002

 判決文を引き出すことはすべての裁判所でできるが、 法の庭 ロー・ガーデンへの物理的な入り口があるのは 中央裁判所 プライマル・コートだけだ。

 ロマネスク風のつくりから、 地下聖堂 クリプトと呼ばれている地下三階の一角。そこに、法の庭への扉は存在する。一見、壁に刻まれた絵と見まがうその扉は、 施行技官 フォースエンジニアが身分証を持ち、誓句を紡ぐことで開かれる、特殊な入り口だ。

 ――その先にある空間こそがこの国の本質であり、そして、施行技官の作業場である。

 

 ラスの足元で、牛ともカバともつかない動物型の 市街地建築物法 ビルディング・アクトが疎ましげに身をよじった。

 白い巨体は細い鋼索でハムのように締め上げられている。まるで捕獲された獲物のような姿だが、法精霊はまとわりつく鋼索も背に乗った人間もおしなべて些事であるかのように悠然としている。

 その法精霊の、白い革のような膚に、金色の条文が浮かび上がった。

 ラスは鋼索を手がかりにバランスを取りながら、法精霊の背の上で 大鋏 シェアに手をかけた。

  市街地建築物法施行令 ビルディング・アクト・オーダー第412条。強度計算のややこしい数式を指ですくい上げ、鋏をくるりと回して金色を切り取る。

 腰に下げたボックスからロール紙を引き出し、流れるような動きで 旧条 ゴールドを貼りつけて、入れ替わりに 新条 グリーンを引き取った。それを法精霊に与えれば、予定分の更新は終わりだ。

 下で鋼索を引いていたエイダが、はっと叫んだ。

「待って、ラス! 最後の――」

 制止は間に合わなかった。

 腹に響く音がした。法精霊が地面を踏み鳴らした音だと気付く間もなく、ラスの体は衝撃とともに宙に跳ね飛ばされた。

 耳元で空気が鳴る。

 心臓がひやりと縮んだところに、エイダが放った 鋼索 ワイヤーが追いついた。

 左腕に巻きついた鋼索が、ラスの体を法精霊の背中に引き戻す。あわてて鋼索を掴んだラスをよそに、法精霊はぶるりと首を振って、何事もなかったかのように動きを止めた。

 詰めていた息を吐くと、心臓が大きな音を立て始めた。

「……悪い!」

「小言はあと! 気をつけろって言ったでしょ、集中!」

 エイダが眦を決して返した。こっそり舌を出しながら、ラスは自由になった腕で彼女の鋼索を握った。

 再び暴れだす背中に今度こそ条文を貼りつけ、跳ねるように床へ飛び降りる。

 気持ちよく着地して振り返ると、鋼索から解放された法精霊が、疲れたように床に寝そべった。

 そろそろ昼どきだ。ラスがいそいそと鋏を身分証に戻したとき、記録紙を確認していたエイダが非情に告げた。

「削除ミスが九個。お昼はそれ直してからね」

「え、そんなにあったか!?」

「あんた大雑把なのよ。よく確かめないでやるから、近くの項とか号とか切り取っちゃうの。はい、とりあえず34条3項を 再貼付 リペースト

 ラスは唸りながら髪をかき回し、再び鋏を手に取った。

 施行技官の 道具 ツールは、基本的に、各個人に馴染みのあるものが具現化される。ラスの場合はフィスカース社の羊毛鋏だ。確かに昔、黒とオレンジの尖ったデザインに見惚れた記憶はあるが――だがしかし、家を出てまで羊につきまとわれるとは夢にも思わなかった。

 もっとも実家への手紙で愚痴をこぼしたところ、「おまえの頭は洗毛前の羊の毛色だ。運命だと思って諦めろ」という嫌がらせに近い返事をよこされて撃沈したのだが。

 いやなことを思い出した。勢いよく首を振って、ラスは法精霊に向き直る。

 イギリスのクリスタル・パレスを連想させる、鉄骨とガラスのがらんとした部屋の真ん中で、市街地建築法はじっと目を閉じている。この 法の庭 ロー・ガーデンから、すべてを見通しているように。

