*020

 さて出張です。ただし、隠密に。

 南方東部の商業国家、ヒュースリア。交易で栄えた国ながら、来るもの拒まずで変化しながら発展してきたラクイラとは異なり、独自の分化を衣装や建築に色濃く残している国です。
 その中心街にある礼拝堂で、私は件の商会の重役を迎えました。
 神殿の管轄下にあるこの施設は、密会には最適です。
 私は無感動に笑みを浮かべ、彼に目の前の席を勧めました。

「ご挨拶は結構ですよ。多忙のところをありがとうございます。どうぞ、掛けてください」

 血の気の引いた顔で、彼はぎこちなく唾を飲みこみました。レキに促され、人形のように私の前に座ります。
 私は微笑んで彼を見据えたまま、次の言葉を発しません。
 痛いほどの沈黙が、礼拝堂を支配しました。彼にとってはまさしく針のむしろでしょう。
 彼が気力を降り絞って口を開こうとした、そのタイミングで、私は笑顔のまま声を放ちました。

「私がなぜここにいるか、おわかりですね?」
「……そ……それは……」

 じっとりと脂汗をにじませ、彼はかすれた声でうめきました。
 大口の取引を得ようと商会が何をしたのか、彼は認識しているはずです。心当たりは十分すぎるほどにあるでしょう。
 けれど、同時に分からないとも思っているはずです。それもそのはず、普段であれば〈星〉が自ら贈収賄の摘発に動くことなどないのですから。
 彼の常識は正しい。けれど、誤りでもあります。

「私は私腹を肥やすと言う行為が好きではありません。利益を提供するのなら、国に対してしていただきたかったですね。……残念ながら、あなた方は努力にもかかわらず利益を得ることができませんでしたが……第二神官長の振る舞いは、少々、目に余ります。そろそろ膿を出すべきでしょう。あなた方には不運なことですが、犠牲になっていただくつもりでいます」

 蒼白な顔で言葉を飲む男性に、私は笑顔を向けました。
 彼は震える手を握りしめ、青ざめたまま、それでも顔を上げました。

「……なぜ、私に、それをおっしゃるのでしょう?」

 求めていた反応に、私は笑みを深めました。
 そう。目の前にいるこの人は、商会の重役ではありますが、責任者でもなければ首謀者でもありません。ただ、現社長の血縁であり、現在は冷遇されていると言う「強み」があります。

「理解の早さは美徳ですね。道はもう一つあります」

 一度目を伏せて、私は彼に、逃げ道を提供しました。

「選ばせて差し上げます。……私と第二神官長、あなたはどちらを敵に回したいですか?」
「な……!」
「あなたは今回、第二神官長との取引に直接関与してはいないはずです。身内の過ちを正すのは、身内であるほうが望ましいでしょう。同時に、経営陣を大幅に入れかえることで、その姿勢を示すこともできます」

 彼が目を見張るのを確かめ、私は静かに微笑みました。
 商会にとっては未曾有の危機でしょうが――彼にとっては、目ざわりな叔父を蹴落として、商会を牛耳る絶好の機会でもある。
 その野心こそを、私は求めているのです。

「ヒュースリア当局との調整はこちらが執り行いましょう。無論、当局からはペナルティが課されるでしょうが、向こう数年の支援は保障します。その間に商会を掌握し、立て直すことができるかどうか――それは、あなた次第です」

 怯えから野心に移り変わっていく目の色。
 強い意思を取り戻した彼に、私は勝利を確信して続けました。

「三日さしあげます。その間に関係者を説得し、確固たる証拠を渡してください。私の名にかけて、前言を翻すことはしませんよ」

 ――ようやく捕まえたヒナに、そんな工作のくだりを言い聞かせ、私は締めくくりに入りました。

「……ということですから、ヒナ。今のところあなたに動いてもらう予定はありません。大人しくしておくこと。いいですね?」

 ヒナは執務机へ腹這いに乗り上げたまま、これでもかというほどに頬を膨らました。
 そのまま両足をばたばたさせる様は、まるで陸に揚げられた魚です。
 はらはらと見守る女官たちなど見向きもせず、稀代の凶手は駄々をこねました。

「なんでぇ? ヒナそいつころしてくるよ、そしたらはやいのにー」
「あなたが転がり込んできたときにも言いましたよね。私は基本的に暗殺は使いません。かえって面倒になります」
「せーかぁ」
「駄目です。心配しなくても、ヒナはちゃんと役に立ってますよ」

 これは慰めではなく事実です。暗殺者の技能は諜報にも応用が利く場合が多く、飛び抜けた才覚を持つヒナは時折面白いものを拾ってきました。
 ――情報の取捨は全くできないので玉石混合ですが。得意満面に神后猊下の夫自慢を聞かされた時には、さすがに頭を抱えました。身内のそんな話は求めてません。できれば聞きたくないです。
 いじましい視線を無視して仕事を続けていると、ヒナはいじけた顔になって執務机を飛び降りました。

