*029
目を覚ましたとき座っていたのは、一人掛けの上等なソファでした。
黒い革の生地がしっかりと包み込むようで、肘置きに置いた腕までもかなりのフィット感です。
いえ。ソファを品評している場合ではないのですが……どうにも、頭が働いてくれません。
ぼんやりと目線を動かしていると、胸元に見覚えのないペンダントが下がっていることに気づきました。
色は、いつぞや贈られた薔薇と同じ、深く鮮やかな青。いかにも複雑そうな魔法式が施されています。
ついでに少し視線をずらすと、その先には、両手に填められた手枷が見えます。
思わず天井を仰ぎました。
分かりやすいほどの、囚われの身というわけです。
「やあ、アヤリ姫。お目覚めかな」
胡乱に顔を上げると、マヒト卿が空々しい笑顔を浮かべていました。
その手が弄んでいたのは、砕けた剣です。決闘で使っていたものでしょう。
「気分は大丈夫かい? 慣れないときついだろう」
「……その発言は色々間違っている気がしますが……転移魔法ですか? その剣に仕込んでいたんですね」
失態です。色々と驚くことが多くて、何から言えばいいのやら。
この人がこんな暴挙に出たこともですが――転移魔法をこんな風に使うことは、正直なところ予測の範囲外です。
彼は人形めいた美貌に蕩けるような笑みを浮かべ、私の問いを肯定しました。
「短距離にしか使えないけれどね。よくできているだろう? このとおり、負荷が大きすぎて触媒がもたないのが欠点かな」
要は逃げ足用ですか。
状況が状況ですので、そのツッコミは心のなかに収めておきました。
少ない面積に術式をまとめた技術は大したものですが、あまり使い道がなさそうですね。ついでに無認可なので違法です。
日の傾き方からして、時間が相当経過しています。おそらくここはマヒト卿の私室――シュクリ家の邸宅でしょう。
確か、シュクリ家が管理を任された小さな聖堂があったはずです。誰にでもできる簡単なお仕事(要は名ばかり管理者)として、この人に回っていたはずです。
距離は、決闘の場所から馬で一時間ほど。転移の所要時間は、通常より長いのかもしれません。
馬を使うのと大して変わらないでしょう。
無用の長物です。それこそ、こんな使い方でもなければ。
「いろいろと驚きました。それで……どうするつもりです?」
さして想像のつかない行き先ではありません。じきに追っ手が現れるでしょう。
この手の衝動犯は喋りたいことが山ほどあるはずですから、適当に話を合わせていればべらべら喋って時間を使ってくれます。
マヒト卿は奇妙に落ち着いた笑顔を浮かべたまま、折れ砕けた剣をまだ握っていました。
心臓が嫌な音を立てています。それでも、怯えた様子など見せるのは真っ平です。
大丈夫。虚勢をもっともらしく見せるのは得意です。落ち着いて、とにかく時間を稼いでいけばいい。
「ああ、その前に聞きたいのですが。教えてもらえますか?」
「……何かな」
「何故私に毒を? 死なないことはわかっていたでしょう」
気づかれていないと考えていたのかと思いきや、マヒト卿は動揺することなく、ゆったりと笑みを浮かべました。
「何故? 君がいけないんじゃないか。僕ではなく、あんな男を選ぼうとした」
「そのあたりですでに誤解があるんですが……まあいいです。ラクイラで事を起こせば縁談がなくなるとでも言われましたか? ……どこかの、誰かに」
「言っただろう? 僕にも情報源はあるさ。特に、君のことに関してはね」
――いえ、十中八九第二神官長に踊らされたんだと思いますけど。
そこは口に出さず、私は細い息を吐きました。
「……つまり、私に罰を与えたかったと?」
「そう、思い知るべきなんだよ。君も、僕を軽んじる他の人間も。そして後悔するといい……そのために僕は、何としてでも皇配にならなければならないんだ」
だんだんと強さを増していく声は、良く言えば、追い詰められた狂気を孕んでいました。
――良く言えば、です。
ついでなので忌憚のない表現をするなら、自己愛の強いお坊ちゃんが一人で盛り上がって陶酔している、とも言えます。
積もり積もったものがあるのか、彼の独壇場は止まりません。
「どいつもこいつも、僕と父を比べてはふざけたことを言う……! 何がわかると言うんだ、何も理解などしていない癖に! やることなすこと難癖をつけられる僕の気持ちなど、誰も分かっていやしないんだ!」
いえ、皇配に収まったところで、彼の自尊心が満足できる状況にはならないと思うんですが……。飼い殺しにする気、満々ですよ?
