03. By too much altercation truth is lost.

001

 月曜日は朝から冷え込んだ。

 ロンドンのように霧に沈むほどではないが、運河の水面から朝靄が立ち上って、早朝の街をうすぼんやりと包んでいる。

 ラスは外套の襟を寄せるようにして、背中を丸めながら河岸通りを歩いた。

 首都をまっすぐに分断するこの道を南下すれば、やがて 中央裁判所 プライマル・コートにたどり着く。逆に北上すれば議事堂だ。長い歴史とは裏腹に整備された首都は、道案内がとても簡単だった。

 いつものコーヒースタンドに寄ると、のんびりした雰囲気のおやじさんが注文もしないうちからコーヒーを淹れ始めた。

 ドリップにエスプレッソを二ショット。とんでもなくきついが、慣れると癖になる。

「いやあ、冷えるねえ。一足早く冬が来ちまったかな」

「まったくだ。どうせなら雪でも降らねぇかな」

「降ったら降ったで大変だよ」

 愉快そうに肩で笑い、店主は熱いコーヒーを差し出した。

「いつも早いけど、市場の人かい?」

「いや、もっと南の方――」

 硬貨を渡したラスは、目に飛び込んできた新聞の見出しにぎょっとして動きを止めた。コーヒーを落とさなかったのは僥倖だ。

 ローマでクーデター発生――不良警官の顔が脳裏によぎって、思わず新聞を手に取った。

「クーデターって……イタリアか!? マジかよ!」

「1リオと50イース」

 にこにこした笑顔とともに、分厚い手が差し出された。

 そのまま黙って見つめあい、ラスは無言で小銭を引っ張り出す。

 新聞とコーヒーを抱えて煉瓦の壁に寄りかかり、記事を目で追った。実のところローマがイタリアなのかどうか少しばかり記憶が疑わしかったのだが、幸いにというのか残念なことにというのか、やはり事件が起きたのはイタリアだった。

 数万人という規模の 武装市民 カミチア・ネーラが首都ローマを包囲、政府が戒厳令を布告したという。記事から伝わってくるのは興奮ばかりで、詳細はほとんどわからなかったが、きな臭さは十分に伝わってきた。

 いくら武装しているといっても、軍隊を相手にできるほどではないだろう。下手をすると、ロシアのように虐殺事件に発展するかもしれない。

 ラスは眉間に皺を寄せてコーヒーをすすった。強い苦味が、熱を伴って舌にしみていく。

 白い息を吐いたとき、通りを馴染みのある顔がやってきたのに気がついた。彼女もこちらに気づいたので、挨拶代わりにカップを持ち上げる。

「よお、エイダ。早いな」

「そっちこそ。……って、いつものことか」

 目が覚めちゃって、とエイダが小さく肩をすくめる。その仕草は皮肉よりも、どこか黒ウサギめいた可愛らしさを感じさせる。

 グウィードのからかいを思い出して、ラスは思わず新聞を握り締めた。

 エイダが不思議そうに首を傾げた。

「何やってるの? ……あれ、ワールドニューズじゃない。珍しいね、タブロイドじゃないの」

「ああ、これ」

 一面を見せると、エイダが眉宇を翳らせた。真面目すぎる彼女の性格を思い出して、ラスはことさら軽い口調で言う。

「大事件だろ。グウィードが荒れそうだよな」

「本当にね。巻き込まれないように離れておいたら?」

 新聞に目を落としたまま、エイダが答えた。

 どことなく声に棘がある。エイダがあの警官を嫌っていることを思い出し、ラスは黙ってコーヒーのカップを傾けた。先日のアシュリーといい、あの男は裁判所の女性陣に評判が悪いらしい。

 ややあって、エイダがため息のような声を漏らした。

「クーデターか……失敗しても成功しても、面倒なことになりそうね」

「面倒?」

「ファシスタ党の党首がマルクス主義者だったって書いてある。過去形だからどうかわからないけど――ロシア革命再び、って気分になると思わない?」

「……なるのか?」

 話が飛びすぎて、今ひとつぴんとこない。

 首を捻ったラスに、エイダは首を傾けた。

「ならないといいんだけど。そこまでこじつけそうな人が議事堂方面にいるような気がするのよね」

「って、首相かよ。おまえ、ほんとあいつ嫌いだよな」

「嫌いじゃないよ。怖いだけ。デイリー・ジャーナルを廃刊に追い込んだり、議会を無視したり……力ずくが目立つもの。実際、いい機会なのよ。手段を選ばないならね。ルールに縛られない人間は何をするかわからないでしょ?」

 きっぱりとした非難に、ラスは顔をしかめた。

「ルール守るばっかじゃ、変わるもんも変えられないだろ」

「それとこれとは別問題だと思うんだけど……その意見のほうが多いのが、余計に怖いんだよね……」

 エイダはため息混じりに新聞を返した。

 弾みで指先が触れあう。氷めいた冷たさに驚いて、ラスは思わずその指を掴んだ。

「おい、おまえ手袋――」

 エイダが目をみはった。ぴたりと硬直して動かない彼女にはたと気づいて、ラスはあわてて手を離す。

「わ……悪い! その、つい……!」

 耳まで真っ赤になったラスに目をしばたき、エイダがつられるように赤面した。

 うつむくと同時にぎこちない沈黙が落ち、あわてて二人揃って顔を上げる。

「あ、ほら、急に寒くなったでしょ。手袋とかしまいこんじゃってて」

「だよな、なんか雪とか降りそうだよな!」

「雪? 雪は……どうだろ。もう何年も降ってないけど」

「え」

 思わず真顔で反応した。

 その顔がおかしかったのか、エイダが吹き出す。ラスは憮然として腕を組んだ。

「寒いのに降らないって、何か詐欺くさくないか?」

「降って欲しいんだ?」

「……なんだよ、その顔」

 ラスが渋面を作る。エイダはくすくすと笑って、それには答えなかった。

「まあ、しばらくはあの人と遊び歩くのやめたら? さすがに一月もすれば落ち着くでしょ。大人しくしてれば、雪が降るかもよ」

 からかうように彼女は言った。

 革命が成功したのならまだしも、失敗すれば大した影響力は残らない。そして、軍が起こしたわけでもないクーデターが成功する可能性はきわめて低かった。

 だがしかし、その予想は覆されることとなる。

 ――イタリア国王が戒厳令を拒否し、ムッソリーニを首相に指名したのだ。