*014

「というわけで、手を組みませんか?」

 にっこり笑顔で提案した私に、フィフィナ姫は心から嫌そうな顔を見せました。

 さて、新月祭当日です。
 長い祭りではないので、この夜が祭りの最高潮。街灯の火を落とされた城下では、あちこちに掲げられた無数のランタンが人々の祈りを託されて輝き、地上にもうひとつ星空を敷いたような美しさを見せていました。
 城でも本日は夜会が催されていますが、こちらはあまり変わり映えがありません。せいぜいホールの真ん中に、螺旋状の大掛かりなランタンがしつらえられているくらいで、やることは同じです。

 それでは面白くないと、ギーはあれやこれやと思いつきを片っぱしから提案したようなのですが、周囲にこぞって止められて断念したのだとか。
 ……まあ、無理もないと思います。城のホールで大鮪の解体ショーとか、一体誰が喜ぶんですか。結局城下でやったみたいですが。

 さておき、この夜会において、私にはひとつ目的がありました。
 一緒にいると色々とうるさそうなサキをリドに押し付け、遠目にも分かる優美な姫君を捕まえて、冒頭の言葉を口にしたわけですが――うん、予想通り。とっても嫌な顔をされましたね。

「一体なに? 今度は何を企んでいるのよ」
「いえ、あれから少し考えてみたんですけどね。あなた以上にあの王子の妃としてふさわしい人ってなかなかいないと思うんですよ。素は結構面白いですし、うまいこと作戦を立てれば落とせると思います。ので、この際あなたにつこうかなと。悪くない提案だと思うんですが、どうですか?」

 聞くにつれて頭痛を感じたのか、フィフィナ姫はほっそりした指で皺の寄った眉間を押さえました。
 そんな仕草は、猫を脱いでも可憐です。白と湖水色のふんわりしたドレスも清楚ながら華やかで、どこか儚げでたおやかな印象を引き立てていました。
 私も先日の赤いドレス姿ですが、やはり元が違う。彼女が持つのは、自然と目を惹く天性の麗質です。苦々しい声でさえ綺麗なのだから大したものです。

「……せっかくだけれど、わたしは敵に塩を贈られるつもりはないの」
「いや、素直にもらっておきましょうよ。最終的に目的を遂げた人間の勝ちですよ。自慢じゃないですがえげつない陰謀には自信があります」
「本当に自慢にならないわよ! だいたい、あなた……」

 ふと言葉を途切れさせ、フィフィナ姫が美しい眉をひそめました。
 その目に、徐々に理解の色が浮かびます。私はきょとんとして首を捻りました。

「あなた、まさか……」
「何ですか?」

 きゅっと唇を結び、姫君は私から視線を外しました。

「……結構よ。必要ないわ」
「まあそう言わないで。騙されたと思って乗りませんか?」
「しつこいわよ! いらないって言ってるじゃない!」

 言うが早いか、フィフィナ姫は踵を返して立ち去ろうとします。
 周囲に人目もありますから小声でのやりとりではありますが、大丈夫でしょうか。猫がかぶられていないのですが。
 しかし正直、ここまで拒まれてしまうとは思いませんでした。
 怒っていても優美な背中を追いながら、私は軽く肩をすくめました。

「本当に悪いようにはしませんよ。願ったり叶ったりだと思うんですが」
「そうだとしても、あなたの力は借りないわ」
「困った人ですね。頑固は損ですよ」
「……もうっ!」

 限度を超えたように、フィフィナ姫が柳眉を吊り上げて振り返りました。
 その清楚な美貌に浮かぶのは、強い苛立ち。
 彼女は春の空の瞳で、真っ直ぐに私を射抜きました。

「そんなに認めたくないの?」
「……は?」
「あなた、あの人に惹かれてるのよ。それを認めたくないからそんな理屈をくっつけてるだけだわ。それでわたしをあてがって、あなたは満足なの?」

 絶句する私に、彼女は透き通るような声で、私を糾弾しました。

「わたしを引き合いに出さないで。逃げ道に使わないで! 迷惑だわ!」
 何も言えないでいる私に背中を向け、フィフィナ姫は憤然と立ち去っていきます。
 引き止めることもできず、呆然とそれを見送りました。

 ――まさか。
 まさか、そんなはずが。

 心臓が、嫌な音を立て始めました。開いた背中が冷たい。顔がひどく、熱を持っています。
 口元を手で覆って、私は顔を伏せました。その指が震えていたことに、多分誰よりも、私自身が驚きました。
 とっさに否定できなかった時点で、無駄に回る頭はひどく無神経に、それを証明していきました。今まで無意識に理屈づけてきた感情が、不可解だった私自身の判断が、彼女の言葉通りのものなのだと。

