*022
「ねえ、聞いた?」
「あら、もしかして、星下の……」
「私は見たわよ。さすが、かの獅子王のご子息って感じで、けっこう男前だったわ」
「えー! うわあ、羨ましい!」
「ねえ、すごいわよね。わざわざここまでやってくるのよ? それも猊下がお認めになったって話じゃない」
「あら、じゃあ彼、継承権を放棄する気があるの? だったら可能性があるかしら」
「愛されてるわよねえ。私だったら絶対よろめいちゃう」
「では、代わってください」
小鳥の囀るようなおしゃべりがピタリと止まり、神官たちが恐る恐るこちらを振り返りました。
おどろおどろしい空気が辺りを支配しています。
私は無感動そのものの微笑で、硬直した女性陣を睥睨しました。
「……代わってください。ぜひとも篭絡してきてください。本気で、全力で、全身全霊をもって!
見事成し遂げたあかつきには、二階位特進を約束します!」
高らかに告げると、全員の目の色が替わりました。
私は神殿のこういう実利主義なところが大好きです。胸のすく満足感に笑みを深めると、後ろに控えていたレキが冷ややかな声で水を差しました。
「……星下。あなたまで妙なことを始めないでください」
「失敬な。妙案じゃないですか」
「暴策かと」
きっぱりと断言されました。あいかわらず歯に衣を着せない部下です。
レキの横槍にがっかりした顔をみせながらも、若い神官たちはそそくさと仕事に戻っていきました。
まったく、興ざめです。もうちょっと煽って憂さを晴らそうと思ったんですが。
あれから三日。私はいらいらしつつ忙しない日々を過ごしているところです。
あまりに腹が立ったもので、ギルバート王子がどうしているかは全く関知していません。とにかく今は忍耐です。彼がしびれを切らして無茶をやれば、今度こそ心置きなく追い出すことができます。
それにしても、この噂の広がりよう。虚実折り混ぜて、尾ひれ背びれどころか羽まで生えてきそうなありさまです。
やれ猊下がお気に入りの王妃の息子を婿に欲しておられるだの、獅子王はこの際に南方での影響力を強めようとしているだの、私も嫌がっているように見えてまんざらでもないだの、実は第三だか第六だかの神官長と取引があるだの。政治的な噂と下世話な噂が入り混じっている辺りがとても神殿らしい話です。どうせろくでもない賭けを起こされていることでしょう。
まったくもって腹立たしい。大口の掛け金を入れて配当を下げてやりましょうか。それくらいのいやがらせは許される立場だと思います。
不機嫌に決裁書類を片付けながら、私は低い声でぼやきました。
「……本気で謀殺しましょうか」
「よいお考えだと思いますわ」
何度目かの唐突な独り言に、サキがきっぱり賛同しました。
「確か従兄弟がいましたね。何歳です?」
「十五ですわ。素直で聡明な少年と評判です」
「それは重畳。ラクイラの反乱を招くのは好ましくありませんからね。事故を偽装するにしても、まずはあちらの世論から整えて――」
「せ、星下……」
目を据わらせて謀殺を計画し始めたところ、青い顔で衛士が口を挟みました。
「……ヒナが、いつのまにかいません……!」
「早っ! と、止めてきてください!」
どう考えても本気で殺しに行っています。
――その後の騒動は言うまでもありません。
危ういところで連れ戻されたヒナは、レキに後ろ襟を掴まれ、子猫のような状態になっていました。
「王子が応戦できたのが幸いでした。被害は椅子と卓のみです」
「……そうですか……」
賓客の部屋です。それだけでも相当な被害額ですが、強引にごまかせただけましでしょう。
ぐったりと執務机に伏せた私に、ヒナが唇を尖らせました。
「だってせーか、ころしていいって」
「やるにしても順序というものがあるんですよ……いきなり他国の王位継承権者が神殿内で変死したら大事です」
「めんどくさーい」
「うん、もういいです。うっかり口走った私が悪かったです。ヒナ、おやつ食べてお昼寝なさい」
「はぁーい」
ヒナが執務室から出て行くと、サキが我慢を振り切るように声を尖らせました。
「……アヤリ様! やはりあのような危険物をお側に置くべきではありませんわ! しつけるなり処分するなりしなければ……!」
「どちらも難しいと思いますよ。いまさら矯正は無理でしょうし、処分と言ってもどれだけ被害が出るか……」
「お言葉ですが、甘すぎますわ! 見た目は子供でも、あれは根っからの凶手ですわよ!?」
「実年齢も子供だと思いますが」
「アヤリ様!」
適当な言葉でごまかそうとすると、余計に怒られました。
そもそも、暗殺は使わないと公言している私がヒナを手元に置いているのは、ヒナの特殊な出生も理由の一つですが――それが一番、計算違いを起こしにくいためです。
自らの手で一族を滅ぼして自由を得たヒナは、気まぐれで腕のいいはぐれ暗殺者として、よりによって神殿の中で三件の暗殺をこなしました。四件目に選ばれたのが私だったのです。
厳重な警備をあっさりと突破し、目の前に現れた幼い暗殺者。
見るからに子供で隙だらけに見えましたが、それは私が荒事に慣れていないためでしょう。
とっくりと見つめ合い、その時の私は、一応の確認をしました。
――私を殺すことはできないんですが、依頼者から聞いていませんか?
