*016

 ガルグリッドが執務室を訪れたとき、王子はすでに大半の書類を片付けていた。
 使い走りに出ているのか、従者の姿がない。見張りなしでも黙々と仕事をしているのだから、これは褒めていいことだろう。
 何食わぬ顔で紛れ込ませた新月祭以外の案件は、いずれ王子に叩き込もうとしていたものだ。
 王子は盛大な渋面を見せただけで、大人しくその書類に目を通した。

 今回の件で、ガルグリッドは王子の評価を大きく修正していた。ギルバートが〈星〉を害した下手人を見つけ出すために取った手筈は的確迅速かつ無慈悲で、ことを公にしないため途中で捜査権を取り上げる必要があった。獅子王の片鱗を伺わせる冷徹さを、この王子が表に出したのは、初めてのことだった。

 奔放すぎるきらいはあれど、ギルバートは無能ではない。考える事とやることが突飛なせいで見落としがちだが、それなりの実務能力は備えており、実行力と人を惹く力がある。なにより偉大な父に萎縮しない太い神経は、英雄の跡継ぎとして得がたい資質だ。

 その王子も、もう子供とは言えない年齢である。そろそろ良い伴侶を迎え、父王の跡を継ぐ準備を始めさせたいと考えていた。
 確かに、今回の件は大きな痛手だ。だがそれで王子の自覚を引き出せたのなら、あとは支払わねばならない対価を可能な限り下げさせるだけだろう。
 そしてそれは、こちらの仕事だ。

 ガルグリッドは新たな書類を追加し、決済済みの書類を簡単に確認する。
 ――バキッ、と派手な音がした。
 顔を上げれば、王子が折れたペンを見て苦い顔をしている。ガルグリッドは表情を変えず、淡々と訊ねた。

「折れましたか」
「……すまん」
「いえ。替わりを用意させましょう」

 苛立ちを抑えきることができないのは若さだろう。駄々をこねないだけこの程度は微笑ましいものだ。
 さらりと流して女官を呼ぶと、ギルバートが立ち上がった。

「殿下、どちらへ?」
「走ってくる」
「どちらをです」
「その辺」
「……承知いたしました。城外へはお出になりませんよう」

 仏頂面で出て行くギルバートは答えなかったが、おそらくその心配はないだろう。
 大きな音を立てて閉まった扉に嘆息し、ガルグリッドはひとりごちた。

「親子だな……憂さの晴らし方が同じだ」

 近衛の訓練に混ざった王子は、父王のように兵士を潰すところまでは行かなかった。
 吐くほど走って体力を使い果たし、ギルバートは地面に大の字に転がる。
 目の前には高く透き通るような空が一杯に広がっていた。疲労で鈍くなった頭で雲ひとつない青を見上げると、鬱陶しい感情が少しばかり薄れた気がした。
 起き上がろうとしないギルバートに、兵士が笑いながら声をかけた。

「殿下、大丈夫ですか?」
「ああ」
「吐くなら別のとこで吐いてくださいねー。掃除の子が困るんで」
「……吐かん」
「そうですね、最近はもう成長されちゃいましたね」

 腹筋だけで上半身を起こすと、馴染みの兵士が朗らかな笑顔を見せていた。

「みんな心配してますよ。殿下が不気味……もとい、おとなしいって」
「そうか」
「何か企んでるならいいんですけどね。あんまり悩まないでください。あなたに元気がないと、誰も彼もなんだか落ち着かないみたいです」