 ――はずかしい。

 恥ずかしい。そのとおりです。この上なく図星です。
 用意のなかった心は何の警戒もなく、うかつにもそれを認めてしまいました。もう、嘘だ間違いだとあがくこともできません。

 こんないたたまれない感覚は、久しく記憶にありません。こんな失態も。おまけに自覚がなかっただなんて、もう本当に最悪です。ここまで自分を馬鹿じゃないかと思ったのは、生まれて初めてのことです。
 目の奥が熱を持ちます。唇を噛んで、その衝動をどうにかやり過ごそうとしますが、一度箍を外れた感情がなかなか過ぎ去ってくれません。

 私は、自分を冷静な人間だと思っていました。それがこんな、あっさり見破られるような愚かな真似をするなんて――策士の名が泣きます。一体、何をやっているんでしょう。

 ……も、もういいです。部屋に戻ろう。今はもう誰とも顔を合わせたくないです。むしろ合わせる顔がない! 帰ってベッドでごろごろ悶えますよ!

 心に決めて赤いドレスの裾を絡げ、大股で出口へ向かったところへ、一番聞きたくない声が私を呼び止めました。

「ちょっと待て。何で帰ってるんだ」

 声と同時に引かれた腕を、私は怒鳴りつけたい気分で振り払いました。

「ほいほい触らないでください。いいじゃないですか帰りたいんですよ」
「早いぞ。もうちょっと我慢しろ」
「断ります。もう部屋に戻って一人で思う存分のたうち回りたいので止めないでください」
「変わった趣味だな」
「ほっといてください!」
「まあ待て。いいからちょっと落ち着け」

 ギーは通りがかりの給仕からグラスを受け取り、無造作に私に握らせました。
 私は顔を上げないままそれを受け取り、オレンジ色のお酒を一息に飲み干しました。
 喉を通るアルコールはさして強いものでもなく、少しだけ混乱を宥めます。

 ……うん、少々、取り乱しすぎていた気がします。
 平静を装うことすらできないなんて、本当に私らしくないにもほどがある。泰然自若はどこに行ったんでしょう。

「で、どうした?」
「何でもないです。ないですが、ちょっと今あなたの顔を見たくないのでよそに行ってください」
「嫌だ」
「少しは譲ってくださいよ!」
「じゃあ顔上げろ」

 ぐっと言葉に詰まり、私はうつむいたまま唇を噛みました。

 ――私は。
 私は、嫌なんです。こういうのは本当に嫌なんです。愛だの恋だの、そんなものは必要としていない。夫たる人物に求めるのは利益と尊敬だけです。
 他人がそれを大切にするのは構わない、尊重します。だけど私には、そんなものは必要ない。

 ああもう、馬鹿げています。一体全体、何がどうなってこんなことに。
 黙り込んだまま答えない私に、ギーが私の手から空のグラスを取り上げました。
 近くに来ていた給仕がそれを受け取り、私ににこやかな声をかけてきます。

「紅茶のカクテルです。いかがですか?」
「……いただきます」

 この地方のお茶には鎮静作用があります。というより、単に口の中がカラカラなので、水分が欲しいだけなのですが。
 給仕はギーにもワインを勧めましたが、彼は意外なことにそれを断りました。

「飲まないんですか?」
「リドに止められた。飲むと際限なく飲むから」

 そうですかと生返事をしてグラスに口をつけ――瞬間、衝撃に目を瞠りました。
 心臓の奥で、形を持たない力が、ひとつ大きく鼓動を打ちます。
 一瞬で頭が冷えました。先程までぐだぐだと渦巻いていた感情が拭い去られ、慣れた感覚に思考の冴えが戻ります。
 放っておけば険しくなる顔を、とまどうことなく無表情に押し込めて、私は細く息を吐きました。

「……ギー、一番近い部屋へ案内してください」
「何だ?」
「いいから早く。緊急です」

 私の硬い声に、ギーは訝しがりながらもホールを出ました。
 衛兵が儀礼的に頭を下げましたが、応じる余裕もありません。
 控えの小部屋に私を通したギーは、扉を閉めて振り返りました。

「で? 何か面白い話――」

 ギーの言葉は、半ばで途切れました。
 視界が大きく揺らぎます。倒れかけたのだと気づいて、私は私を支えた腕に礼を言いました。
 立とうとしますが、足に力が入りません。そのままギーに体重を預け、苦い思いで目を伏せました。

「……驚いた。酔ったか?」
「いえ……毒です」

 ギーが息を飲む音が聞こえました。支えた腕が強ばります。
 体の中で蠢く力が、じわじわと染み込んでいきます。意識をどうにかつなぎとめ、額に手を当てながら声を絞り出しました。

「典医を」
「いりません。サキに、隠せと……あとは、彼女の、指示に……」

 安寧にも似た、白い闇の中に引き込まれる感覚。
 ギーの声を遠くに聞きながら、私は意識を手放しました。