政治的な権限もまったくありませんし、まず今より威張れる環境にはなりません。
というより、この期に及んでまだそんな寝言をほざけるのがすごいですよね。
私の夫になりたいなら大人しくしていなさいと何度も言ったつもりだったんですけれど、伝わっていないようで非常に遺憾です。大人しくしているどころか、自分で吹っかけた決闘に負けて、あげく衆人環視の下でを誘拐、と。ここまでくると不祥事の大安売りです。どう始末をつけたものやら。
――何よりも。
その発言は、実にいただけません。
喋らせての時間稼ぎはそろそろ限界です。
遠慮なく、盛り上がる阿呆に水を差すことにしましょう。
「理解しました。要は、あなたが駄々っ子だって話ですね」
「なっ……」
怒気に染まるマヒト卿の顔を冷え冷えとした気分で眺め、私は立て続けに喧嘩を売りました。
「残念ながら、それ以外の感想が出てきません。理解して欲しいのか欲しくないのか、せめてどちらかに統一していただきたいのですが」
「ば……馬鹿にしているのか!?」
「せざるをえませんよねこの状況。だってあなた、目に見える努力をしていないじゃないですか。結果もないのに威張り散らしているだけじゃ、馬鹿にされるのは当然です」
「僕だって努力してきた! それでも、周りの奴らが見ているのはいつも父上の――」
「親が偉大というすぎるのはお気の毒ですが、人間は常に誰かと比べられるものです。私だって猊下と比べてこの容姿ですから、さんざん言われてきましたよ? 地味だとか血が繋がってないんじゃないかとか。結局のところ、比較から逃げることなんてできないんですよ」
「うるさい……うるさい、黙れ! 何が分かると言うんだ! 何もかもを手に入れている、君のような人間に!」
「だから何もかもは持っていないって話なんですが……」
人の話を聞かない人です。
私はこれみよがしにため息をつきました。
「……気持ちはわかります。でも、あなたはちょっと色々、自分に甘すぎると思うんですよ。あなたが評価されないのは、あなた自身の責任です」
怒りのあまり顔を引き攣らせていたマヒト卿は、それでも状況の優位性を思い出したのでしょう。
顔を伏せ、低い笑い声を漏らしました。
「……ああ、そうか……やはり、君が……誰よりも君に、思い知らせなければならないんだ」
くいと私の顎を持ち上げ、彼の青い瞳が愉快げに私を覗き込みました。
うん、実に殴りたくなる笑顔ですね。手枷があってもアッパーカットくらいはできるような気がしてきます。
そんな誘惑を無表情の下に押し込め、お綺麗な顔を見上げました。
「……今でさえ墓穴の底で穴を掘っている状況なんですが。これ以上どうするつもりです」
「決まっている。君を僕のものにするのさ」
抽象的で理解しがたいというか理解したくないところではありますが、私にがある以上、物理的な手出しは不可能です。
となると――ああ、そういえばここには聖堂がありましたか。
連想と同時に嫌な選択肢を思いついて、さすがに血の気が引きました。
「……まさか」
「そう。婚姻の誓約を結びたいと思っているんだ」
「あなた馬鹿なんですか!?」
思わず無表情をかなぐり捨てて叫びました。
いえ、もちろん偽りや強迫によるものですから、後から結婚を取り消すことは可能です。可能ですが、私が政治的に死にますよ、それ!
