*031

 美しく整えられた庭園は、迷子になりそうな広さでした。
 観光地にでもする気なんでしょうか。いくら何でも広すぎます。
 舌打ちしたい気分になりながら、私は足元のおぼつかない司祭に指示を投げました。

「司祭、二手に別れましょう。あなたはまず避難してください。衛士を見つけたら、聖堂に向かうよう伝言を」
「は……はい! ですが、お二方は……」
「心配いりません、私には〈祝福〉があります。マヒト卿のことは任せてください。……さあ、急いで!」

 司祭は本気でマヒト卿に恩義を感じているようです。どうにも後ろ髪を引かれる様子でしたが、残念ながら、現状では足手まといになります。ヒナの狙いはマヒト卿ですから、向かっていかなければ襲われることもないでしょう。
 ヒナは凶手として一流です。無理だと思えば退くはず。
 衛士にマヒト卿を引き渡して保護させれば、こちらの目的は達成できます。

「……さて。打ち所が悪かったようですが、そろそろ回復しませんか?」

 真っ青な顔のマヒト卿が、力無く私を見ました。
 一応鍛えているはずなのですから、あの程度で足にきていては困ります。精神的なショックの方が大きかったということなのでしょうか。いずれにしても情けない話であることに変わりはありません。

「……どうして君が、僕をかばうんだ……」
「先ほどヒナに言っていましたが。聞いていませんでしたか?」
「そうじゃない! 僕が何をしたと……それとも、それすら些事だと言うのか!?」

 それ、今やらないといけないやりとりでしょうかね。
 私はこめかみを押さえ、深く長いため息を吐きました。

「……何をしたかですか。毒を盛って、要人に決闘をふっかけて、負けて、誘拐して、あげくのはてにはこちらの合意なしで結婚しようとしていましたか。これで全部だと思いますが、相違ありませんか?」
「ぐっ……」

 マヒト卿が低く呻きます。確認して欲しかったわけじゃないなら、なぜ聞いたんですか。

「まあ、どれも失敗しているわけなんですが……それでも十分、はらわた煮えくり返っていますよ」
「だったら……だったら、わざわざこんな真似をする必要なんてないだろう! どうせ僕はもうおしまいなんだ……! ここで死んだって大差ない! ……これ以上、惨めにさせないでくれ……!」

 聞いているうちに腹が立ってきたので、とりあえず手刀を額に振り下ろしました。

「だっ!?」

 額だったのは、単に頭頂部には届かなかっただけです。
 全力で打ち付けたところ、思っていた以上に手が痛かったので、声を殺してうずくまる羽目になりました。
 どうにか自分の世界から無事帰還していただけたようで、マヒト卿が涙目で額を押さえます。

「な、なにを……」
「何を、はこちらの台詞です。人のやる気を削ぐのはやめてもらえませんか」
「君だって本音ではそう思っているだろう! 僕が生きている価値なんか、かけらも――」
「だからそれは、今うだうだ言うことなのかって話なんですよ! この際あなたの意志なんてどうでもいいです、さっさとついてきてください!」

 思わず声を荒げると、マヒト卿は打たれたような顔で唇を噛みました。
 怒りたいのはこっちなんですが。一体何をどうして欲しいのか、さっぱりわかりません。

「……君は、いつもそうだ」
「何がですか」
「僕が何を言っても、何をしても、君は何一つ本音を見せない。いつだって上辺だけの愛想笑いで覆い隠して……僕を人間として見ようとしないんだ。だったら僕も、それに合わせるしかないじゃないか……!」

 その姿は、まるで、頑是ない子供のようでした。
 理性的とは言えない態度です。いかにもマヒト卿らしい理不尽さだというのに、不思議と、彼にはめずらしい姿のように思えました。
 ――実際、そうだったのかもしれません。
 この人とは長いつきあいになります。いつだって傲慢でわがままで、けれど、その希望が叶えられることはそう多くなかったはずです。私はこの人の思い通りになるつもりなどありませんでしたし、この人がもっと強烈に意識している父親は――家族というものに、あまりに無関心でした。

 今もそうです。息子に少しでも心を配っていれば、この状況に至るまでこの人を放置することなどなかったでしょう。

 思えば、初対面は強烈でした。
 わずかばかり年齢が上だというだけの少年があまりに偉そうに「じみなおんなだな。まあ、どうしてもというなら、なかよくしてやってもいいぞ」だなどと寝言をほざくので、確か、「とくにその希望はないのでけっこうです」という辺りの返事をしたような。
 あまり覚えていないのは、早々に見切りをつけてしまったからでしょう。
 あのときから、私はこの人をそういうものとして定義してきました。
 わがままを許されて育ってきた、親の威を借りた子ども。高位神官の息子。それが彼の価値のすべてだと切り捨てた。――それは、紛れもない事実です。

