大人げないだけだから」

「いや……」

 溢れ出す感情を必死に抑えようとして、声がぶれた。

「……ごめん。俺が……俺のせいで、こんな」

「もういいよ。反省、してるんでしょ? ……あたしも悪い。あんな状態だったんだから、止めるべきだったのに……判断が甘かった。ごめん」

「違う、俺が……!」

 握り締めた拳が軋んだ。優しい言葉が痛かった。

 手を抜くなとあれほど言われた。慎重になれと何度も言われた。いつしか慣れてしまって、聞き流していた。自分を過信していた。

 何も言う資格などないと思った。この場に立っていることすら苦痛だった。消えてしまいたかった。口ばかり生意気で、何一つまともにできていやしない。

 うつむいていたラスは、エイダが身を起こす気配にあわてて顔を上げた。

「ちょっ、おい、なに動いて――」

「うるさい」

 エイダがぴしゃりと言った。顔をしかめた理由は痛みや体の不自由さだけではないらしい。ラスがとっさに差し出した腕を掴み、エイダはラスの頭を肩口に押し付けるようにして引き寄せた。

「お、おい?」

 あわてるラスの耳に、大きなため息が届く。

「まったく……ちっちゃな子供じゃないんだから、しゃんとしなよ」

 泣いている子供を宥めるように、やわらかな手がぞんざいに背中を叩いた。

「思いつめろなんて誰も言ってない。反省しないのは問題外だけど、後悔しすぎるのもよくないよ。辞めるなんて言ったら、それこそ怒るから」

 ――見透かされていたらしい。

 黙り込んだラスに、エイダは苦笑じみた声で言った。

「ね、考えてみて。あたしの怪我は治るよ。取り返しのつかないことなんて、まだなんにもない。……今から、もう一回頑張ればいいよ。まだ全然遅くない。……だから、ね? くじけてないで、頑張ってみせてよ」

 うなずくしかなくて、うなずいた。

 涙腺を刺してくる温度と戦いながら、ラスはもう一度、決意を込めてうなずいた。