――いえ死にませんけど、その程度で死にはしませんけど! ……くっだらない事件で神権を使わせたとして、歴史に名を刻むことは請け合いです。冗談にもなりません。
次期がまんまと罠にはまってうっかり結婚させられてしまいました、だなんて。
考えれば考えるほど、汚点どころの騒ぎではありません。誰より私が耐えられない。死にたくなります。
いかにも楽しげなマヒト卿に、私は呪いの温度で唸りました。
「素晴らしいレベルの嫌がらせですね……! 地獄に落ちたらいいと思いますよ!」
「それは光栄だ。君がそれだけ取り乱す価値があるということだからね」
「なんのための決闘だったのかさっぱりですよ! 言っておきますがこれ、ただの恥の上塗りですからね!」
「君も無傷ではすまない。そうだろう?」
見透かしたような発言ですが、決定的な思い違いがあります。
私はマヒト卿を思い切り睨め上げました。
「……随分と馬鹿にしてくれますね。これだけ虚仮にされて、私が諾々と従うとでも?」
確かに私は体面を気にする人間です。このまま事件を隠蔽することも、もちろん選択肢の一つに存在しています。
――だからといって、勘違いしてもらっては困る。
矜持を守るべき状況を見誤るほどの阿呆だと思われているなら、それこそ心外です。
「形はどうあれ確実に婚姻は取り消しますし、しでかしたこともきっちり精算していただきます。確かに大した嫌がらせですが、嫌がらせ以上の価値はありませんよ」
じりじりとした睨みあいがしばし続きます。
先に目を逸らしたのは、マヒト卿の方でした。
「……それならそれで構わないさ。君に爪痕を残せるのならね」
これを殊勝と言うかどうかは、見解の分かれるところでしょう。
むしろ、正気に戻りかけているんじゃないでしょうか。ならば僥倖。現実を思い出していただきましょう。
「さっきは随分と意気込んでいたようですが、いきなりトーンダウンしましたね」
「……うるさいよ」
「いえ、だってそうじゃないですか。冷静に考えてみましょう。その爪痕って、あなたの今後の人生を全部なげうつに足ります? 死罪にはならないでしょうから、それこそ生き地獄ですよ? これまでは陰口だったものが後ろ指に変わった状態であと数十年生きていくって、精神的にかなり厳しい状況だと思うんですが」
「くそっ、〈祝福〉があるからって好き放題……!」
「紛れもない事実ですよ。なのでほら、ここで諦めてみるのも一手だと思うんですが」
「できるわけがないだろう!!」
いきなり激昂するのはどうかと思います。
怒鳴った彼の顔は見えません。ソファの肘置きを掴み、顔を伏せたまま、マヒト卿は苦渋に満ちた声で言いました。
「……できるはずがないんだ。僕は、君を、どうしても……」
その言葉の先は、声にならずに消えていきました。
何を言いたかったのか、何を飲み込んだのか――それは果たして、私に理解できることだったのか。
「……僕の選択肢は一つだ。君を僕のものにする」
「ですから――」
「助けを呼んでも聞こえないよ。君の声は、僕以外の誰にも届かない」
マヒト卿の指が、私の胸元からペンダントを持ち上げます。
これも秘蔵の品というわけですか。
声というのは、つまり音です。音は空気の振動ですから、魔法式でそれを遮断しているのでしょう。ついでに「はい」「いいえ」程度の応答用音声を用意すれば、初歩的ながら傀儡人形のできあがりです。
……つとめて冷静に現状を把握しましたが。
要するに、今、ものっすごく、ピンチです。
「そろそろ準備が整ったところだ。行こうか、僕の花嫁」
「はいわかりました、なんて返事がくるわけないと思いませんか。全力で抵抗しますよ」
「そう、意識がなくても構わないんだよ? これが、君のかわりに返事をする」
ペンダントを指でいじりながら、マヒト卿が答えます。
やっぱり応答機能をつけているってことですか。実に最悪です。
ああもう、救助はまだですか。そろそろヒナあたりたどり着いていてもおかしくないでしょう。いや、むしろ頑張ってたどり着きましょうよ!