 意図せず、ため息が落ちました。
 マヒト卿はいっこうに顔を上げないままです。ここに至って、張り続けてきた虚勢が崩れてしまったのかもしれません。

 「人間は感情の生き物だ」と仰った猊下のお顔を思い出します。
 まさか、こんなところで実感することになるとは思いませんでした。
 本音を全部さらしていたらいたで、やはり嫌われていたような気はするのですが――ほんの少しだけ、その気持ちは理解できなくはないです。非常に微量な部分ですけれど。

 深く息を吐き、私は話を切り上げるために、口を開きました。

「その点については、私にも非がありました。すみません」
「え……」
「何ですか、その顔は。悪いと思ったら謝りますよ。……まあ、私も、偉大すぎる親を持ったという点では多少なりとも同じです。理解できる部分はあります」
「……い、いまさら、そんな……」

 まごつくマヒト卿に、私は右手を突き出して、きっぱりと釘をさしました。

「あ、結論にはまったく共感していませんのであしからず」
「ぐっ」
「いずれにしても、今回のことはやりすぎですよね」
「……そ、それは」
「非常識極まりないですよね。相手が私でなかったとしても、明らかにどう見ても弁解の余地なくあなたが悪いですよね」
「っ……だから! どうしてそれで、僕を――」
「覚悟と優先順位の問題です」

 気負う必要もない答えだったのですが、マヒト卿は泣き出しそうに表情を歪め、顔を伏せました。

「実際、私に足りないものって結構多いんですよ。見た目はこんなですから説得力に欠けますし、慈愛なんてものにも無縁ですし、あとは……まあ、芸術関係もさっぱりですね」

 今までならこんな本音を、この人に向けることはなかったでしょう。
 そんなことを思いながら、苦笑まじりに肩をすくめました。

「それでも、私は〈星〉です。そうありたいと思っているから、個人の感情は二の次にしてしまいたいんですよ。だから、そうすべきだと思えば敵でも助けます。それだけのことです」
「……どうあっても、君はそうなのか」
「そこまで器用ではないので、その辺りは変わりそうにないですね。……とりあえず、立ち止まってないで逃げましょう。あの子に追いつかれたら本気で死にますよ、あなた」

 マヒト卿は、飲み下しにくい何かを飲み下したように見えた。
 ずいぶん時間を無駄にしてしまいました。
 ギーが時間を稼いでくれているとはいえ、そろそろ限界でしょう。

「……で、非常に、時間を使ってしまったわけなのですが……あそこにいる、胡散臭いあなたの家臣、呼びました?」
「は?」

 目線で促すと、マヒト卿が振り返りました。
 庭園を、奇妙にゆったりと歩いてくる痩せた人影。シュクリ家に恩義があるとのたまっていた――おそらくは第二神官長の差し向けた間諜です。
 彼は私たちの前に現れると、大仰な身振りで両手を広げました。

「ああ……ようございました、星下。よくぞご無事で……」
「ロウ? おまえ、今までどこに――」

 困惑するマヒト卿を、私は手で制しました。
 この状況でこんな現れ方をして、何も企んでいないわけなどありません。うかうか近づいたら殺されそうだなという程度には、警戒して欲しいところなのですが。

「主人のご無礼をお止めすることができず、面目もございません。御身がご無事で、せめても救われました」
「白々しいにもほどがありますね。第二神官長に何を命じられてきたんです?」

 息を呑むマヒト卿とは裏腹に、従者は無表情のままそれを否定しました。

「何をおっしゃいます。私の主人は、そちらにおわすマヒト卿です」
「では、何をしに?」
「私はシュクリ家に多大なる恩義を感じております。主人が望んだこととはいえ、お止めできなかったのは私の不徳……私なりの、責任を取らせていただきます」

 感情のない口調で言い、彼はすらりと剣を抜きました。
 なるほど、要は口封じですね。……本当にあの狒々爺、徹底的に抗戦してくれるものです。

「ロウ! 貴様……!」

 マヒト卿がいきり立ちますが、丸腰で勝てるわけがありません。
 私は彼の無駄に育った図体を押しのけ、前に出ました。

「殺す必要はありません。私が不問に付すと言っているんです、さっさと帰りなさい」
「心中お察しいたします。あまりのことに、平静を欠いておいでのようだ。……ご安心ください。お目覚めになったときには、すべて片付いておりましょう」
「……なるほど、私も巻き添えですか。私に意識がなければ、優位に事を片付けられるとでも? 浅はかにもほどがありますね。猊下がお気づきにならないと思っているなら、とんでもない侮辱です」

