02. The effect follows the cause.

001

「身柄事件発生! セントポール通り四番街、 強盗致傷 RRBI、被告人ロビン・マコーレー。現居所は――」

 市警本部の一室に、緊迫した声が響く。

 交通手段の発達した現代において、 遁刑犯 フュジティブの追跡は時間との戦いである。時間が経過すればするほどに足取りは消え、犯人確保への道は遠ざかる。

 遁刑犯課から、鋭い目つきをした警官が足早に飛び出ていく。猟犬さながらの組織的な行動は、それを率いるリカオンが不在でも変わらず維持されていた。

 ビルを後にする猟犬たちを見下ろし、捜査部長は深くうなずいた。

 土台はすでに固められている。群れはそれぞれになすべき役割を見極め、果たし、獲物を決して逃がさず追い詰める。グウィード・グラウがたった五年で磨き上げた、完璧な群れだ。

 いま、目の前に迫っている危機には、だからこそこの男が必要だった。

「そもそも、法精霊に治安まで任せようってな考えが間違いだった――要はそういうことだろ?」

 傾けた椅子をギイギイと鳴らしながら、グウィードが皮肉たっぷりに笑う。

 市警本部の会議室には、安煙草の煙が漂っていた。

 窓から街の姿を見下ろしていた捜査部長が、ぴくりと片眉を上げた。口の聞き方を知らない男だが、この男を新設の捜査二課に引き抜いたのは彼自身だ。一度として 遁刑犯 フュジティブを逃したことのない執念と、外見にそぐわない指揮力を買った。

 ポストこそ課長ではないが、新設課の鍵を握るのは、間違いなくこの男だ。

「そうではない。罪を犯せば必ず罰を受ける――この事実は、確実に抑止力としての効果を持っている。……問題は、それが及ばない犯罪者に対して、警察の捜査範囲がきわめて限られている点だ」

「わかりやすく話そうぜ、部長。あんたが言いたいのはコミンテルンの手先連中のことだろ。革命とやらに心血を注ぐ確信犯だ」

「……その通りだ。行動を起こされてからでは遅い。捜査二課では、組織犯罪の摘発を重点的に行ってもらう」

 慎重に言葉を選び、部長はグウィードを振り返った。

「他国と違うのは、我々はどうあっても法を守らねばならない――どんな犯罪を防ぐためであっても、特別扱いは認められないということだ。その上で危険性のある組織や人物をリスト化し、監視しなければならない。あくまで適法に、法の網をかいくぐる連中の首根っこを押さえる。そのための捜査二課だ」

「ひとつ確認だ、部長。政治犯のリストはないんだな?」

「……現時点では作成されていない。そもそも知ってのとおり、この国に政治犯や思想犯は存在しないのだ。どれほど危険であろうと、奴らが裁かれるのは、いずれも行動を起こしたときのみだからな」

 グウィードは鼻を鳴らし、天井を仰いだ。

 部長はひとつ息を吐き、強い目で猟犬を見据えた。

「俺はお前を買っている。厄介事が山売りされた仕事だが、これができるのは、お前を措いて他にない。……引き受けてくれるな」

 一際高く椅子を軋ませ、グウィードは床に足を下ろした。

 青く染めた髪が毒々しく揺れる。顔をしかめる捜査部長に、彼は口角を持ち上げて笑った。

「リストができる前に、奴らが行動を起こさないことを祈るんだな」

 

 

      -

 

 

 マイセスの法構造は複雑だ。

 それそのもので完結している法は少ない。本法以外にも政令や省令、規則に条例、細則、さらには規模の大きなものになると専用の手続法が別にくっついてくる。正直なところ、ラスには何が何なのか、どういう意味を持ってどんなものがどこに入っているのかさえ、さっぱり推測がつかなかった。

 ただ、ひとつだけ確信していることがある。それは、最もバリエーション豊かなのは条例だということだ。

 なにせ二十八州がそれぞれ独自のルールを持つものだから――州議会が次々と条例の改正や制定や廃止を決議するこの時期には、細かい上に山のような量の更新手続きが発生するのだ。