 いや――事実、見通しているのだ。

 法律に反した行為を犯罪と言うなら、犯罪はあまねく法精霊によって把握されている。口にした言葉、取った行為、そして、引き起こされた結果。そのすべてを見通して、法精霊は法に従って人を裁く。

 もっとも、かつては先進的だったこの制度も、二十世紀を迎えた今となっては諸外国との軋轢の種だ。悪名高き、時代遅れの 神明裁判 オーディール。それが他国から見たマイセスの裁判である。

 それでも今日に至るまでこの制度が続いているのは、ひとえにその治安の良さによった。

 ――でもまさか、こんなもんに見られてるとは思ってなかったけどな。

 ごつごつした白い膚に条文を貼りつけながら、ラスはひとりごちた。

 明らかに無機物だったり、動物だったり、よくわからないが生き物らしき姿をしていたりと、法精霊の姿には統一性というものがない。共通点といえば、神話や伝説の精霊と違って口をきかないことくらいだろうか。

 最初こそ神秘性のようなものを感じて圧倒されていたものの、今では「取扱注意の備品」程度の認識になってしまっている。

 まだ仕事を始めて半年のラスには、見たことがない法精霊のほうが多い。その姿を予想するのは、ラスの楽しみの一つになっていた。 民法 シビル・コードは雪原を描いた絵画で、 保安法 セキュリティ・アクトは巨大な鉄球、 印紙法 スタンプ・アクトは雀と鳩を足して割ったような鳥の姿だ。法精霊の姿は定まったものではないらしく、社会の変化に引っぱられるようにその姿を変えるという。法精霊の領域もそれは同じで、最近では芸術界で流行しているシュールレアリスムの影響か、一風変わった住処が現れるようになっていた。

 ラスがせわしなく修正箇所を片付けて記録紙を手渡すと、エイダはしばらく目を通してからうなずいた。

「ん、問題なし」

「よし。メシだな」

 エイダが顔を上げ、にっこりと笑った。小首を傾げる仕草にあわせて、高い位置で束ねた髪がさらさらと肩を滑り落ちる。

 ラスの心臓がぎくりと跳ねた。好みど真ん中の可憐な笑顔だ。頭の中でしきりに警報が鳴り響いているにもかかわらず、逃げるどころか顔を背けることさえできない。

 硬直しているうちに革手袋に包まれた手が伸びて、ラスの耳を引っ張った。

「いでででっ」

「……さて質問です。法精霊が抵抗するのは、どんなときだったでしょう?」

 文句を言おうとしたラスの口が止まった。

「一つ、適正でない手続きを踏んだとき。二つ、議会や世論の反対が強かったとき……覚えてないわよね? 覚えてたらこんなドジ何回も踏まないわよね!」

「小難しくてわかんねーんだって!」

「言い訳になるとでも思ってるの!? 作業前にちゃんと説明したじゃない、耐震強度はさんざんモメたから気をつけろって!」

「あーあーわかった俺が悪かった、次気ぃつける!」

「それこの前も聞いた! ……あ、ちょっと、逃げるな!」

 エイダの手から逃れて、ラスはそそくさとぽつんと立った扉をくぐった。

 法精霊の領域を出ると、視界に飛び込むのは一面の黒だ。けれど、広がるものは決して闇ではなく、暗くはない。六等星のようなささやかな光がちらつく様は、月のない夜空を思い出させる。

 普通の夜闇と違うのは、その奇妙な明るさだ。

 目が慣れないうちから己の手も見えるほどで、明かりがなくとも不自由はない。足元からは黒く透明な階段が螺旋状に並び、はるか下方へある二枚目の扉――裁判所への出口へと続いていた。

