This is just an aside. (03-04)

挿話

 警察と裁判所は眠らないというが――いかな二者でも、夜が深まれば人気は減る。
  しんと静まり返った営繕二課で、黙々と書類を作成していたシードル・シュミットは、場違いなノックの音に無表情の張り付いた顔を上げた。
  返事を待たずに開いた扉の向こうで、アシュリー・ダルトンが優美な腕を組んで首を傾けた。

「こんばんは。こんな時間までお仕事なんて、精が出るわね」

 そういう彼女は、あまり見慣れない私服姿だ。
  彼女はとうに今日の仕事を終えて、帰路についていたはずである。沈黙するシュミットに、くすりと小さな笑い声が落ちた。

「珍しい顔ね。そんなに驚かせたかしら」

 ふわりと広がるスカートの裾を捌いて目の前にきたアシュリーを見上げ、シュミットはぼそりとこぼす。

「……ハストンか」
「他にいないでしょう? あなたがあんまり根を詰めているものだから、心配しているみたいね」

 アシュリーは艶やかに笑みを深めた。

「差し入れよ。どうせ夕食もろくに食べてないでしょう。ついでにコーヒーでもいかが?」
「……ああ」

 間を置いた返事に小さく肩をすくめ、アシュリーは天秤型のサイフォンを手に取った。
  そのまま沈黙の落ちた部屋の中に、やがてコーヒーの芳ばしい香りが広がった。先日ヤリ=スーレが調達してきた豆の、どこか甘さを含む香りに、アシュリーはそろりと息を吐いた。眠気覚ましには向かないが、どこかほっとする香りだ。
  ゆっくりゆっくりと伸び上がるように抽出されていくコーヒーに背中を向け、シュミットを振り返る。無駄に整った男の顔は、感情を読み取れない無表情で書類に向けられていた。
  無造作に重ねられた書類を一枚つまみ、手持ち無沙汰に目を通した。必要最小限の単語で構成された文章が、教本のようなぶれのない字で綴られていた。推敲などしてはいないだろうにと可笑しくなる。シュミット自身は必要最低限の三割減のような男だから、おそらくこれは、学習の結果なのだろう。

「あなた、あの子がいないと優秀なのね」
「何が言いたい」
「聞いたままよ」

 涼しい顔をして始末書の常習犯であるはずの男は、妹が入院してからというもの一度としてトラブルを起こしていない。シードル・シュミットは本来、本能レベルで優秀なのだ。――つまるところ、理性による結果ではないからたちが悪い。

「あなたもあの子も、仕事の中で溝を埋めようとするのはどうかしらね。甘えるなら甘えるで、ほかの方法があるでしょうに」

 深淵のような瞳がアシュリーを捉えた。
  眩暈のするような暗がりが、昔はとても苦手だった。言葉少なな彼の目は、それを見つめる人間を引きずり込んで内側の言葉を拾わせてしまう厄介さをもつ。口にした言葉の根っこの裏側までさかのぼって、まるで後ろめたいところでもあるように思わせる。

 昔はとても苦手だった。
  今でも、得意になったわけではないけれど。

「……そう見えるわ。自覚はないでしょうけれど」

 出来上がったコーヒーをカップに注ぎ、シュミットに差し出す。珍しく礼を言って受け取ったシュミットに、面映いような居心地の悪さを感じて、そんな自分に苦笑いをしてしまう。
  デスクによりかかり、ごまかすようにコーヒーに口をつけたとき、シュミットが口を開いた。

「帰らないのか」

 どきりとした。こんなとき、口数の少ない男は卑怯だと思うのだ。
  たった一言で揺さぶるのだから、ずるいと言わずして何と言うのだろう。

「……お邪魔かしら」
「いや」

 深淵の目は書類に向けられたままだったから、話せと強要する何かがあったわけではない。
  アシュリーは目を伏せ、暖かいカップを両手で包んだ。
  頭を切り替えて、からかいの口調を引き出す。

「あまり帰りたい気分じゃないの。しつこい男に付きまとわれていて」

 わずかな沈黙ののち、平坦な声が平然と返ってきた。

「警察か」

 ――あ、面白くない。

 思っていたよりも素直にそう感じて、アシュリーはシュミットを見下ろした。
  さらりと真実を言い当ててしまうだろうとは思っていたが、これは何というのか、予想以上に面白くない。もう少しくらい困惑してくれてもいいだろうに。

「……何だ?」

 じっとりとねめつけていたせいだろうか。無神経な男が違和感に気づいたので、とりあえず矛を収めることにした。

「別に何も。……そうね、おそらくは《リカオン》の差し金だわ。確実とは言いがたい手だけれど、網を張っておいて損はないもの」
「……ああ」
「こちらが掛からないように、注意は促しておくべきね。ラスあたりは特に。あなたはまったく心配ないでしょうけど」

 一呼吸置いて、シュミットが目をよこした。
  アシュリーは花が咲くような笑みでそれに応じる。

「あなたがシードル・シュミットである限り、私なら絶対にあなたは選ばないわ」

 明らかに褒めていない意味を含ませた言葉に、そうか、と平坦な声が返した。
  いつもどおりの口調だったが、どことなく複雑そうな、不機嫌な響きがあったような気がして、アシュリーは口元に手を当てて笑い声を隠す。

「どちらにしても、あまり家に帰りたい気分じゃないの。折角だから、暇つぶしに仕事でも手伝ってあげるわ。感謝してくださる?」

 からかうような声に、肘をついたシュミットがさらりと返した。

「今でも十分感謝している」

 思わず息を詰めたアシュリーは、差し出された紙束を受け取って、何も言えないまま唇を尖らせた。

 ――やっぱり、無口な男というのはずるい。