英国 ブリテンにあってマイセスにないもの。
 冤罪、迷宮入り、それからシャーロック・ホームズ。

01. Human laws are born, live and die.

001

 全力で駆け抜けたところで、間に合わないことはわかっていた。

 そろそろ天文時計が、必死に走ってきた遅刻者にとどめをさすだろう。途中で脱いだくたびれたコートと重い鞄を担ぎ、白に近いベージュの髪をくしゃくしゃにしながら、それでもラス・ケージは 中央裁判所 プライマル・コートへ駆け込んだ。

 吹き抜けの正面玄関にはブロンズの 正義の女神 ユスティティア。夏の名残を残した日差しがガラス越しに降り注ぐ。静謐の中に、ラスの足音が高く響いた。来庁者に対応していた受付嬢の咎めるような目に気づかない振りをして、ラスは刑事法廷のエリアを突っ切った。

 廷吏がせわしなく法廷と電信室を往復する中を走り抜ける。向けられる顔は、いかにも邪魔そうな顔もあれば、慣れたように苦笑を向けてくる顔もあったが、立ち止まって挨拶している暇はない。

「窃盗、執行猶予、ウエストリース通り一番街」

 タイプライターの多重奏を背景に、重々しい、けれど事務的な声が、通り過ぎる法廷から聞こえてくる。

「文書名誉毀損、罰金、ルジカ市ラグルスト通り十番街」

「殺人、懲役、コンシルティ通り三番街」

 ――え。

 罪名に思わずスピードを落とした。マイセスは欧州随一の治安を誇る。ご近所で殺人が起きたとなると穏やかではない。

 ラスが思わず足を止めたとき、小さな影がころんと転がった。

「……へ?」

 視界の端にそれを引っ掛けて、あわてて顔を戻す。

 五歳くらいの幼い女の子が、びっくりした顔で通路に尻餅をついていた。

「あ」

 ぶつかっただろうか。一瞬だけ迷ったラスの目の前で、まん丸に瞠られた目がみるみるうちに涙で潤んでいく。

 ぎくりとした次の瞬間、大音声の泣き声が刑事法廷の廊下に響いた。

「うわ、え、あー、ごめん!」

 ラスはあわててしゃがみこんで、薄茶の髪をくしゃくしゃと撫でた。故郷の弟や妹を見るに、この泣き方はびっくり泣きだ。

「大丈夫! もう大丈夫だから、な!」

 無責任な大丈夫は一番の呪文だ。

 ひょいと小さな体を抱き上げると、彼女はまたびっくりした顔でラスを見たが、ぴたりと涙を止めた。

「よし、いい子だ。迷子か?」

 ラスが笑って訊ねると、大きな目をぱちぱちと瞬き、しゃくり上げながらうなずいた。

 裁判所に子供を連れてくるとしたら、おそらくは離婚や親権を争う 家事法廷 ファミリー・コートのほうだ。

 遠いなあと苦笑いを浮かべたとき、切羽詰まった女性の声が聞こえた。

「あ……ママ!」

 腕の中の子供が、ぱあっと顔を明るくした。

 駆け寄った母親は、ラスから子供を受け取り、ほっとしたように息を吐いた。

「ああもう、この子は……! 心臓が止まるかと思ったわ。見つけてくれてありがとう」

「大したことしてないっすよ。……にしても、よくわかりましたね、ここ」

「ええ、こちらの方が……」

 笑顔で振り返った母親は、あら、と目を瞬いた。娘とそっくりの表情だった。

「掃除のおばさんが、ここまで連れてきてくれたのだけど……いやだわ、まだお礼も言ってないのに」

「ああ、あのおばちゃんっすか。小太りでにこにこした感じの」

「ええ、青いスモックの」

「神出鬼没なんすよね。今度会ったら伝えときます」

「ありがとう、そうしていただける? ほら、あなたもお礼を言わなきゃ」

 しがみつく娘を母親が促すと、もぞもぞと何か言ったようだった。娘の様子に苦笑でため息をつき、彼女はもう一度ラスにお礼を言って早足できた道を戻っていった。

 女の子は母親の肩に顔をうずめるようにして、上目遣いにラスを見ていたが、小さな手をちょっとだけラスに振った。

 それと同時に、天文時計の鐘が鳴り始める。

「……うわ」

 手を振り返していたラスは、天井を仰いだ。

 始業の鐘ですらない辺り、はなから救いようはなかったのだが。

 

 

 古びた天文時計の鐘が、その音色を高らかに 中央裁判所 プライマル・コートへ響き渡らせた。

 まず一回。次に二回。それから三回、最後に四回。

 総計はそのまま現在時刻とイコールで結ばれる。――十時の報知だった。

 そう、十時だ。

 営繕一課の一角でひたすら扉をにらみながら、エイダ・シュミットは内心につぶやいた。

 二つに結い上げた長い髪は彼女の気性を現したようにまっすぐで、意思の強そうな瞳と同じく純粋な漆黒だ。しなやかな手足は対照的に白い。美人というより可憐な顔立ちとあいまって、その容貌は、敏捷な黒ウサギを連想させた。

