003

 裁判所にたどり着いたのは、休み時間が終わる間際だった。

 空腹が過ぎて足取りが重い。気持ちまで落ち込んでくる。手持ち金の少なさに昼食をパンひとつに抑えたものの、いまだ育ち盛りの終わっていない身には足りるはずがないのだ。

 昼どきを過ぎて混雑しているエントランスを抜けながら女神の銅像を見上げたが、法の守護者は加護を与えることはあっても、食料を与えてくれることはなかった。

(だめだ、腹減りすぎて死ぬ……)

 なにせ肉体労働の直後だ。

 満たされない胃を抱えながらふらふらと階段を上っていると、呆れたような声をかけられた。

「なんだいあんた、死にそうな顔して」

「……おばちゃんっ」

 ラスはほとんど反射だけで顔を上げた。そこに立っているのは予想にたがわず、薄い青のスモックを着た小柄な女性だ。

 掃除用具のワゴンを傍らに、きょとんとラスを見下ろすのんびりした丸顔が、今は女神に見えた。かなりの高確率で腹を減らしている欠食児に、この掃除のおばちゃんはしばしば菓子を与えてくれるのだ。

「ガキに財布盗られてメシ食えねーんだ! なんか恵んで!」

「おやま。また一段と気前のいい事やったね」

「グウィードと同じこと言うなよ。大体だな、募金ってのは自分から金出すもんであって断じてかっぱらうもんじゃないわけで!」

「ああ、はいはい。いいもんやるから機嫌直しな」

 手袋を外して差し出されたのは、たっぷりと膨らんだ紙袋だ。

 うきうきと開いた袋からは、シナモンシュガーをまとったクロワッサンが顔を覗かせた。まだほんのり温かく、甘い香りが食欲をそそる。

「やった。愛してるぜおばちゃん!」

「安い愛だねぇ」

 やはり呆れ顔で彼女は言ったが、悪い気はしないようで、くつくつと笑い声を立てた。

「まあ、あんたらしい話さ。あんまり考えすぎるんじゃないよ」

「なんだよ。俺、そんなに抜けてるか?」

「そういうわけじゃない。……子供だったんだろう?」

 言わんとしているところに気づいて、ラスは尖らせていた唇をほどいた。

「初犯じゃないだろうからね。下手すりゃ監獄行きの可能性もある。あんたが思い切れないのは、わからないでもないさ」

「……グウィードにはボロクソ言われたけどな」

「それもわかるがね。まあ、行き着くところは同じだ。あんたが選ぶのは自由さ。悩みすぎるほどのもんでもない」

 慰められているのか諭されているのかいまいちわからなくなって、ラスは渋面を作った。

 悩んでも仕方ないといわれれば、その通りではあるのだが。

 やれやれと鼻で息を吐き、おばちゃんはクロワッサンの紙袋を指差した。

「ほら、それが温かいうちに戻りな。どうせならおいしく食べて欲しいからね」

「あ、うん。サンキュ」

 促されてきびすを返し、ラスはふと、思い出したように足を止めた。

 振り返った時にはいつもその姿がないおばちゃんだが、今日は珍しく、ワゴンを押す背中が見えた。

「そうだ、おばちゃん! 今日さ、迷子捜してるおばさんに会ったよな?」

 小柄な背中が振り返る。

「うん? ああ、あれかね」

「伝言! ありがとうございましたってさ!」

 そうかい、と笑うおばちゃんの顔に、なんとなく重苦しかった気分が楽になった気がした。

 

 

 一課に戻ると、エイダがもう仕事をしていた。

 もしかしたら、「もう」ではなく「まだ」なのかもしれない。思いついてしまうとそうとしか思えなくなって、ラスは紙袋を抱え直した。

 ――しょうがねぇなあ。

 ワーカホリックの気のある同僚に声をかけようとしたラスは、涼やかな声に呼び止められて、ぎこちなく顔を向けた。

「ラス。少しよろしいですか」

 果たしてそこにいたのは、インド系の理知的な美女だった。二班長のアシュリーだ。

 優美な腰つきと彫りの深い顔立ちは女性としての魅力に溢れているが、どちらかというと色気よりも冷気を感じさせる。二班の技官を取りまとめる才媛は、冷静で厳格だともっぱらの評判だ。