 綿布を受け取って汗を拭い、ギルバートは再び地面に転がった。

「うだうだ考えるのは嫌いだ」
「ええ」
「待つのも好きじゃない」
「ええ、知ってます」
「……それでも、そうするしかないこともあるんだと思うと、腹が立つ」

 兵士は目を丸くし、やがて苦笑した。

「大人になるって、難しいですね」

 ギルバートは顔を向けないまま、憮然と黙り込んだ。確信を突かれたような、的はずれなことを言われたような、よく分からない気持ちの悪さを持て余す。
 体を冷やさないよう重ねて言い含められ、綿布を被って城に戻った。
 ガルグリッドは平然とした顔で仕事を積み上げているだろう。おまけにあの無表情であれこれと判断の意図を訊ねてくるのだから嫌になる。
 勝手に動けば〈星〉の不利になることを滔々と言い聞かされてうんざりしたが、さすがにうかつに動けないことは理解した。
 あれから三日。事態は動かない。
 ガルグリッドの念の入れようはかなりのもので、ギルバートもほぼ軟禁状態の日々が続いている。やることと言ったら仕事くらいしかない。あとはせいぜい、リドに八つ当たりをするくらいだ。
 そのリドの声が聞こえ、ギルバートは足を止めた。
 迎賓館に続く、長い廊下の入り口。リドと話しているのは、〈星〉の侍従だ。

「サキ嬢、少し休んでください」
「余計な気を回さないでくださる? あなたに心配されるいわれはなくてよ」
「いいえ、これは忠告です」
 耳障りの悪い言葉に、サキが不快げに眉を顰めた。
「星下がお目覚めになれば、あなたの力を必要となさるはずです。あなたが今すべきなのは、無理に星下に付き添われることではなく、そのときに備えることではありませんか?」
「……それこそ、余計なお世話ですわ」

 ふいと顔を背け、サキは長い廊下を歩いていく。
 ため息を吐いたリドに、ギルバートは声をかけた。

「めずらしいな」
「うわあ! で、でで殿下! びっくりさせないでください!」

 上がった悲鳴がかろうじて潜められていたのは、サキに気づかれることをはばかってのことだろう。

「お前が女に冷たいことを言うのはめずらしい」
「ああ……いえ、そうですね。気持ちはわかりますから……」

 自嘲気味にリドが笑う。

「僕も、殿下のお傍を離れたときにこんなことになったら、誰よりも自分を責めます。そして、それは正しいんですよ。……慰めなんて、必要がないんです」

 それは、ギルバートには分からない感情だ。
 沈黙を返した王子に、従者は急に勢い込んで言い募った。

「ですからあまり無茶をしないでくださいね! せめて護衛は撒かないでください!」
「わかった」
「あなたが即答するときは半分聞いていない時ですよね……!?」

 特にそのつもりはなかったのだが、日頃の行いか信用はされなかった。
 踵を返したギルバートに、リドがあわててついてくる。

「ギルバート王子」

 琴の音に喩えられる美しい声。
 足を止め、ギルバートは無言で振り返った。
 そこにいたのは、フォーリの姫君だ。いつも従えていた取り巻きはいない。可憐な顔を緊張に強ばらせ、彼女は真っ直ぐにギルバートを見上げた。

「お聞きしたいことがあるの。お時間をいただける?」
「……ここでなら聞こう」
「いいえ、だめよ。星下のことなの」

 顔をしかめたギルバートとは対照的に、リドが表情を変えて近くの空き部屋を口にした。
 何か手がかりを得られると踏んでのことだろう。
 リドが扉を閉めたのを確かめ、フィフィナは不安を隠さない目で切り出した。

「前置きはいらないわ。星下に何かあったのね?」
「……耳が早いな」
「ラクイラはどうするつもりなの? 神殿を敵に回すと厄介よ。ガルグリッド卿ならうまく立ちまわるでしょうけれど……わたしは他国の人間だから、あの人はわたしに助力を求めないわ。得られている情報が十分なのかを知りたいの」

 切迫した様子で言い募る姫君に、ギルバートは低い声で訊ねた。

「お前は、知っていたのか?」

 〈星〉がラクイラの令嬢から嫌がらせを受けていたことを、ギルバートはガルグリッドから聞いた。そしてそれが、他でもない彼女自身が差し向けたことなのだとも。
 ガルグリッドは言わなかったが、それは、フィフィナが支持者を統率できなかった証左でもある。

「何を……というのは、愚問ね」
「なぜ話さなかった?」
「……そうね。保身だわ」

 責めるような響きに、フィフィナは目を伏せた。
 どこか痛みのただよう自嘲が、それ以上の言葉を続けさせない。

「これはラクイラの問題であって、フォーリが関与したことではないわ。わたしはそう言わなければならない。それでも……責任の一端は、わたしにもあるのよ」

 静かな声で、彼女は言った。
 ――傷付いたときこそ傷を見せない女なのだと、その微笑に気づいた。

 