 出ていくのかと思いきや、応接用のソファの隅っこに居座って、あからさまな態度で背を向けて膝を抱えます。
 構ってといわんばかりの態度です。

 目配せをすると衛士が苦笑を返し、小さな頭をぺしりと叩いて菓子を与えました。
 反撃で臑を蹴られてうずくまる衛士を視界の端に、書類をめくっていると、レキが淡々と言いました。

「あれでも星下を心配しているのです。ご帰国を知るのが遅くなったことで、拗ねているのでしょう」

 恐ろしい早さで飛んできたクッションを片手で受け止め、彼は自然な動きで小脇に抱えながら報告を続けました。
 その姿だけ見ると笑いそうになります。

「ラクイラは調査を快諾しました。侯爵令嬢の処遇についても、回答がきております」
「またずいぶんと早い……ああ、やはり爵位は剥奪ですか。なおさら早いですね」
「危機対応力はさすがということでしょう。機があれば神殿に引き抜きたい人材です」

 今度は金属製のレターナイフが飛んできました。
 レキがクッションで危なげなく叩き落とし、ようやく振り返ると、幼い暗殺者の丸い背中に声をかけました。

「ふらふら出歩いて、どこにいるかわからない君が悪い。予定は変わるものだ。これに懲りたら、子供は日が沈む前に家に帰るんだね」
「うるさぁい!」

 飛びかかろうとしたヒナをあわてて衛士が引き留めます。
 小さな踵が衛士の顎を蹴り上げたとき、サキが執務室に戻ってきました。

「アヤリ様、そろそろお時間ですわ」
「わかりました。……ああヒナ、その焼菓子はラクイラのお土産ですよ。美味しかったのでどうぞ」

 膨れっ面のヒナに声をかけ、執務室を出ました。

 多数派工作はサキに任せているとはいえ、要所を絞っての直接交渉は必要です。要職にある何人かと話を詰め、条件を確認して合わせていった後は、リシェール自治監督庁の編成会議が待っていました。
 そちらにはレキを伴って参加し、己が監督官に推薦したはずのナガレ卿との攻防の末、どうにかこちらの手駒を一人入れることを承認してもらいました。
 ……彼には貸しを作ったつもりだったのですが。なかなか図太い神経です。まあうまく立ち回れずに失脚しかけた人物なので、これくらい図々しいほうがこの先は安心できるでしょう。

 第二神官長の推薦物件との見合いが行われたのは、そんな多忙の合間でした。

 第二神官長の大甥は、こちらが指定した時間ちょうどに現れました。
 予想外だったのは、彼がその顔にこの上ない渋面を張り付けていたことです。
 ちょっとびっくりです。実直だと評されたとおり、感情を繕うことをしない人のようですね。軍人らしい硬質な空気をまといながら、不本意だと体全体で主張しています。

 仏頂面で席に着いたダイカ卿は、開口一番に言いました。

「お目通りを得て光栄ですが、このお話は星下からお断りいただきたく存じます」
「……それはまた。一応理由を聞きましょうか?」
「私には十年来の付き合いの恋人がいます。彼女以外を妻とする気はありません。……それをあの狒々爺、どうせ求婚を断られ続けているだろうなどと言いやがって……!」

 本音が思い切り漏れ出ています。
 怒りのあまり声を震わせるダイカ卿に、私は呆れ顔を返しました。
 私の前だということをすっかり忘れているような気がします。一応、第二神官長の家系は現状政敵となっているのですが。
 それはお気の毒にとおざなりな相槌を打つと、彼ははっとしたように咳払いをしました。

「……し、失礼。あまりにも理不尽な目に遭っている気がしまして……」
「十年も求婚を断られているんですか。根気のある話ですね」
「断られているのは七年です!」
「大差ない気がするんですが……そんなに毎度、どうやって断られるんです?」
「にっこり笑顔で聞き流――いや、そろそろご勘弁いただけませんか、星下せいか……!」

 ダイカ卿は低く呻いてうなだれました。
 膝の上に置かれた拳が屈辱に震えています。これはつついたら相当面白いことになるでしょう。
 どうやら第二神官長との関係は良いものではないようですが、果たしてどこまでが真実なのやら。
 嘘が下手そうには見える、いかめしい顔つきに目を眇め、私は口元に笑みを佩きました。

「おおよその事情はわかりました。断りますから安心してください」
「……ありがとうございます」
「ああ、少し聞きたいことがあるのでそのままに。お茶でもいかがですか?」

 ほっとした様子のダイカ卿に釘をさし、私はサキへ目線を投げました。
 サキが心得たように会釈し、手際よくお茶の準備を整えます。
 優雅に差し出された紅茶は、紅味の強い色と独特の香りを持つものです。笑顔で勧めると、ダイカ卿は興味深げな顔でカップを持ち上げました。

「変わった香りですね」
「南方のものです。……私がラクイラでいただいたものですよ。イコウ卿も、よくご存知かと思いますが」
「恐縮です」

 言葉の端々ににじむ含みに、彼は怪訝そうな顔を見せましたが、ためらう素振りはありません。あっさりとお茶を口に含みました。
 ……あれ、これは本格的に外れでしょうか。