 その実感、すなわち積み上がった書類を抱えつつ、ラスはほとんど鬱屈に近い心情で廊下を小走りに通り抜けていた。

 事務局がある最上階は職員以外の出入りがほとんどなく、いつ来ても廊下が寒々しい。

 エレベーターの半円形の階数盤が、かこりと七階を指した。

 二十年ほど前の改装で設置されたのだが、ラスにはなんとなく腰が引けて使えない。そのせいで、軽やかなベルの正体に気づくのが遅れた。

 真鍮の蛇腹が滑る音に、あわてて身を捻る。この勢いでは出てくる人物とぶつかるのは必至だ。かわそうとした拍子に抱えていた書類をぶちまけそうになって、たたらを踏んだ。

「うわっ! ……たた、とっ」

 その場でくるりと半回転し、書類の山を押さえるようにしゃがみこむ。

 自分でも間抜けな動作だと思ったので、エレベーターから出てきた人物の呆れたような視線に、引きつった笑顔で返した。

「あ、いや、えーっと……お気になさらず」

 堅物を絵に描いたような初老の事務局長が、苦い顔でこめかみを押さえた。

 エレベーターの運転士が笑いを堪えながら扉を閉める。再び大きな音を立てて籠が降りはじめた。どうして気づかなかったのか不思議なくらいの音量だ。

 そそくさと立ち上がって逃げようとしたラスの背中に、低い声が投げられた。

「……ケージ施行技官」

「はいっ」

 思わず背筋が伸びる。まさか名前を覚えられているとは思わなかった。

「まずは落ち着きなさい。廊下を走ったところで、仕事の効率は上がらんよ」

「は、ははは……すいません」

 居心地の悪さに後ろ頭を掻きかけ、崩れかけた書類をあわてて押さえた。

 事務局長が長々と息を吐く。

「行って良し」

「はいっ」

 反射的に駆け出しそうになった足を一旦止めて、ラスはことさらゆっくりと歩いていく。

 疲れ切ったようなため息が、背後で響いた。

 

 

 

 二階に戻ったところで、再びエレベーターが鳴った。

 今度は慎重に近づいたラスに、降りてきた青年が気づいて柔和な笑みを向ける。茶色の髪を後ろに撫で付けた、おっとりした印象の優男だった。

「あれ、君、もしかしてラス・ケージ君かい?」

「……はあ」

 今日は何かと名指しされることが多い。

 うなずいたラスに、彼は朗らかに言った。

「ああ、ごめんごめん。見たことない顔だから、これは噂の新人君かと思ってさ」

「噂の内容は言わない方向でお願いします」

 彼はおかしそうに喉を鳴らし、自己紹介をした。

刑事部 クリミナル・サイドのハストンだ。よろしく。シードル・シュミットとは同期でね」

 両手が塞がっているので、ラスは会釈で返した。

 大量の書類に目をやり、ハストンがどことなく苦々しい笑顔になる。

「大荷物だね。手伝おうか?」

「いや、大丈夫っすよ。すぐそこだし」

「そうか。ところで……一課の状況だけど、今は忙しいかな」

「忙しいっすね。この時期だし」

 だよねぇ、と苦笑のままハストンがうなずいた。

 どういう意味かと不思議に思ったとき、天文時計の鐘が鳴りはじめた。四回、三回、二回、一回、もう一度二回。十二時の報知だ。鳴り終わるころに一課に着いた。

 ハストンが当然のように扉を開け、ラスを促す。好意に甘えて、先に部屋に入った。

「戻りましたー」

「おかえり。……って」

 休憩に入ろうとしていたエイダが顔を向け、わずかに表情を引きつらせた。

 ハストンがにこにこと手を上げる。

「やあ、お久しぶり」

 ラスはますます首を捻る。シュミットはあいかわらずの無表情だが、二班長のアシュリーが珍しく渋面を作っているのが気にかかった。

 エイダがひとつ息をつき、営業用の笑顔を浮かべた。

「何だかとっても嫌な予感がするんですけど。刑事部のエースがうちに何のご用ですか?」

「それが、大型の事件があってね。ほら、覚えてるかい? アマルガム製紙工場の占拠事件」

「ああ……。まさか、いまさら告訴してきたんですか?」

 エイダが眉をひそめた。

 イタリアに影響されて起きた労働紛争だが、確か二年ほど前の事件だ。

「時効には引っかかってないからね。おおかた内部でごたごたがあったんだろうけど……関わった従業員を全部告訴してくるもんだから、被告人が百人超えててね。どう計算しても処理容量超えちゃってるんで、あちこちから人手を借りてきてるんだ」