 

 

 感情がうまく動かない。制御を超えて走るようでいて、一歩も先に進めていないようでもある。
 そして待っているのはただの後悔だ。考えのない言葉はフィフィナを傷つけただろう。人の事を言えたことかと、苛立ちが増した。
 責任がどうのと言うのなら、それはギルバート個人にもあるのだ。たとえ〈星〉を招いたのが彼ではなかったとしても、それに甘えて何をしているのか知ろうともしなかった。
 知っていたら、止めただろうか。
 おそらく止めなかっただろう。その程度には、彼女の強さを過信していた。

 夜半になってようやく仕事を一区切りさせ、ギルバートは音を立てて椅子の背にもたれた。
 書類を確かめ、リドが気遣わしげな目を向ける。

「なにか温かいものをお持ちしましょうか?」
「酒」
「駄目です。今の殿下だと悪酔いします」

 きっぱりと返されて、ギルバートは天井を仰いだ。女官が子供扱いに温めたミルクを運んでくる。最初から聞くなとリドに丸めた紙を投げつけて、ギルバートはカップを空にした。
 部屋に一人残されると、もやもやした感情が、また頭をもたげてきた。
 面倒だと唇を結び、思い立って部屋を出た。

 向かうのは、白亜の迎賓館だ。
 おそらくは怒鳴られて追い返されるだろう。そう思って扉を叩いた彼を迎えたのは、見慣れない顔の神官だった。

「あら、ギルバート王子。サキに見つかったら殺されますよ」

 発言は物騒だが、あっさりした口調に敵意は感じられない。
 きょとんとした顔をして、まだ年若い神官は首を傾げてみせた。

「まだ寝てるのか?」
「寝てますねぇ。夜ですし。まあ昼も寝てましたけど。ていうかずっと寝てますけど」
「……そうか」
「ところで何の御用でしょう? 心配? 謝罪? それとも夜這い? まあ何でもいいんですけど。ちょっとなら入っていただいていいですよ。サキも休んでいるところですからいませんし、今がチャンスかと」

 とつとつとした物言いで息をつく間もなく話し、彼女はギルバートを室内に招いた。
 衛士も苦笑いを見せただけで、それを止めない。いささか拍子抜けするほどにあっさりと、彼らの主人への面会を許された。
 襲うのはだめですよと無表情で釘を刺した神官は、だが大して頓着も見せず、ギルバートを一人寝室に残した。

 新月を越えたばかりの月は、まだ細い。
 ほんのわずかな青白い光の中、灯りのない部屋は痛いほどの静寂に満ちている。
 ベッドの紗布をそっと手でよけた。

 眠る女は、ひどく静かだ。怒らないし呆れない。作り笑いも浮かべない。
 そういえば、ちゃんと笑ったところを見たことがないのだと、今さらのように気づいた。
 苦々しさの強い苦笑。面倒くさそうなしかめ面。憮然としてこめかみを押さえる仕草。よく通る声は、打てば響くように言葉を返してくる。
 背中を向け、ベッドによりかかるように座り込んだ。

 押さえ込んでいた感情が、堰を切ったように喉を突き上げる。
 溢れそうになった嗚咽を飲むために唇を噛んだ。
 これを何と呼んだらいいのかわからない。後悔なのかもしれない。それとも、もっと違う何かか。
 意識せず、口からこぼれたのは、呼んだことのない彼女の名前だった。
 口にして初めて知った。痛みを訴えているのが、どこなのか。

「……寝すぎだろう。早く起きろ」

 すがるような思いだった。
 彼女が目を覚ましたらどうなるのか、それは分からない。けれど少なくとも、この途方に暮れるような不安からは開放される気がした。
 ふと、背後で衣擦れの音がした。
 ギルバートは思わず振り返る。
 呆れたような掠れ声が、ため息混じりに言った。

「……やっとお前呼ばわりをやめたと思ったら、今度は呼び捨てですか……」