 扉の向こうは別の世界だ。 地下聖堂 クリプトを思わせるロマネスク風の空間に、一歩踏み出しただけで体が重くなる。

 ようやく慣れ始めた違和感をやりすごしながら、ラスは襟元を緩めた。びらびらした法服よりはましだが、儀礼服じみた施行技官の制服は堅苦しくてかなわない。

 人心地ついて息を吐くと、そこには二人の先客がいた。

「げ」

 思わず呻いた口を手で塞ぐ。それを見て苦笑するヤリ=スーレの側らに、異様な威圧感を持つ背中があった。

 その男――シードル・シュミットが、音も立てずに振り返る。

 一斑の班長であるシュミットは、ラスの直属の上司にあたる。髪や目の色彩こそエイダと同じ漆黒だが、端正な顔が浮かべるものは全く逆だ。すなわち無表情である。

 そもそもこの上司の、無表情以外の顔が想像できない。存在感はやたらあるのにどこか無機物めいていて、何を考えているのかよくわからない男だ。たとえるならその印象は、鉄橋だの灯台だのといった大きな建造物が、部屋の中にどんと居座っているような違和感に近い。

「あ、班長、えーと……その、すいません。今日、遅刻して」

 シュミットは無反応だ。

 深淵の黒に見据えられ、ラスは引きずり込まれるような威圧感に冷や汗をかく。重くなった体がさらに重くなって、地面にめり込みそうな気がする。

「その、ちょっとひったくりに遭ったんすけど……連絡、忘れてて……えーと」

 ――頼むから何か言ってくれ。

 針の筵のような沈黙の中、必死でラスが願ったところに、追いついてきたエイダが顔を見せた。

「兄さん。入ってたの?」

「……控訴院判決が届いた」

 ふうん、と相槌を打ってエイダはヤリ=スーレに目をやった。施行技官の作業は二人一組が原則だ。シュミットのフォロー役であるヤリ=スーレは、エイダに苦笑を返した。

 不信感を前面に押し出した妹の態度を意に介さず、シュミットが言った。

「早かったな」

「え? そうだね、だいぶ慣れて……って」

 首を傾げたエイダが、はたとラスを振り返る。

「早ければいいってものじゃないからね! 慣れてきたときが一番危ないんだから、あんまり調子に」

「わかったっつーの! おまえしつこい!」

「誰のせいだと思ってるの? 何回も何回も何っ回も同じこと言わせて! ほんとにわかってるんだったら、いいかげん――」

「エイダ」

 シュミットが二人の言い合いを止めた。

 珍しい展開に、ラスとエイダは揃ってシュミットを見上げる。

「処理を頼む」

 差し出されたのは、紛れもない記録紙だ。

 まさか、とつぶやいてエイダが顔色を変えた。引ったくるように受け取り、悲鳴に近い声を上げる。

「ま……また再生請願!? どうやったら判決の更新で法精霊二体も壊せるの!」

「現に壊れた」

「こ、壊れたって、それですむ話だったら始末書なんていらないのよー!」

「そうか」

「……あああもう、もー知らない、今度こそ知らない、どう頑張っても減給は避けられない……っ!」

 毎度兄のフォローに奔走している妹が、とうとう頭を抱えた。本人は全く意に介していないのだからおかしな話だ。

 矛先が逸れたのを幸いに逃げを決め込もうとしていたラスは、ヤリ=スーレに肩を叩かれて顔を上げた。

 地下聖堂の低い天井に届かんばかりの長身を丸め、彼はラスにメモを差し出した。

 連ねられた丁寧な文字が言う。

『盗られた財布の件だけれど、告訴はしたかい?』

「へ?」

 ラスは目をしばたいて問い返した。

「えーと…… 告訴 コンプレイントって何だっけ」

 ヤリ=スーレは困ったように眉尻を下げて、ペンを走らせた。

『犯人の処罰を求める書類だよ。小額窃盗は親告罪だからね、放っておいたら戻ってこない。出すようなら、急いだ方がいいと思って』

 あ、と思わず声に出して、ラスは顔をしかめた。

 法精霊は発生した犯罪をあまねく覚知するが、覚知したからといって無条件に裁判を始めるわけではない。軽犯罪の多くは親告罪となっていて、被害者が犯人を訴追したとき――つまり犯人の処罰を求めたとき、初めて裁判が開始されるのだ。