――んーん、依頼者とかいないよ。むずかしそうだからころしてみたかっただけ
なんとも適当な動機です。
猊下だったらきっと面白がって手元に置かれるのだろうな、と思ってしまったことが、後から考えても現状の最大原因だったのでしょう。
では試してみますかと訊ねたところ、ヒナはあっさりと首を振りました。
――いいや。ころせないの、わかったから
――そうですか。では、お菓子でも食べていきますか?
きょとんと丸くなった紅玉の瞳は、ひどく稚い子供のものでした。
お菓子の味が気に入ったのか、それともほどよい硬さのソファが気に入ったのか、ヒナは頻繁に私の執務室を訪ねるようになりました。
野良猫に居着かれたようなものです。
試しに、ここにいる間は殺しをしないようにと話を持ちかけて見ると、ヒナはあっさり肯きました。
かれこれ半年前のことです。
政争に暗殺を持ち込まれると、人員が欠けることになります。能力主義の神殿においては地位が重要になればなるほど、簡単に代わりを用意できるものではありません。現に、ヒナが殺した一人は人品こそ最低水準でしたが非常に有能だったので、彼を失った司法府の混乱はひどいものでした。
単純な武力でも魔法でも、ヒナを殺すことは困難を極めるでしょう。
そして、口に出せばサキが苦い顔をするので言いませんが、それなりに情が移っているのも事実です。
私がサキの苦言を聞き流し始めていると、レキが冷ややかな声で口を挟みました。
「そもそも、君が星下の冗談に乗ったのが悪い。ヒナに言質を与えるな」
もとい、火に油を注ぎました。
サキが当然のように激昂します。
「なんですって!? レキ、あなたこそしっかり手綱を握っておきなさいな!」
「扱いを誤らなければいいと言っているんだ」
「意に反して動く武器なんて、危なくて使えませんわよ!」
容易には結論の出ない話です。
サキはまだまだ言い足りない様子でしたが、レキは早々に切り上げて報告を始めました。
「それよりも、星下。奏上したいことがあります。よろしいでしょうか」
「ラクイラの王子が関与しない件なら聞きます」
「そう思ってご様子をうかがっていたところ、一向にお聞きいただける兆候がありませんので」
思わず唇を曲げてしまいました。
聞きたくないと感情が駄々をこねますが、どうにもなりません。レキがここまで言うからには、聞く必要があることなのでしょう。
「……わかりました。言ってください」
「マヒト卿ですが、ラクイラでの噂をご存知でした。ギルバート王子が来訪された日のことです。念のためこちらの同行者を調べておりましたが、情報を漏らした者は確認できません」
それは確かに、聞き逃せない話です。
私は考えを巡らせながら顎に手をかけました。
ラクイラを席巻していた噂とはいえ、容易に届く距離ではありません。噂の流通元たる商人や流れの旅人は、通常、転移魔法を利用することはできないのです。
つまり、自然発生的な噂が〈神殿〉に届くまでには、まだ時間があります。
相応の労力を割いて情報を集めなければ知り得ないことでしょう。
「なるほど……帰国してからこちら、妙にしつこいと思ったんですが」
「おそらくは、噂を聞いて焦ったのでしょう。星下のそのようなお話は、これまでありませんでしたから」
ラクイラまで随伴したのは、神官も衛士も信頼の置ける者だけです。その中に情報を漏らす人間がいたとすれば残念ではあっても簡単な話ですが、違うとなれば奇妙な話です。
考えられるルートとしては、ラクイラ駐在の神官辺りでしょうか。もっとも、第二神官長あたりならともかく、マヒト卿が相手では取引に応じてくれないでしょう。
疑問はもう一つあります。
あの考えなしの皇配候補がこの件を知っていたとなると、もっと短絡的な行動に出ていたはずです。花を贈るだけではなく、ラクイラまで押しかけてきそうなものですね。
今ひとつ手前で足踏みをするような状況に、私はこめかみを押さえて目を伏せました。
「どうもいろいろ矛盾していますね。……釈然としないな」
「ここのところの情報の早さから考えて、近々に新たな情報源を得たと考えるのが自然かと」
淡々とした言葉に、私はレキを見やりました。
沈着な灰色が、意図をもって私を見つめ返します。
情報を得るだけの能力があり、それをもたらした上で行動を制限できる情報源。
それが第二神官長だと、彼は踏んでいるのでしょう。
「……いいでしょう。その方向で調査を進めてください」
「御意に」
レキは慇懃に一礼しました。
これが第二神官長の尻尾だとは思いません。もし動くなら、もっと気づかれないように動くでしょう。
大甥を私に近づけたことといい、それなりに危機感はあるようですが……翻意を促すには弱いです。かといって、無駄なことをしてあがくような人でもありません。警戒はしておくべきですね。
ともあれ、ストレスは解消されたわけではありません。急ぎの仕事を見繕って片づけ、書類束を叩きました。
「よし。旅に出ます」
「はい?」
何人かの声が重なります。
書類の端を軽く整え、構わず立ち上がりました。
「三日ほど神殿を空けます。やっぱり苛々して余裕がなくなっているのがいけないんですよね。というわけで、帰るまでに色々準備しておいてもらえると嬉しいです」
「それはもちろん、構いませんけれど……どちらに?」
困惑気味にサキが訊ねてきたので、私は笑顔で答えました。
「ちょっと親戚を問い詰めに」