*017

 目を覚まして最初に聞いたのは、自分の名前でした。
 覚醒しきらない頭が、ぼんやりとその声の存在を染み込ませます。
 ――続いて出てくるのが憎まれ口である辺り、呆れるほどこの王子らしい話だと思うのですが。

「……やっとお前呼ばわりをやめたと思ったら、今度は呼び捨てですか」

 腕をついて重い体を起こし、私はため息を吐きました。
 あれからどのくらい経っているんでしょう。神様も気が利かないものです。人外じみた回復力を持たせるくらいなら、最初から鋼鉄の体でも与えていればいいと思うんですが。
 しかしそれにしても、油断していました。ずいぶんと舐めた真似をしてくれたものです。
 おおよそ黒幕の予測はついています。これは徹底的に思い知らせる必要がありそうですね。
 辺りは夜闇に包まれて、薄い月明かりだけがほのかに影を作っています。
 この分だと、深夜でしょう。今すぐに動くと言うわけにはいきませんか。出立の準備は整っているでしょうから、明日のうちに神都に戻りたいところです。
 めまぐるしく考えを巡らせていた私は、寝台の紗幕が引かれたのに気づいて顔を上げました。
 どうしたんですかと問い掛けようとして、声を呑みました。
 ギーが寝台に乗り上げて、痛いほどの力で私を抱き竦めたからです。

「……ギー?」

 予想だにしない事態に、私は困惑して彼の名前を呼びました。
 そういえば、どうしてこの人がここにいるんでしょう。サキが通すとは思えないんですが。
 張り倒すべきなんだろうかとようやく思い当たったところに、掠れた声が聞こえました。

「……心臓が……止まるかと……」

 苦痛のにじむ響きと、震える腕が、言葉以上の感情を伝えてきました。
 震える腕に込められた感情に、私は、ゆっくりと目を伏せます。
 感情は静かに凪いでいます。冷静になった思考が揺らいでいないことに、安堵しました。

 思い出したのです。
 私はこういう場所で、こういう風に生きている人間なのだと。
 眠る前の混乱はもうどこにもなく、感情は完全に、理性の制御の下にあります。

 だからもう、認めてもいいと思います。私自身にだけは。私は確かに彼に惹かれていて、そのせいでさんざん振り回されて、墓穴を掘って恥をかいて、けれど確かに幸福だったのだということ。
 そして、それを切り捨てるのは、他でもない私自身なのだということを。

「……ギルバート王子。放してください」

 虚を突かれたような空白があり、腕がわずかに緩みました。

「今回の件はこちらの不注意もありました。ラクイラに責を問うつもりはありません。こちらはこちらで片付けます。帳尻はいずれ合わせて頂きますが、まあ適度に気に病んでおいていただければ結構です」
「……どういう意味だ?」
「わからなければガルグリッド卿にでも聞いてください。ああ、あと、私からはフィフィナ姫との縁談を再考するようお勧めしておきます。彼女はかなり面白いですよ。一度、偏見なしで話してみてはいかがですか?」

 困惑するような沈黙は、僅かな間。
 きつく肩を引き寄せ、ギーは苦い声で言いました。

「嫌だ」
「そうですか。もったいないですね」
「……俺は、お前がいい」

 さすがに、心臓が跳ねました。
 私は口元に苦い笑みを浮かべます。

 この体勢は、かえって幸いだったかもしれません。
 夕日に似た黄金の瞳。無遠慮なほどまっすぐな色。私は多分、あれが苦手なのだと思います。あの目に見据えられていたら、きっと――笑うことはできなかったでしょうから。

「とりあえず、熱を測りましょうか?」
「……」
「平熱だったら仕方がないので正気かどうかを確認の上、あほですかあなたと付け加えて、お断りします。丁重に」
「どの辺りが丁重だ」

 彼にはめずらしい苦り切った声に、少しだけ救われた気になりました。
 身を捻ってギーの胸を押しのけると、素直に腕をほどきます。
 その代わりのように、ギーは私の二の腕を掴みました。

「振るならちゃんと振れ」

 薄明かりに見えたギーの顔は、ふてくされたような渋面でした。

「嫌いではありませんが、好きでもないので無理です」
「なら今から惚れろ」
「あなたもめげませんね……。百歩譲って友人にならなれるかもしれませんけど、それ以上は無理です。私はあなたを選ばない。私が選ぶに足るものを、あなたは持っていない」

 突き放すような言葉は、はっきりと線を引くためのものです。
 黙り込んだギーに、私は肩をすくめて笑いました。

「失恋もいい経験ですよ。次への教訓にしてください」

 ――そしてそれは、私も同じです。
 痛みがないとは言えません。けれど、それを見せないで笑うことには慣れています。
 恋だの愛だの、そういうものを否定はしません。だけど私には、それよりも大事なものがある。それ以上のものは何もないのです。私がそう生きたいと願っているのだから、これは無理でも何でもありません。

 きっといつか、忘れるでしょう。
 風化しない思いなどないことを、人は知っています。

「明日には帰国します。次に会うのは、あなたが即位するときくらいじゃないですか? いくらなんでも忘れているでしょう」
「忘れない」
「頑張って忘れてください。多分その頃には夫がいますよ、私」
「……どういう止めの刺し方だ」

 ギーがこの上なく嫌そうな顔を見せたので、私は声を忍ばせて笑いました。
 ――大丈夫。忘れられます。
 私にはしなければならないことも、したいことも、山ほどあるのですから。

「期待しています。あなたはきっと、いい王になりますよ」