 相手からの返答はありませんでした。
 会話をするつもりは毛頭ないようです。交渉にならない上に、時間稼ぎも難しそうとなれば、これはなかなか厄介ですね。
 おまけに、後ろに庇われたのが屈辱だったのか、マヒト卿がぎゃんぎゃん騒いでいます。

「待て! なぜ君が僕の前に立つんだ!」
「だからうるさいですよ。何回も言わせないでください、死なれたら困るんです! まったくもって理解しがたい、第二神官長も一体何を考えて――」

 皆まで愚痴を言う前に、逆に肩を掴まれました。
 ワルツのターンでもするようにくるりと後ろを向かせられて、立ち位置が逆転します。
 私は呆れ顔で、マヒト卿を見上げました。

「……何なんですか。毒を盛った上に誘拐した人間のやることじゃないですよ」
「うるさい! 僕が一番思っている!」

 女の背中に隠れるのは恥だとでも言いたいのでしょうか。なんとも面倒な人です。

 そのとき、何かが滴り落ちる音が、耳に届きました。
 聞こえるはずもない些細な音です。
 視線の先に立っていた小さな影を見て、私は強く、歯噛みしました。

「……マヒト卿。残念ですが、後ろの方が危険そうですね。逃げ場がありません」
「何だと――」

 振り返ったマヒト卿が、ヒナの姿に息を飲みました。
 ヒナは無造作に手を下ろしたまま、まっすぐにこちらへ向かってきます。――その手の凶器から、石畳の上に、ぽつぽつと赤い色を落としながら。

「ヒナ……。ギーはどうしました?」

 ヒナは答えず、不機嫌そうに目を眇めました。
 その視線の先には、第二神官長の配下がいます。

「なにしてんの、あんた」
「ああ……あなたも星下をお守りにいらしたのですか? 申し訳ありませんが、私には責任が――」
「どうでもいいよ。だまれ」

 ヒナの手が閃き、暗器を放ちました。
 男の剣がそれらを打ち落としましたが、彼は初めて、その顔に感情らしき感情を浮かべました。

「小娘が……! 何をする!」
「うるさいなあ。……もー、ほんっともー、イラつく。ころしたほうがラクだっていってんのに

 奇妙な口ぶりでした。
 はっとした男が、背後から薙ぎ払われた剣を辛うじて受け止めます。
 斬りかかってきた相手を見て、男は、驚きに唸りました。

「お前は……!」
「……おい、ヒナ。気を引くなら最後までやれ」

 切り結びながらぼやいたのは、紛れもなく、獅子王の息子でした。
 ギーの文句に、ヒナは舌を出すことで答えます。
 あちこち怪我を負っており、無事とは言いがたい姿ですが――彼が生きていたことに、膝が崩れそうなほど安堵しました。

 それにしても、躊躇なく囮を使って背後から攻撃するなんて、一国の王子がやることとはおもえません。
 〈星〉の安全が最優先となるこの場合では、限りない正解なのですけれど。何というのか、この人らしい選択に思えてしまうあたり、何かに負けたような気分になります。

 複雑な気分で唸っていると、ヒナが細い手で私を制止しました。

「せーか、もーちょっとさがってて」
「ヒナ、あなた……」

 ヒナはふいと視線を逸らし、冷ややかな目でマヒト卿を見ました。

「あ、そっちのバカはべつにいーよ。まきこまれて死ねば」

 マヒト卿がうろたえ、ぎこちなくヒナから距離を取ります。
 経緯はわかりませんが、今のヒナには殺意が感じられません。
 一体どうやってヒナに諦めさせたのかと困惑していると、私以上に混乱していた人が、切り結びながらそれを訊ねてくれました。

「なぜ貴様らが!? 手を組んだとでもいうのか!」
「ああ。真心こめて説得した」
「馬鹿な……リーンゴットの忌み子だぞ……!? そんな真似が……!」

 譫言のような声に、ギーは面倒そうな顔で眉を上げました。

「リンゴだかイチゴだか知らんが、ぺらぺらとよく喋るな。そろそろ援軍がくるぞ。諦めろ」
「くっ……」

 そこからの戦いは、ほとんど一方的なものになりました。
 無傷に近い下手人が、手傷を負っているギーに全く歯が立たないのです。
 冷静さを失っているせいもあるのでしょうが、結局のところ、心理操作が主任務の潜入工作員と、海賊相手の実戦を前提に鍛えられた異端児が相手では、後者に軍配が上がると言うことなのでしょう。あれほど不気味に思えていた威圧感が、もはや見る影もありません。