 まさかもう密告したのかと、受付嬢の笑顔を思い出して身構える。

「今日の件ですが――」

「すんませんしたっ! 今後はないようにしますんで!」

 勢い込んで先手を打ったラスに、アシュリーは一度目を瞬かせて、わずかばかり苦笑を浮かべた。

「私にまで謝ることはありません。もう十分に絞られたのでしょう」

「……はあ、まあ」

 ちらっとエイダを見ると、聞こえているのかいないのか、タイプライターに向かったままだ。

 こっそり胸を撫で下ろしたところへ、厳しい言葉が降ってきた。

「もっとも、同じことを繰り返すようなら問題外です。どう対応すべきだったのかは考えておくべきですね」

「……はい……」

 シュミットと対峙したときのプレッシャーも尋常ではないが、あくまで淡々としたアシュリーの釘も十分すぎるほど恐い。おとなしく返事をしたラスに、彼女はさらりと話を切り替えた。

「本題ですが、遅刻の届け出を書いておいてください。総務部への報告日ですから」

「あ、それで――」

「何ですか?」

「いや! なんでもないです!」

 最敬礼しそうな勢いで返し、ラスはあわててデスクに戻った。

 なるほどと思ったのだ。二班長のアシュリーは、普段、一斑のことにほとんど口を挟まない。シュミットへの信頼なのか彼女の信念なのかは知らないが、高をくくっていた。というより、油断していた。

 思わずため息を吐き出す。隣の席でタイプライターを叩いていたエイダが、おかえり、と声をよこした。

「おまえ、メシ食ったのか?」

「ん、まだ。もうちょっと」

「それ報告書だろ。別に急がなくていいんじゃねぇの」

「報告書はね。こっちは 再生請願 ペティション。今日中に出さないといけないから」

 シュミットが壊した法精霊の後始末だ。法精霊の管理は裁判所の管轄だが、その誕生や再生は国王の専権事項である。もっとも施行技官のように体を張るようなことはなく、書類にサインをするだけだが。

 それでも王室を相手にするわけだから、書類の数も司法省への言い訳も必要になる。神経を使うはずの仕事だというのに、当の本人は神経があるのかどうかさえ怪しいほど涼しい顔だ。よって周囲が気を揉むことになる。

「……よし、終わりっ。ラス、誤字ないか確認してくれる?」

「了解」

 情緒的にすぎない淡白な文章は、だが切々と事情を訴えている。現場を見てもいないのに見事なリアリティがあった。おまけに、かなりの長文にもかかわらず、一箇所のミスタイプもない。

 あいかわらずの秀才ぶりだ。ただ、その才覚がもっぱら始末書の製造に消費されている辺りが彼女の彼女たる所以だろう。根っこのところが真面目なせいで、いつも貧乏くじを引いている印象がある。

「オーケー、完璧」

「ありがと。あとは司法省がすんなり受け取ってくれるといいんだけどね」

 疲れた手を揉みほぐしながら、エイダが小さくため息をついた。

「さすがに、二週連続じゃ厳しいかな……」

「しかも今回は二連打だ」

「いいよ、もう。たまには怒られて痛い目みればいいんだわ」

 エイダが不機嫌に言った。だが、なんだかんだ言って始末書を代筆してしまっている辺り、彼女に兄を放っておくことは無理だろう。

 シュミットは特に書類仕事を苦手としているわけではない。処罰に無関心なだけだ。結局のところ、エイダがやっているのはただのお節介とも言える。

「……にしても、あいつの 道具 ツールっておかしいよなあ」

 ラスはぼそりとつぶやいた。

 初めてシュミットの作業を見学したとき、宙を舞う六本の 鉄杭 ステークがタイプライターのようにドコドコと条文を打ちこむ光景を目の当たりにして、そりゃ壊れもするだろうと思ったものだ。