 小額窃盗は親告罪なので、犯人を捕まえるには 告訴 コンプレイントが必要だ。しかし、告訴状を作って裁判所に出して判決を待って犯人の居所に乗り込んで、となると、まずその時点で盗まれた財布の中身は使い切られている。そうなったら民事で訴訟を起こして取り返すしかないのだが、相手が無一文ならこれも空手形だ。

「あー……どうすっかな。どう思う? スーレ」

『どうだろうね。告訴状を作るなら、手伝うけれど』

 無理だとは言わなかったが、その苦笑は手離しに勧めているものでもない。

 がりがりと後ろ頭を掻き、ラスは大きく息を吐いた。

「やめとく。どうせ戻ってこねぇし、気持ちだけ貰っとくよ」

 ヤリ=スーレが穏やかに微笑んで、ほぼ一方通行の兄妹喧嘩を仲裁しに行った。

 エイダの矛先が戻ってくる前に、ラスはそそくさと地下聖堂を出た。

 一課のデスクに戻って上着を投げ、窓際で背を向けている課長に一声かける。課長はずらりと並ぶペトリ皿の葉っぱの世話に夢中で、振り返らないまま生返事をよこした。おそらく覚えてはいないだろう。

 また増えたなと胸中につぶやいて、エイダの怒声を連想した。

 くつくつと笑いながら、ラスは一課を後にした。

 二十年前に改築された 中央裁判所 プライマル・コートには、外観の威容と裏腹に明るい静謐が満ちている。半円形のエントランスの前面はガラス張りで、自然光をふんだんに取り入れるつくりだ。四階までの吹き抜けの上には直線的なフォルムのシャンデリアが、その真下には剣と天秤を携えた 正義の女神 ユスティティアの銅像が、それぞれに空の色を映している。