内心で叫んでいるところに、マヒト卿が私の腕を取りました。
もちろんそこで、素直に立ち上がるという選択肢はありませんが。
「……いい加減、諦めたら、どうなんだい……!」
「うるっさいですよ、抵抗しないはずが、ないでしょうに……っ!」
ソファにしがみつく私と連れ出そうとするマヒト卿とで一悶着したあげく、力負けして、横抱きに抱き上げられました。
いわゆるお姫様だっこという種類のものです。
心底嫌なのですが、そういえばどこぞの王子は肩に担いでくれていましたね。あれに比べればまだましだと思うべきでしょう。思うしかありませんので思ってみせます。
何しろ、この体勢というのはなかなかに体力を消耗するものであるそうなので。
逃げた場合の追っ手の体力を削ぐ方法としては、それなりの効果があります。
逃げようと(正確に言うなら落ちようと)する私と四苦八苦して抱え続けるマヒト卿との戦いを続けつつ連行された聖堂では、マヒト卿の言葉どおり、すっかり準備が整っているようでした。
しかしながら小聖堂らしく、人員は最低限です。具体的には一人です。
マヒト卿がぜいぜいと肩で息をしながら、それでも丁寧に、ようやく私をおろします。
司祭らしき壮年の男性は、いかにも強要された様子で、困り切ったように眉を下げて言いました。
「マヒト卿……本当によろしいのでしょうか。猊下やお父上の立ち会いもなく、婚姻の儀など……」
「言ったはずだろう、どうしても早々に行いたいんだ。君の弱視をおして司祭に推したのは、父ではなく僕だ。その恩に逆らうつもりか?」
「いえ、そのようなつもりでは……」
困惑した様子の司祭が、私の方に視線を向けます。
その視線は、微妙に私の視線とは合いません。私の輪郭程度しか把握できていないのでしょう。「弱視」との言葉通りです。
司祭を抱き込むとしたら、年単位の準備が必要です。まさか気まぐれと偶然の結果などではないでしょう。……その方が説得力があるというのは脇に置いておくとして。
「星下、ご無礼とは存じますが、重ねてお訊ねすることをお許しください。本当に、このような形でよろしいのですか」
「いいわけがありませんよね! 聞こえてるなら止めて欲しいんですが聞こえてないんですよねどうせ!」
しかも魔工具が勝手に「ええ。よしなに」なんて返事しているのだから、苛立ちはいや増すばかりです。
唇の動きと音声の差をどうごまかすのかと思いきや、まさかのこんな手段とは。いかにも巻き込まれた善意の第三者といった様子で――いや、だったら、暴れて抵抗するのも一手ですか。様子がおかしいと思えば、それだけ引き延ばせるはず。
考えを巡らせているうちに、するりと腰に手が回り、マヒト卿が耳元で囁きました。
「諦めが悪いね、君も」
「そうです……ね!」
鳥肌が立った感覚に逆らわず、手枷をつけたままの両手を振りかぶって相手の腹に打ち込みました。
素人なので入ったかどうかはわかりません。呻いたマヒト卿と距離ができたので、そのまま思い切って、握り合わせた手を真上に振り上げます。
何ともうまい具合に、顎を叩き上げることに成功しました。
「せ、星下!?」
「ぐっ……。……この!」
隙をついてマヒト卿の手を逃れ、司祭の悲鳴を背に聖堂の中央通路を走り出しました。
扉までの距離がいやに長いように思えます。
必死で走ったつもりだったのですが、道半ばで後ろから肩を掴まれました。
――駄目か……!
後ろに倒れ込みながら、私はきつく目を瞑りました。
そのときでした。
両開きの大きな扉が、破壊的な音とともに蹴破られたのは。