 マイセスにおいて、刑事事件の裁判の始まり方は二種類ある。

 ひとつは、法精霊による覚知。殺人や強盗などの重い犯罪が中心で、何をせずとも裁判が開始され、一審の判決が弾き出される。

 もうひとつは、私人や警察による告訴だ。マイセスは私人訴追を採用しているので、被害者や治安組織が裁判を起こそうとする場合、訴追のための弁護士を雇うことになる。

 これだけの規模となると製紙会社の 企業内弁護士 インハウスロイヤーも大変な目に遭ったことだろうが、裁判所側にとっても負けず劣らずの大仕事だ。

 苦笑する書記官に、ラスは首をかしげて口を挟んだ。

「人手っつっても、ここ営繕課すよ」

「あ、知らない? 君のとこの班長さんね、書記官資格持ってるんだよ」

「はあ!?」

 マイセスの初審には判事が存在しない。 書記官 クラークといえば、豊富な法知識と事務処理能力が必要になる裁判所の主力層だ。

 思わずシュミットを凝視したラスに、ハストンは愉快そうに笑いながら続けた。

「こいつ、上司に睨まれて刑事部に出された時期があってね。そのときの戻る条件が――」

「ハストン。他人の昔話をしにきたわけではないでしょう」

 アシュリーがひやりとする声でさえぎった。唇は微笑めいた弧を描いているが、チョコレートブラウンの艶やかな双眸は、凍りつくように冷たい。

 美女の一睨みは強力だ。ハストンは大げさに首をすくめた。

「相変わらず夜の砂漠みたいな人だね、君は」

「あなたは水漏れのするポットのままです。そろそろ補修してください」

「……うん、もう少しくらい優しくしてくれても罰はあたらないと思うよ?」

 うなだれて首を振り、ハストンは気を取り直すようにシュミットに手を差し出した。

「ともかく、そんな次第で人手が足りなくてね、シュミット。よろしく頼むよ」

 シュミットはようやく書類から目を上げた。

 深淵の黒がハストンの愛想笑いを捉える。いつもと同じといえばそうなのだが、妙な威圧感を覚える目だ。

 ラスがそろそろと視線上から退避したとき、低い声が言った。

「……面倒だな」

「って、それはないでしょ! まったく……来てくれなかったら今度から君のこと、リンゴ君て呼ぶよ!?」

「呼びたければ呼べ」

 無感動な返事に、ラスは抱えた書類をぶちまけそうになった。

「ちょっと待てっ! どっから出てきたんすかその呼び方!」

「ああ、シードルってフランス語でリンゴ酒のことなんだよ。もちろん綴りは違うけど」

「真面目に解説しないでくださいよ! つーか、あんたも何あっさり受け入れてんすか!」

 びしりと指差されても、シュミットは微動だにしない。

 それどころか、ラスの突っ込みのほうにいささか面倒くさそうな気配があった。

「支障はない。構わん」

「……どうせ呼んだって反応しないくせに」

 エイダがぼそりとこぼした。班長と呼び続け無視され続けて根負けした経験からのため息だろう。

 一方通行の混沌の中、ハストンがぽりぽりと頬を掻いた。

「まあ、それは冗談として……真面目な話、もう長官のサインも貰ってるからさ。断っても業務命令になるだけだよ。またこっちに流されたくないだろ?」

  施行技官 フォースエンジニアの人事は書記官と違って独立性が強く、執行官ほどではないが事務局の配下からはみ出ている。

 ハストンの言葉を受けて、課内の視線が窓際の薄くなった頭に集まった。

 ただならない気配を感じた課長が、ピンセットを手にそろりと振り返るが、そのまま顔をペトリ皿に戻してしまう。

 沈黙が流れた。当時の課長はできたかもしれないが、あれは無理だ。上と下からのプレッシャーに潰れて、先に辞職願を出してしまいそうである。

 ハストンがぎこちなく咳払いをした。

「あー……ええと。……僕が怒られるので、お願いだから来てください」

「断ってはいない。面倒だと言っただけだ」

「なんて奴だ! それならそうと先に言ってくれ!」

 大げさな非難を聞き流し、シュミットは書類を整えながら訊ねた。

「予定は何日だ」

「あいかわらず付き合いの悪い……三日だよ、三日。たった三日っきりだ。ぜひとも全力で取り組んでいただきたいね」

 そうかと答えてシュミットは席を立った。書類を手渡されたエイダがあわてて訊ねる。

「片付けていいの?」

「ああ」

「あ、待ってよシュミット。どうせだから打ち合わせかねて、昼食を――」

「断る」