 受付嬢のケイトがラスに気づき、ふんわりしたショートカットを揺らして笑いかけてきた。

「あら、ラス君。いまからお昼?」

「ああ」

「いいなあ。わたし、お昼当番なのよねぇ」

 あながち冗談でもなさそうにケイトは唇を尖らせ、「飴食べる?」とカウンター越しに手を差し出した。

 ありがたく受け取ったラスに、彼女はにんまりと笑う。

「まぁたエイダちゃんにおこられたでしょ。こりないねぇ」

「ここまで聞こえたのかっ!?」

「なぁに言ってるの。見てたわよぅ、大遅刻」

「あ、そっちか」

 言った後で、失言に気づいた。

 きゃらきゃらとひとしきり笑い、ケイトは小首をかしげた。

「やだもう、ほかにもなにかやったの? あんまり心配させちゃかわいそうよ」

「心配かぁ? 怒ってるだけだろ」

 ラスがいやな顔をして飴を口に放り込む。ケイトはぴっと指を立て、やんわりとラスを睨んだ。

「女心がわかってないわねぇ。心配だからおこるんじゃないの」

「だったらもうちょっと可愛く心配して欲しいね」

「あら、かわいいでしょ? エイダちゃんの顔、ラス君の好みだもん」

 脈絡のない反撃に、飴を喉に詰まらせかけた。

 げほげほと咳き込むラスを上機嫌に眺め、ケイトは笑い声を転がす。

「どっから聞いた、そんなデマっ!」

「ふぅん、デマなんだ。じゃあどんな娘が好みなの?」

 とっさに言葉に詰まった。その時点で、負けが確定している。

 思い切り顔をしかめて、ラスはケイトから目を逸らした。

「……じゃあな。一人で寂しく昼当番、頑張ってくれ」

「あ、かわいくなーい。アッシュにいいつけてやる」

「アシュリーさんは二班。俺は一斑。どうぞご自由に」

 慇懃な礼をしてみせると、彼女はますます頬を膨らませた。

「んもう、そんなんじゃ女の子にもてないんだからね!」

 背中に投げつけられた捨て台詞に躓いた。

 言い返そうと振り返ったものの、すでにケイトは来庁者に声をかけられて仕事用の笑顔に戻っていた。稚気を引っ込めた微笑には気品さえ漂っている。見事な化けの皮だ。

 割り込むだけの気力もなく、ラスは後ろ頭を掻いて裁判所を後にした。

 昼どきの街は騒々しく、昨年売り出されたばかりの国産車が 英国車 チャミィに混じって軽快に走っていた。もとがノルマンに敗れたサクソンが移住してできた国なので、イギリスへのライバル意識は至るところで発揮されている。

 一見、それは繁栄の象徴だ。

 だがその実、いまだ残る傷跡の存在を、誰もが知っていた。

 四年にわたる大戦は欧州をスクランブルエッグのようにかき回し、決定的に変えてしまった。山ほど人が死んでどの国も戦争に嫌気がさして、後始末に奔走しながら新しい時代を求めている。

 あの戦争の責任をすべて引っ被らせられたドイツは息も絶え絶えで、革命で一抜けを図ったロシアは帝政時代の借金を放り投げて貿易相手を失った。だが一方で、ほとんど内乱に近いような労働運動の大波も、戦争以上に死者を出したスペイン風邪もようやく下火になり、人々は見え始めたアメリカ製の「よりよい生活」を手に入れることに必死になっている。

 無声映画、ジャズ、家電、そして大量生産の製品。混乱を抜けた先にある黄金の一九二〇年代の、ようやく入り口に差し掛かった時代である。

 目の前の映画館に対抗するように、劇場が大きな看板を挿げ替えていた。人気のロシア系女優の憂い顔よりも、クレーンの大きさに気を取られながら歩いていたラスは、角を曲がったところで人とぶつかりそうになった。

 あわてて身を捻って事なきを得たが、紳士風の男は新聞に目を落としたまま、全く気づかないで歩いていく。見れば、駅前の交差点のあちこちで同じような光景が繰り広げられていた。

「号外、号外!」

 張りのある声を上げて、新聞社の社員が道行く人々にタブロイドを差し出す。受け取った紙面には、「 首相 ダグラスは議会を無視」と、見出しが大きく主張していた。

 ――政府、ベルギー難民の帰還支援を強行

 ――国王が 勅令 エディクトにサイン

 強い調子の批判を流し読みしながら、ラスは思わず口笛を吹いた。

「へえ、やるじゃん」

 先の欧州大戦において、ドイツに中立を侵されたベルギーは大量の難民を出した。

 マイセスはイギリスの南西に位置する島国であり、ベルギー北岸からは船で二日近くかかる。ただ、長らく友好国であったことと、週二回の直通便があったことから、それなりの数のベルギー人がマイセスを目指した。

 終戦から四年。戦後の不況で失業者が増えるにつれ、手厚い保護を受けたベルギー人への反感は日増しに強まっていた。止めを刺したのが、開戦当事に報道されたドイツ軍の蛮行がデマだったというニュースだ。同情を一身に浴びていた被害者は、彼らのあずかり知らぬ理由から、嘘つきな居候に変わってしまった。

 難民が帰国しない、あるいはできない理由は様々だが、最も大きな割合を占めるのは金の問題だ。帰国したところで家はあるか、仕事は見つかるのか。一家が動くとなれば船賃も馬鹿にならない。それらを解決しようと打ち出されたのが政府による帰還支援だったのだが、議会は莫大な予算を撥ねのけた。