 しまいには足を引っかけられ、地面に倒れ伏したところへ、ギーが剣の切っ先を突きつけました。

「何だ、援軍が来るまでもたせようと思っていたのに。もうちょっと根性をみせろ」
「くっ……。もはやここまで、殺せ……!」
「そう言われてもやる気が出ないな。面倒だが寝ていろ」

 第二神官長の関与を吐かせたいので、殺してもらっては困ります。
 ギーが言葉通り、意外に苦労しながら下手人を失神させるのを確認したときには、もう押さえがきかなくなっていました。

 私はつかつかとギーに歩み寄りました。
 不思議そうな顔をするギーの襟首をほとんど無意識に掴み、がくがく力任せに揺さぶります。

「……あれだけ大口を叩いておいてしっかり怪我してるじゃないですか! 大丈夫なんですか!」
「心配する体勢じゃないぞ」
「うるさいですよ!」

 自分でも理不尽だと思いながら怒鳴って、泣き出しそうになっていることに気づきました。
 あちこちに血を滲ませて。特に左腕なんて浅手にはとても見えません。
 自分の不甲斐なさに唇を噛みましたが、返ってきたのはあっさりした声でした。

「大事ない。とりあえず深呼吸してみろ」

 ぽんぽんと無造作に頭を叩かれます。
 いつもなら怒るところですが、もう今はその気力もありません。
 肩を落とし、深々と息を吐いて、どうにか気持ちを落ち着けました。

「……一体、どうやってヒナを説得したんです」
「ああ。それなら――」
「よけーなことゆーな!」

 ヒナが何かを投げつけてきました。あっさり避けられてむきになっている様子は、不思議なくらいにいつもどおりです。
 ギーは肩をすくめ、何でもない顔で続きを暴露しました。

「安心しろ。お前が思ってるより、お前に懐いていただけだ」

 かなり予想外で、私は目を丸くしました。
 唖然と立ちつくしてしまった私を見て、ヒナが地団駄を踏みます。

「だからあ、ちがうって。ガマンとかあきただけだし! ついでだからめんどーごともってってあげようとしたのに、せーかはとめるし、うるさいのはいるし。なんだよもう」

 膨れっ面でぼやいたヒナは、マヒト卿を視線で竦ませながら言いました。

「ねぇ、せーか。いまならまだ、ころせるよ。ほんとにいいの?」
「……ええ」
「こいつは、せーかのじゃまになるよ。みかたにはならない。それでも、いいの?」

 幼い真摯さを宿した目に、心配するかのような色を見て――どうにも、ほろ苦い感情を覚えました。
 私は、彼女を変えることはできませんでした。
 それでも、心配するだけの価値を、この場所に見出してくれていたのかもしれません。
 たとえ的外れであっても、ヒナが私に差し伸べてくれた感情です。なんだかそれは、ひどく、尊いもののように思えました。

「ヒナ。私の仕事は、そういうものなんですよ。政治という世界の中で、敵がいなくなってしまったら、それはもう独裁です。私は、そのやり方を選びたくはないんですよ」
「……ふーん」
「大丈夫。負けません」

 笑って言うと、ヒナは肩をすくめました。
 手の中でくるりと短剣を回し、鞘に収めます。
 返り血で汚れた姿は異質でいびつですが、笑顔は、生意気な普通の子供のものでした。

「ばいばい、せーか。……けっこー、たのしかったよ」
「いつでも遊びにきていいですよ。お菓子を用意しておきますから」
「やだよ。サキとかうるさい」

 べ、と舌を出したヒナが、迷いのない足取りで去っていきます。
 言葉にならない名残惜しさを持てあましていると、ギーがおもむろに、私の頭に手を置きました。
 そのまま、くしゃくしゃと無造作に髪を掻き混ぜます。

「……なんですか」
「いや。寂しそうだと思った」

 余計なお世話ですが、今だけは、その手をたたき落とすのはやめておきましょう。
 今だけなのだから――もう少しだけ、感傷に浸っていたい。その甘えを、自分に許してもいいだろうかと思ったのです。

 衛士の到着を待ちながら、私は無言のまま、黄金色に染まった空を見上げました。
 この色に、私はいつまで感傷を抱くのだろうと、そう思いながら。