「あいつ、何か法精霊に恨みでもあるのか? すげぇ光景だったんだけど」

「……どうかな。案外、ただの趣味なのかもね」

「そっちのほうがありそうだな。でなきゃマジで、あれはねぇよ」

 猪狩りでもやっているような構図を思い出し、ラスは思い出し笑いをかみ殺した。

  道具 ツールは施行技官の意識から具現化される。鋏や糊などの文房具ならまだしも、鉄杭など日常生活において馴染みがあるものではないはずだ。

 施行技官の道具は、間違っても狩りのためのものではない。古い条文を剥ぎ取り、新しい条文を貼りつけるものだ。用途を考えると、どうにも違和感が拭えない。

 エイダが顎に指をあて、幼げな仕草で首を傾げた。

「よってたかって、変えろって言われたみたいなんだけどね。結局あの形に落ち着いちゃったみたいで。……最初はもっと凄かったらしいよ」

「は!? あれって変わるのかよ、聞いてねぇ!」

「言ってないわね。かえって危ないもん。ミスしなくなってから聞いたら?」

 あっさりと返されて、ラスは再び机に伏した。

「……じゃあ余計に、趣味だろ、あれ」

「どっちでも大差ないけどね。もう半分諦めてるけど……やっぱり頭痛いわ。……どうにかならないかな……」

 こめかみを押さえたエイダが、ふと、机の上に投げ出された新聞に目を止めた。

「それ、号外? 何かあったの」

 言われて初めて、その存在を思い出した。昼の間に貰ってきた号外だ。

「ああ、傑作だぜ。ベルギー人のやつ、首相が思い切ったことやったってさ」

 エイダが眉根を寄せた。

 話が聞こえたらしいヤリ=スーレもやってきて、二人揃って難しい顔で号外を覗き込む。ラスの予想とは違う反応だった。

 一通り目を通したエイダが、小さく息をつく。

「……乱暴なやり方ね。今どき、 勅令 エディクトなんて持ち出すとは思わなかった」

 ヤリ=スーレが表情を翳らせてうなずく。深刻な雰囲気に、ラスは後ろ頭を掻いた。

「よく知らねぇけど、別に反則ってわけじゃないんだろ? いいじゃん、別に」

 二人が目を丸くしてラスを見た。

 信じられない、と言わんばかりの顔に居心地が悪くなる。そもそも 勅令 エディクトがなにかさえ知らないラスは、思わず身を反らした。

「……なんだよ」

「うん、なんか、驚いたんだけど……スーレ、もしかしてこういう意見が一般的なのかも」

 エイダが不安そうにヤリ=スーレを見上げる。彼はいっそう深刻な顔をしてうなずいた。

 まるで悪いような言い方だ。ラスはむくれたが、何か言っても墓穴を掘るだけなのは目に見えている。

「それよりエイダ、さっさとメシ食えよ。もう時間ねぇぞ」

 苦し紛れに話題を変えると、エイダがはたと口元に手をやった。

「忘れてた」

「おまえ仕事しすぎだろ。小難しい事ばっか考えてるから、変なとこすっぽ抜けんだよ」

「……一食くらい食べなくたって死なないわよ」

「そういう問題じゃない」

 ヤリ=スーレがエイダの肩を叩き、灰色の目で諭すように見つめる。

「……スーレまで……」

 むくれるエイダに、ラスはクロワッサンの紙袋を突き出した。

 話しこんでしまったが、まだほんのりと温かさが残っている。

「つーわけで、半分な。貰いもんだけど」

「あんたの分でしょ。それだけじゃ足りないんじゃない?」

「いや、そんなに腹減ってないし――」

 強がりを言ったとたんに腹が鳴った。

 しばしの沈黙をおいて、エイダが小さく吹き出した。

 そんな風に表情を崩すと、彼女の印象はとたんに子供っぽくなる。花が咲いたような屈託のなさに見惚れそうになって、あわてて横を向いた。

 ――気のせいだ。錯覚だ。だから落ち着け心臓このやろう!

 内心で自分の心臓に喝を入れるラスに、笑みのにじんだ声でエイダが言った。

「ばか」

「いいから食え!」

 押し付けられた紙袋を受け取り、エイダが軽やかな笑い声を立てた。

「じゃあ、お礼にコーヒーでも淹れましょうか」