 だが、首相のダグラスは諦めてはいなかったらしい。

 若き首相の強い態度は、ラスにはどこか小気味良かった。メディアには嫌われているが、ぐだぐだと理屈をこね回す連中よりもはっきりしていてわかりやすく、よほど頼もしい。

 何とはないラスの機嫌のよさは、銀行に行ってなけなしの預金を下ろすとあっさり低空まで滑降した。

 この時代、庶民にとっては預金と言うよりも貯蓄である。田舎には銀行自体がないことも多く、一般的なものであるとは言いがたい。正真正銘胸を張って田舎者を名乗るラスも、口座を開設したときの50リオしか預けていなかった。これで次の給料日までもたせなければならないのかと思うと、恨み言のひとつも言いたくなる。

 施行技官の給与は決して低くない。それどころか、同年代の人間に比べると高いほどだ。ただ、実家に仕送りをした上に引ったくり相手に意に沿わない募金をさせられて、なお余裕を気取っていられるほどではない。

 ラスは深すぎるため息を吐いて、銀行を後にした。

 羊農だけで大家族を養えるほど、ラスの実家は裕福ではなかった。ただ、教師だった義兄がスペイン風邪で命を落とさなければ、ラスが出稼ぎに出ることも、ましてや施行技官になることもなかっただろう。

 街には色づいた街路樹が鮮やかに枝を広げている。道を覆う、乾いた落ち葉を爪先で蹴散らしながら、ラスはぼんやりと考えた。

 もう、四年になる。こんな秋の日だった。

 一生、忘れることなどできないだろう。何をする暇もなく空っぽになってしまったベッドも、気の強い姉が呆然と泣いていた姿も。思い出すたびに空っぽの胸が軋んで、息苦しくなる。

 乱雑に髪をかき回したとき、道端がざわつき始めたのに気がついた。

 目を向ければ、九番通りの西側に人だかりができていた。バタバタと脇を抜けて駆けていくのは制服警官で、何が起きているのかぴんとくる。

 人垣の後ろから現場を覗き込むと、案の定の光景と、予想外の人物に出くわした。

 筋肉質の男が警官に二人がかりで取り押さえられている。こちらは案の定だ。

 予想外だったのは、それに対峙している指揮官が、見覚えのある派手な青い頭をしていたことだった。

「……グウィード? なんだ、戻ってたのかよ!」

 野次馬の何人かが引きつった顔で振り返った。ラスは遅まきながら口を塞ぐ。独り言にしては大きすぎたし、わずかばかり声が弾んでしまったのもまずかった。

 あの変人と関わり合いになりたくないというのは正常な生存本能の働きだ。半ば道を譲られるようにして前に出ると、やはり間違えようもなく、顔見知りの不良警官が気怠げに安煙草を噛んでいた。

 踏み出した一歩にあわせて、インディゴで染めた長い髪が揺れる。まるで蜥蜴の尻尾だ。骨と筋肉だけでできたような細身の体と、愉快げに曲げて吊り上げた唇は、どこか粘着質な印象を抱かせた。