 肘を包んだ華奢な指が、時折ため息を挟みながらリズムを刻む。唇こそきつく結んでいるものの、幼さの残る顔は、そろそろ険しさを保てなくなっていた。

 落ち着かないエイダの様子に苦笑しながら、二班の技官が連れ立って部屋を出て行く。窓際でペトリ皿の葉っぱに構っている課長も、ジョウロを片手にちらちらと彼女を気にしていた。

 通算二十度目のため息。その直後に肩を叩かれ、エイダはようやく扉から目を離した。

「……スーレ?」

 見上げるような長身を猫背に丸め、ヤリ=スーレ・フラーは右手を胸の前で横切らせた。

『大丈夫だよ』

 穏やかな苦笑をともなった、短い手話に、かぁっとエイダが頭に血を上らせる。

「心配なんてしてないっ」

 彼は苦笑で返すだけだ。

 消えかけていた眉間の皺をすっかり復活させて、エイダは小さく唸った。

「ぜ……ぜんぜんしてないとは言わないけど。少しくらいはしてるけど。……何かあったら連絡があるはずだし、汽車が遅れてるのかもしれないし……まったく、どこで何やってるんだか……」

 不機嫌にぼやいたとき、廊下を走る足音が二人の耳に届いた。

 エイダが跳ねるように顔を上げる。

 軽快な足音はあっという間にこの部屋へたどり着き、彼女が扉を開けるより早く、人影が飛び込んできた。

「すんません、遅れました!」

「遅い!」

 噛み付くようなエイダの怒声に、ラスは反射で耳をふさいだ。

「いま何時だかわかってる? 休暇明け早々から大遅刻よ。それも一時間!」

 頭ごなしに叱られ、ラスはむっとした顔でエイダを見た。

「だから謝ってんだろ。つーか、なんで課長じゃなくておまえが怒んだよ」

「では怒っていただけますか課長。あたしの気が済むまで存分に!」

 きっ、と振り返ったエイダに、課長が身を竦めた。

「い、いや……エイダ君に任せるよ、うん」

「かーちょーうー」

 嘆くラスの声に課長は背中を向け、聞こえない振りを決め込んだ。

 最後の頼みの綱とばかりヤリ=スーレに助けを求めるが、めずらしく仲裁してくれる気配がない。

「だいたい自覚が足りないのよ。謝ればいいってものじゃないの。もう学生じゃないんだから、遅れるなら遅れるで連絡のひとつくらい入れたらどうなの? 何かあったのかと思うじゃない」

 ふてくされてよそを向いていたラスは、エイダの言葉に目をしばたいて顔を戻した。

「なに?」

「心配してたみたいに聞こえんだけど」

「……」

 まるで言い間違いだろうといわんばかりのラスに、ひくりと頬を引きつらせ、エイダが拳を握りしめる。

 そのまま殴っても誰もラスに同情はしなかっただろうが、実行に移す前に、苦笑を深めたヤリ=スーレが二人の間に割って入った。

『君が悪い、ラス。心配していたんだよ』

 手話がわからないラスに、彼は走り書きのメモを差し出した。

「そうかぁ? 怒ってたの間違いじゃ――」

「そうねそのとおりね。そしてあんたは今まさに火に油を注いでるのよ」

「いでででで、バカ、耳引っ張んな!」

「いいからさっさと着替えてくるっ!」

 ロッカールームに逃げ込んだラスに、エイダは腰に手をついたまま、盛大なため息を落とした。

 唇を曲げた彼女が少しだけ涙目になっているのを、ヤリ=スーレは紳士的に見ない振りで応じた。

『気にしなくていい。彼は少し、子供だからね』

「……ありがと、スーレ」

 気落ちしたように返して、エイダはこめかみに指を押し当てた。頭ごなしに怒ったあと、もう少しうまく言えないものかと落ち込むのは、彼女の悪い癖だ。ラスが来るまで一課では最年少だったのもあって、半年たった今も、接し方をいまひとつつかめていない。手探りの状況が続いていた。

 気持ちを切り替えるように頭を振って、エイダは窓際で背中を向けたままの課長に声をかけた。

「課長、ラスが着替えたら、すぐに 法の庭 ロー・ガーデンに入りますから」

「ああ、うん。 作業許可証 パミット、書き直そうか」

「ええと…… 印紙法 スタンプ・アクト 市街地建築物法 ビルディング・アクトだけですよね。大丈夫だと思います」

 改正法のリストをめくり、エイダは少し考えてから答えた。三十分程度の遅れなら、作業にはそこまで影響しないだろう。

 どちらの法精霊も、比較的大人しい性質だ。

 