「いかがですか?」
「……案外、味は普通ですね」

 的外れな返答に、思わず失笑してしまいました。
 額を支えて笑い出した私に、ダイカ卿はあわててカップを置きます。

「申し訳ありません、こういったものにはとんと疎く……! なにか失礼を」
「ああ、いえ。面白い返答だったので、つい。こちらこそ失礼しました」

 彼は神官にならなくて正解でしょう。どうにも朴訥が過ぎます。これであの第二神官長の近縁だというのだから、一体何を取り違えて生まれてきたのか。心底不思議です。
 大きく息を吐ききると、私は無感動な笑顔を浮かべて、ダイカ卿を見据えました。

「さて、ここからが本題です。……このお茶に毒が入っていたと言ったら、どうしますか?」

 彼はわずかに目を瞠り、予想外な事に顔をしかめてみせました。

「ご冗談を。理由がないでしょう」
「どうでしょう。人が人を害する理由など、些細なことが多いものですよ。私も先日、毒を盛られたところです」

 ダイカ卿が顔色を変えます。
 ただ、それは追求を恐れる類いのものではなく、驚きと怒りに染まったものでした。
 衛府は神殿の警備を担う部署です。そこの大尉であるダイカ卿としては聞き逃せない話だったのでしょう。――これはどうも、外れの公算が高まってきましたね。

「神殿内でのことでしょうか」
「いいえ。ただ、犯人は神殿の者でしょう。……私は目下のところ、あなたの大叔父殿を疑っています」

 ここまでの流れで、さすがに予測はついていたのでしょう。
 今度は驚きを見せず、ダイカ卿は膝の上で拳を握りました。

「それは……確かなのですか」
「確証は得ていませんがね。信じられませんか?」
「ありえません」

 きっぱりとした返答に、私は首を傾げました。

「大叔父は確かに悪辣な人間ですが、それ以上に権威志向の強い人間です。星下せいかを直接害するようなことは考えにくい。もっと回りくどい手をいくらでも考えつくはずです」

 ……ふむ。一理ありますね。
 第二神官長ほど怪しい人間がいないのは確かなのですが、血縁であるダイカ卿のほうが、彼の人となりは理解しているでしょう。彼が権威主義者であることは事実ですから、主観だと切り捨てられない程度には理屈が通ります。
 ダイカ卿は両手を組み合わせたまま、厳しい表情で続けました。

「ただ、星下がそうお考えになるからには十分な根拠があるはずです。万一大叔父がそんな暴挙に出たのであれば、衛府の士として断罪しないわけにはいきません。もしご許可頂けるようなら、私の方でも内密に調査を行います」

 予想外の提案です。
 いえ、正確には、そうなるとしたらもっと違う形で滑り込もうとしてくるだろうと思っていたのですが。
 二重スパイの可能性を考慮しながら、私はひとつうなずきました。

「そうですね……お願いしましょうか。どうせ嫌疑をかけていることはばれていますからね。あなたに不利益の及ばない程度でいいですよ」
「ご配慮、感謝いたします」

 ダイカ卿は軍人らしく、規律をもって頭を下げました。
 その後もいくつか話を詰め、訪れた時とは打って変わった冷静な様子でダイカ卿は部屋を後にしました。

 サキが淹れなおしてくれたお茶で喉を潤し、私は紅い水面を見つめます。
 どうも第二神官長の考えが読めなくなってきました。
 疑いをかけられている事は認識しているでしょう。その上で無関係と思われる血縁を私と引き合わせるとなれば、考えられるのは自分の潔白を証明させようとしていることです。

 ダイカ卿はああ言いましたが、私の中で第二神官長はほぼ黒です。ただ、彼が周辺を嗅ぎ回られても困らないと考えているのも確か。
 誰を殺して何を消そうが、痕跡を完全に隠すことは不可能です。敵はそこらの神官ではなく、〈星〉であるこの私なのですから。こちらの情報収集力を侮っているわけではないでしょう。
 おまけに事実如何に関わらず、こちらは彼を追い込みに入っているのです。
 ラクイラの内務卿からは、調査依頼について快諾を貰っています。そのうち裏付けとなるか、別の切り口となる情報が届くことでしょうが、果たしてどう転ぶのやら。

「……なかなか面白い人でしたね。二人はどう見ますか?」

 控える侍従に訊ねると、サキが憮然と答えました。

「所詮身内の目ですわ。信頼を置くには足りませんし、イコウ卿への切り札には成り得ませんわね」
「僕は逆に、ダイカ卿の見立てに同意します」

 淡々としたレキの発言に、サキは柳眉をつり上げました。

星下せいかに毒を盛るなどというのはよほどのことです。あの計算高い男がそれほどの危険を侵してまでそんな手段を選ぶかという点には、確かに疑問が残ります」
「うまくやるつもりだったのではなくて?」
「リスクが高すぎる。ギアノ交易がいくら利益になると言っても、一族の命運を賭けるほどの規模とは思えないね。短絡的だ」
「なっ」

 どうしてこう、レキはサキ相手だと喧嘩腰の言い方になるのでしょう。
 私は苦笑して腰を上げました。

「まあ、使えるものは使いますよ。ちょっと気分転換に散策をしてきます。レキ、付き合ってもらえますか?」