「さァて……そろそろ諦めどきだ。自分が何でとっ捕まってるか、理由はわかってンだろ」

 煙草を投げ捨て、グウィードは皮肉たっぷりに言った。

 奇抜を通り越したいでたちと、得体の知れない気味の悪さに、周囲はすっかり呑まれている。取り押さえられた筋肉男も例外ではなかったが、はっと我に返って吼えた。

「し、知るかよ! 放せ!!」

「そいつはできない相談だなァ。残念ながらお前さんは被告人だ。さあ、 判決書 デシジョンの交付といこうか?」

 男が顔色を変えた。唸り声を上げて立ち上がり、手錠を掛けようとしていた警官二人を丸太のような腕で力任せに振り切る。

 遠巻きにしていた野次馬がどよめいた。ラスも思わず息を呑んだが、グウィードはニヤニヤと笑いながら背後を顎で示した。

「さすが筋肉馬鹿だな。逃げるなら港はあっちだぜ? まァ、もっとも――」

「うるせぇッ!」

 男が自棄気味に殴りかかった。倍は幅のある男の突撃をひょいと避け、ばねのように回ったグウィードの脚がその背中を踏み潰すように蹴倒す。

 巨体が地面に飛び込んだ。振動とともに、顎をぶつける痛い音が耳を突く。

「――もっとも、港はもう押さえてあるがな。逃げ場はねェよ」

「う、ぐ……!」

 地面に頭を押し付けられながら、男が呻いた。

 グウィードの足が太い首に乗っているだけだというのに、いくらもがいても立ち上がることができない。ろくな抵抗もできないうちに、男の両手に手錠が降りた。

 グウィードが部下から紙束を受け取り、男の眼前に投げ落とした。

「さて、原因事実だ。九月五日夜半、酒場の喧嘩で酔っ払いをボコボコにしたところ、ちょいと調子に乗りすぎて相手が死んじまった……間違いねェな?」

 グウィードの目が細く歪む。そこには、獲物を捕らえた愉悦がにじみ出ていた。

 息苦しいほどの威圧感と得体の知れなさはシュミットも同様だが、その性質はまるで真逆だ。シュミットが無機物めいた気味の悪さなら、グウィードのそれはどこまでも生々しい気持ち悪さである。

刑法 ペナル・コード205条の 傷害致死 マンスローター、懲役七年の実刑だとよ。控訴期限は今日から七日だ。するなら弁護士を呼んでやるぜ。……まァ、のんびり考えろや」

 男のいかつい顔から、水を流すように覇気が抜け落ちた。

 逃亡の疲れが一気に来たのだろう。警官に両脇を掴まれて立たされる足は、すでに囚人らしいものになっていた。

 お見事、と口の中でつぶやいて、ラスは後ろ頭を掻いた。

 捕り物はすでに終わりに差し掛かっていた。野次馬もぱらぱらとその場を離れ始めている。犯人が取り押さえられてしまえば、後は何も面白いものはない。

 そもそもこんな派手な捕り物自体が珍しいのだが、グウィード・グラウという名前の響きまでしつこい警官の場合は別だ。リカオンの渾名は伊達ではない。いかにも腐肉を食らっていそうに見えて、活きのいい獲物を相手に組織的な狩りをする。もっとも、マムシのような斑模様のおどろどおどろしい毛皮をもった獣なので、渾名の由来はその気持ち悪さの方にかかっているのかもしれないが。

 マイセスでは犯罪行為を法精霊が覚知するため、事件の捜査を行って犯人を見つけ出す必要はない。従って 名探偵 ホームズは存在しない。ただ、牢に入るはめになった人間は一定の確率で逃げるので、そういった 遁刑犯 フュジティブを見つけ出すのが警察の仕事の一つであった。

 グウィードが煙草に火をつけ、ラスに声をかけてきた。

「よぅ、羊飼い。珍しいとこで会ったな」

「まったくだ。いつの間に戻ったんだよ? 全然知らなかった」

 ラスは首を振って答えた。

 イタリア領となったトリエステに祖母がいるとかで、グウィードは結構な頻度で足を運んでいた。ふらっと休職したと思ったらふらっと戻ってくる。これで有能でなければ首が飛ぶところだが、市警はいまだ彼を手放せずにいた。

 現在のイタリアは 黒シャツ隊 カミチア・ネーラが幅を利かせていて非常にきな臭い。肉親を心配しての行動ではあるのだろうが、この男がそれをするととてつもなく胡散臭く見えるから不思議だ。

「そう拗ねるな。ここんとこクソ忙しかったんだよ、引き継ぎでな」

「拗ねてねぇ……って、引き継ぎ? なんでまた」

 部下に逃げられでもしたのかと首を捻ると、グウィードがけろりと答えた。

「ああ。異動することにした」

「異動ォ!?」

 いかなラスでも警察の中で定期的に配置換えが行われていることくらいは知っている。裁判所も同じようなお役所だ。

 だがしかし、この猟犬が別の仕事に、しかも自分から回るなんて事態は想像もしなかった。皺だらけの老人になっても遁刑犯を追っているようなイメージが、すっかりこびりついていたのだ。