「うわ、即断!? それはないよ、君、今のこっちのメンバーと会ったことないだろ!」

 扉が閉まるのを合図にして、嵐が去ったとばかりに空気が正常値を取り戻した。

 シュミットがいるといないとでは室内の体感気圧が200トルばかり違う。ラスは襟元を緩めながら、エイダに苦笑いを向けた。

「とんだ災難だな」

「まったくね。とにかく、スケジュール組み直さないと――」

 改正法の束を手持ち無沙汰にめくっていたエイダは、不意にそれを取り上げられて顔を上げた。

 取り上げた褐色の手の持ち主は、二班長のアシュリーだ。極力一斑に干渉しないはずの彼女の行動に、ラスも驚いて目をみはった。

「これは私が。あなたは報告書をお願いします」

「え? でも……」

「いずれにせよ、一班だけでの対応は困難です。全体を調整すべきでしょう。それに……そもそも、あなたの仕事ではありません。違いますか?」

 言葉に詰まるエイダに、アシュリーが少しだけ目元を和らげる。

 そして、促すように言った。

「エイダ。上司を甘やかすのもほどほどに」

 うつむいたエイダの肩に手を置いて、アシュリーは二班の技官を呼んだ。

 残されたエイダは、どこか寄る辺ないような表情をしている。ラスはうろたえて言葉を探したが、彼女が気持ちを立て直す方が早かった。

 エイダが大きく息を吐き、はたと窓際の惨状に気づいて顔をしかめる。いつの間にかペトリ皿は重ね合わせられて、二段目に突入していた。

「……課長、どこまでそれ増やしてるんですか! いいかげん捨てますよ!」

「えっ。いや、その……土には植えてないんだが……」

「限度って言葉、ご存知です? 去年の惨状は、よーっくご認識いただいてると思うんですが!」

「いや、その……ほら、スペースははみ出てないし……ね?」

 エイダの剣幕に課長がおどおどと反論する。二人とも大真面目だからこそおかしなやりとりに、ラスは伸ばしかけた手を後頭部に追いやった。

 どうにも、タイミングが悪い。

 所在なく眺めているうちにヤリ=スーレが仲介に入って、手話でエイダに何かを言った。

「でも、スーレ。忘れてないでしょ? ほっといたら、あそこまで行っちゃったのよ」

「こ、今年はしないよ……! ほら、こんなに小さいじゃないか!」

「……まったく。課長? どうしてそんなに、それにこだわるんですか。カランコエっていったって、他の種類ならあこまで育ちませんよね?」

「あ、それはだねぇ」

「二十文字以内なら聞きます」

「ええっ」

 ご無体なと言わんばかりに課長が悲鳴をあげ、エイダが深々とため息を吐く。

 そのとき、ラジオの前で苦りきった声が落ちた。

「……おいおい……正気かよ」

 先輩技官のそれは、どうやら独り言だったらしい。彼は頬杖をついて、引きつった顔でラジオを見つめていた。

「どうかしたんすか」

「どうもこうも、デイリー・ジャーナルが発行禁止だとさ」

「はぁ!?」

 驚いたのは、ラスだけではなかったらしい。いつのまにか部屋に残っていた技官が一人残らず集まって、淡白に苛立ちを流すラジオを凝視していた。エイダが訊ねる。

「この間の記事ですか?」

「らしいな。デイリー・ジャーナルも速攻で提訴したらしいが……厳しいだろ」

 とんとんと進んでいく話に戸惑い、ラスは所在なげに首裏を掻いた。

「えーと、何がどうなってそうなったって?」

「ほら、この間ニュースになってたでしょ。スペイン難民の帰還船が沈没したってデマ」

「ああ」

 思わず手を打った。確かに、心臓が止まるかと思ったほど驚いたニュースだ。結局、翌日には誤報だと判明したのだが――デマに踊らされただけだとはいえ、新聞社としてはあまりにも大きな失態だった。

 おまけにデイリー・ジャーナルは、記事の中で政府の関与を匂わせていたのだからたちが悪い。

 エイダが険しい表情で口元に手をやった。

保安法二十二条 アーティクル22の初適用ってわけね。期限の上限がないから、このまま廃刊に追い込む気かも」

「まさか……そこまでしねぇだろ」

「だといいんだがな」

 先輩技官は、苦笑いで言った。ヤリ=スーレも深刻な表情だ。まるで葬式のような沈鬱な空気に、居心地が悪くて仕方なくなる。

「こうなると忍耐勝負だな。上告まで行って、 国制法違反 アンカンスティテューショナルのお墨付きを得られるかもあるが……それ以前に、それまでデイリー・ジャーナルの資金力がもつかどうかだ」