 北大西洋に浮かぶ島国、マイセスをマイセスたらしめているもの。

 それは由緒ある王室でも、美しい四季でもなく、法精霊による裁判制度だ。

 この国の裁判をはるか昔から担ってきたのは、法精霊という全知の存在だった。それぞれの法律を担う法精霊たちは、国内で発生する犯罪をすべからく覚知し、法のみに従って人を裁く。そこには王も平民もない。すべての法条と真実を載せた天秤は、その天秤に掛けられる行為だけを平等に見つめる。

 そんなマイセスの一審裁判所の中でも、 中央裁判所 プライマル・コートは特殊な立ち位置にあった。

 制度上は上に 控訴院 アピール・コート 最高法院 キングス・ベンチをもつにも拘わらず、ある意味において、中央裁判所はこの国の司法の中心である。

 その「ある意味」の大部分を担うのが、 法の庭 ロー・ガーデンの存在だ。

 法の守護者、正義の執行者たる法精霊のおわす場所――というのが一般市民の認識だが、裁判所内部では、多少その意味合いが異なる。

 社会が変化する以上、法もまた常に変化していく。法精霊という「強制力」に与えられた法条も、常に更新が必要である。

 必要があるということは、それを業務として行う役職が存在する。

 それが、中央裁判所、営繕一課の 施行技官 フォースエンジニアである。

 

 

 ロッカーから制服を引っ張り出し、ラスは埃っぽいコートと荷物を一緒にロッカーに突っ込んだ。

 心配していたというのは眉唾だが、少なくとも怒らせているのは間違いない。怒られたいわけでもない。ついでに、これ以上待たせるのも後が怖い。

 手早くインナーとスラックスを着込み、黒い上着に腕を通して、無駄に数のあるボタンをはめながらロッカールームを出る。

 壁に寄りかかっていたエイダがこちらを見て、あきれたように眉を寄せた。

「ラス、ボタン」

「歩きながら留めりゃいいだろ」

「ちがうってば。掛け違えてる」

 げ、とラスは下を向く。二個組みのボタンは確かに一段ずつずれていた。

「まったく。じっとして、やってあげる」

「ばっ……いるか! 自分でやる!」

 予想外の言葉にぎょっとして身を引き、はたと気づいた。さっきの仕返しだ。

「あら、そう?」

 にや、という感じのエイダの笑顔が、それを肯定している。

 ラスは口の中で毒づいて、ボタンを直しながら足を速めた。

「今日の作業予定は?」

「変更なし。 印紙法 スタンプ・アクト 市街地建築物法 ビルディング・アクト 施行令 オーダーだけだから、お昼には終わるわね」

 昼という言葉に、朝食を食いっぱぐれたことを思い出した。

 エイダが首をかしげる。

「どうしたの? 急に暗くなって」

「……腹へった」

「え、やだ、まさかごはん食べてないの? 何してたのよ、本当に」

 たずねる声に怒りの陰はなかった。怒るときは烈火のごとく怒るが、さっぱりした性格の彼女の怒りは鎮火も早い。

「あー……まあ、ちょっと……」

 ラスは羊毛色の髪をかき回し、煮え切らない返事をよこした。

「なに?」

「財布、やられた」

「え」

 エイダが目を瞠って足を止めた。数歩遅れて、あわててラスを追う。

「駅でガキにかっぱらわれたんだよ。追いかけたんだけどさ、逃げられて。警察で話してたら遅くなった」

「怪我は?」

「このとーり」

 無傷だと身振りで示すと、エイダが小さく息を吐いた。

「そっか……大変だったんだ。ごめん、ちょっときつく言い過ぎたかも」

「へ?」

 しおらしい言葉に困惑して、ラスは首の裏を掻いた。

「でも連絡しなかったのはあんたが悪い。うん、むしろ連絡しなかった時点でやっぱり怒ったわね」

「あーそーですねー」

「またそういういい加減な返事を……。もういいわよ、さっさと片付けよう。市街地建築物法の方は耐震強度のところでけっこうもめてたから、特に気をつけて。あとは……」

 地下に向かう階段を下りながら、エイダがラインを引いた書類を手に、細かな注意を読み上げていく。

 こまごまとした注意は毎度のことで、ラスは途中から面倒になって聞き流していた。

 年齢はひとつしか違わないが、 施行技官 フォースエンジニアとしてのキャリアは軽く数倍だ。優等生のエイダからすれば危なっかしくて仕方ないのだろうが、こうも小言ばかりだと嫌気がさす。

「……まあ、これくらいかな。しばらく離れてたんだから、気をつけてね」

「おう」

「ところで、どの辺りまで聞いてた?」

 さりげない質問に、ぴたりと足が止まった。

「……えーと」

「ん?」

 振り返る、にこやかな笑顔が怖い。

 顔を合わせる前に横を向いて、ラスはしどろもどろに言い訳を探した。