「え、何、どうしたんだよ。飽きたのか? でなきゃ何か面白いモンでも見つけたとか」

 盛大に動揺するラスに、グウィードが意味ありげに口角を吊り上げた。とてつもなく不穏なその笑みは、肯定の意味を含んでいた。

国内秩序法案 インターナル・オーダー・ビルのことは知ってるか」

「……聞き覚えがあるよーなないよーな」

「そのうち嫌でも耳にするさ。面白ェことになりそうなんでな。早めに宴会の準備を始めたってとこだ」

 ラスは顔をしかめて考え込んだ。意味はわからなかったが、この男が面白いと評するとろくなことがない。前は昼食をおごってやると言われてのこのこついていったら、真っ昼間から蒸留酒を飲まされてエイダに特大級の雷を落とされた。

「――ところで、シュミットはどうしてる?」

「へ?」

 急に変わった矛先に、ラスはあわてて顔を上げた。

「あー……あいかわらず再生請願量産してる」

 この男は兄妹のどちらもそう呼ぶので、迷いながら答えた。これなら原因は兄だし書くのは妹だ。どちらでも間違いにはならない。

 鼻を鳴らして笑ったグウィードは、部下に呼ばれて踵を返した。

「あ、おい! 何なのか教えてけよ!」

「冬が来る前にはわかるさ。楽しみにしてな」

 軽く手を上げて言い、彼はふと、思い出したようにラスを振り返った。

「そういやァお前、なかなか気前がいいじゃねえか」

「へ?」

「朝のガキどもだ。財布ごと寄付してやるとはな」

「寄付じゃねぇっ! ……つーか、どこから聞いたんだよ!」

 騒ぐラスに、グウィードはにやりと性質の悪い笑みを浮かべた。

「お前のことだ、告訴もしてねェだろ。何なら俺が片付けておいてやるぜ? 一応、こっちの仕事でもあるからな」

 その目に、ぞくりと背中が粟立った。

 それがなぜだかわからないまま、ラスは困惑して眉間に皺を寄せる。

「……別に、いらねぇよ」

「甘ぇな。お前が見逃すことで、他の人間が被害に遭うとは思わねェのか?」

「それは……」

 肌がささくれ立つような声だった。ラスは口ごもって視線を落とす。グウィードの口元は笑みの形に吊り上げられていたが、そこに秘められた感情はひどく獰猛だ。

「ガキどもにとっても同じだ。盗みは一度っきりのモンじゃねぇ。繰り返す犯罪だ。下手を打って叩きのめされることもありゃあ、逆に年寄りを殺しちまうこともあるだろう。そうなる前にとっとと捕まえて、次の手を打つのが正解だ」

「……次の手?」

「遊びで盗む馬鹿に比べりゃあ、食うモンがなくて盗む馬鹿のほうが多いさ。社会のどこかに歪みがあるなら、あらゆる人間に見せ付けるべきだ。表面化しねェ限りは誰も手を打とうとしねェ。ぐだぐだしてりゃ、そのうち手遅れになる。防犯のためだと言やァお偉方も動きやすくなる。わかるな?」

 ラスは黙り込んで目を落とした。

 わかるかと問われれば、わかるような気もする。

 だけど同時に、何か胸の奥に言葉にならない感情が絡まっているのも事実だった。

 ひとつ息を吐き、ラスはぐしゃぐしゃと後ろ頭を掻いた。

「……ガキだったんだよ。本当に。うちのちび二人と、同じくらいで」

 グウィードは鼻で笑った。笑われるのはわかっていたので、気にはかからなかった。

「まァ、いいさ。好きにしろや」

 思ったよりも、棘のない声だった。

 驚くラスに、グウィードが肩をそびやかせる。

「そのうちメシでも連れて行ってやる。餓死しねェよう気張るんだな」

 踵を返し、青い尻尾を揺らして警官が去っていく。

 取り残されたラスは薄い曇り空を仰いで、浅くため息を吐いた。