April showers bring May flowers

「星下、ギルバート殿下がお見えです」
「追い返してください。というか、取り次がないで下さいと何度言ったら!」

 

 ――そんなやりとりのうち、結局顔を合わせることになるのは毎度のことだ。
 まったくもって腹立たしい。女官に門前払いを認めぬよう命じているのが誰なのかは解っているが、それでも言わずにはいられない。

 思えば彼に対する感情は、いつだって主に腹立たしさで占められていた。
 残りは呆れや苦笑、それから一片の羨望。今も大して変わっていないのだと思うと、なんだか少し可笑しくなる。

 アヤリは遊ぶように小さなグラスを手の中で回した。
 琥珀色の液体が、ゆらりと波を描く。

「酔ってるか?」
「多少」

 深夜の来客に垂直降下していた機嫌は、相手が要望通りに沈黙を維持したおかげで、いくぶん回復傾向にあった。
 問いかけにぼんやり答えたのはそのせいだろう。
 めずらしいなとこちらを見てくるギルバートに、アヤリは小さく肩をすくめる。

「それよりもう少し遠慮して飲んでください。私のとっておきなんですよ、これ」
「土産を持ってきただろう」
「あれはあれ、これはこれです」
「けち臭いことを言うな」
「けちですから。ぐだぐだ言うと税金上げますよ」
「なるほど。酔ってるな」
「だから酔ってるって言ったじゃないですか」

 いまいち噛み合わないぐだぐだした会話に、ギルバートが可笑しげな顔をする。
 アヤリはぼんやりとそれを眺めた。

 ――ずっと昔、自分が抱いた感情を、とてつもなく面倒だと思っていた。
 愛だの恋だの、そんなものはいらない。必要ない。それよりももっと、欲しいものがある。
 それは今も変わっていない。
 変わったのは、ギルバートのほうだ。

(……まったく、どこまで予想を裏切ってくれるのだか)

 誰も彼も、口を揃えていつになったら若獅子を迎えるのかと言う。
 なにしろ、もはや選ばない理由がないのだ。ただでさえ〈星〉の危機を救ったと賞賛を浴びていた男は、アヤリが神殿内の政争に忙殺されているうちにいつのまにか母国のみならず南方において政治的な地位を確立し、成果を上げ、皇配の筆頭候補に成り上がってしまった。
 相変わらず妙な人脈の強さは健在で、いつしか神殿内でも皇配として彼を望む声が大きくなっていたのだから、本当に頭が痛い。

 酔いのにじむ目で、アヤリはギルバートを見つめていた。
 ふれたいな、と、なんの脈絡もなくそう思った。
 酒で思考が鈍っているのだろう。防壁が薄らいでいることは十分すぎるくらいにわかっていて、それでも、それを持ち直すだけの元気が残っていない。

 意地を張り続ける理由がないことはわかっている。
 けれどひとりで生きていけないわけでもない。
 初めて会ったときは、同じ生き物とは思えなかった。子供なのだと一言で片づけるにはあまりにも異質で、突飛で、それなのに嫌いになれない。妙な引力をもつ存在。きっとそれは、自分にはないもので。だからうっかり惹かれたのだろうと。そう思っていたのに。

「なんだ?」
「……なんでもないです」

 いつからだろうと、アヤリは自問する。
 いつしか、彼は引くことを覚えた。
 それでもかなり振り回されているとは思うけれど、考えがないと怒鳴ることはあまりなくなった。代わりに梃子でも動かない頑固さで構えてみせるので、その鷹揚さに、少し戸惑っている。

 おそらくダイカの影響だろう。
 そんな風に待たれてしまうと、つっぱねるきっかけもつかめない。

 ため息を吐いたアヤリは、席を立って、ギルバートの前に回った。
 なんだかどうでもいいような、それでいて寄る辺ないような気分になって、ギルバートの頬に手を伸ばす。
 きょとんとこちらを見上げる顔はどこか子供っぽい。
 そのまま右の頬をつまんで引っ張ると、その顔が渋面に変わった。

「なんだ。痛いぞ」
「腹立たしいくらい男前ですね」

 鳩が豆鉄砲を食らったようなというのは、こんな顔だろう。
 頬を引っ張られた間抜け顔のまま、ギルバートが眉を寄せる。

「めずらしいな。雨でも降るか?」
「結局私、きれいなものって人並みに好きなんですよね……猊下しかり、フィフィナ姫しかり。自分にないものを求めるのは自然の摂理です」
「フィフィナか。向こうには嫌われてないか?」
「はっきり言わないでください。傷つきますよ」
「冗談だ。仲が良くて時々妬ける」

 アヤリは目を瞬いた。
 それこそ冗談だろうと思ったのだが、ギルバートの表情は憮然としたままだ。

 頬を離すと、垂れ下がっていた黒髪を一房引かれた。
 促されるように身を屈める。

 触れた熱の、どこか乾いた感触。
 やがて顔を離して、ギルバートは意外そうにアヤリを見上げた。

「……殴られるかと思ったんだが」
「殴って欲しければ殴ってさしあげますよ」
「遠慮する。せっかくだから喜ばせろ」

 言葉通りの嬉しそうな顔に、ほとんど条件反射で顔をしかめる。
 引き寄せられるまま背中を抱き取られて、アヤリは諦め混じりに目を伏せた。

「……感心しますよ本当……馬鹿も突き詰めれば武器になるんですね。いい教訓になりました」
「褒めすぎだな」
「褒めてません」
「そうか? 褒めてるだろう」

 確信を持った言葉に沈黙で返したのは、それが当たりだったからだ。
 大きな手が、子供を宥めるように背中を叩く。
 喜ばせるのも癪だという思いが頭を掠めたが、力を抜いて体重を預けると、不思議なくらいにしっくり来た。

 ――もういいか、と、どこかでずっと声がしていた。
 本気で拒む気なら、きっと方法はあった。他に求婚者がいなかったわけではないのだ。そうしなかったのは、きっとどこかで彼の言葉に期待を抱いていたからだ。

 あの日支えとなることを望んだ少年は、今はもう子供と呼ぶことはできない相手になってしまった。
 それをどう感じているのか、まだ掴みかねている。嬉しいと言うには感情が複雑すぎるが、おそらくはただの天邪鬼だ。

「……折れるのは本気で癪なんですけど。もういいです。あなた以上の物好きはいなさそうですから、あなたで手を打ちます」
「そうか。助かる」
「ここはむっとして欲しいんですが。喜ばないで下さい」

 ひねくれた言葉をそのまま受け取って嬉しそうに笑う男は、実際のところをその妙な勘で理解しているのだろう。
 子供だ子供だと思っていた相手に子供扱いされているような気分になって、アヤリは憮然と唇を曲げた。


 きっと、一生言わない。似合わないから言いたくない。

 愛だの恋だの、そんなものを抱いたのは、あなただけだったなんて。