訴訟前の仮処分 プロヴィショナル・ルーリングを打って、先に発行許可を得るとか?」

「国制法の判断が絡むからな。簡単には出ないだろ」

 ますますわけがわからない。

 おいてけぼりになったラスに、ヤリ=スーレが肩をつついた。

『解説しようか?』

「……すっごくわかりやすく説明してくれるなら聞く」

 やんわりと苦笑して、彼はメモ帳を繰った。

『政府が何かをするときには、必ず法律がそれを許してなきゃならない。新聞の発行を禁止することは、保安法が許してるんだ。条件はいくつかあるけれどね』

「うん」

『けれど、法律の一番上には 国 制 法 カンスティテューションがある。国のおおもとを決める法律だ。これに違反する法律は、その違反する部分について、存在を許されない』

 そこまで書いて、ヤリ=スーレは考え込むように首をかしげた。まだ小難しいと思ったのだろう。

『要するに、「デイリー・ジャーナルを出すな」という命令が、国制法に書いてあることと違っていたら、デイリー・ジャーナルの勝ちなんだ。保安法は無視できる』

「あ、なるほど」

 思わず声に出してうなずいた。ヤリ=スーレは続けてペンを走らせる。

『問題は、時間とお金だね。確実に控訴されて、上告まで行く事件だ。下手をすれば、デイリー・ジャーナルは新聞を出せないまま、何年も裁判を戦わなければならないかもしれない。収入が減るのに給与は払わなきゃならないんだ。とても資金がもたないよ』

「……なんか、すげぇあくどい気がすんだけど」

 素直な感想に、ヤリ=スーレが苦笑する。エイダが呆れ顔を向けた。

「だから言ったでしょ、やり方が乱暴だって」

「……るせ」

 ふてくされて返し、ラスは腰を上げた。

 今は休憩時間だ。好き好んで説教に付き合うことはない。

「あ、ラス、待って」

「は?」

 ぱたぱたとデスクに戻り、エイダがカーキ色の紙袋を差し出した。 

「これあげる。最近いっつもお腹すかしてるでしょ。ベークドサンドだけど、ついでに作ってきたから」

「へ」

 思わず受け取って、次に絶句した。

 まさかとは思うが、手作り弁当というやつではなかろうか。

 勝手に早鐘を打ち始めた心臓に胸中で罵声を投げつけて畳み掛け、ラスは動揺したまま口走った。

「……お前、料理できんの?」

 音をたてて空気が凍った。

 にっこりと笑顔を浮かべ、エイダが低い声で言う。

「……無理に食べてもらわなくても、ぜんぜん構わないわよ?」

「ごめんすいません嘘です、俺が悪かったです! ありがたくいただきます!」

 取り上げられまいとあわてて紙袋を後ろに持ち上げたラスは、背後にいたヤリ=スーレに思い切りぶつかった。

 不意を突かれたのだろう。ヤリ=スーレが持っていた本を取り落とし、派手な音を立てる。

「うわ! 悪い!」

 拾い上げようとしたラスの手が、タイトルを見て止まった。

 臙脂色の地味な表紙に打たれている名前は、「アリス・イン・ワンダーランド」だ。他の本は小難しい法律論や雑誌だから、余計に浮いて見える。

 本の上にのっそりと影が落ちて、ラスは顔を上げた。ただでさえ背の高いヤリ=スーレは、こうして見上げるとまるでガリバーの巨人だ。

 拾い上げた本をできるかぎり丁寧に払ってもう一度謝ると、彼は穏やかな目で首を振った。

「あんた、そういうのも読むんだな」

 ラスが言うと、ヤリ=スーレは面白そうに首をかしげた。

「なんか意外な気が……いや、別に悪い意味じゃなくてさ」

 わかっているよ、と言いたげに彼はうなずいて返した。

 ついで、本を指差してラスに差し出す。

「あー、俺はいいや。気持ちだけもらっとく」

 ヤリ=スーレから気軽に本を借りるのは危険だ。いつだったか薄っぺらく見えた本を一冊借りたら、そこから発展して次から次へと法学書を持ってこられた。とかく人にものを教えるとなると、熱が入るタイプらしい。

 今日の勉強は、さっきの講義で十分だ。

 ラスのあからさまな態度をおかしそうに笑い、ヤリ=スーレは赤い本を引っ込めた。