*010
さて。嫌がらせは順調に積み重なっていきました。
強く口止めをした上で、わざと警備が緩くなるよう手を回したかいがあったというものです。
内容はとても由緒正しいものばかりです。食事に激辛のスパイスを混ぜこんだり、歩いているところに頭上から紙くずをまいたり、刃物入りの手紙を部屋にしのばせたり、動物の死骸を行く先に放置したり。どれも簡単に足がつきそうな辺り、やはり平和な国のお嬢さんがたが考えることです。
……ベッドを水浸しにされたときは、さすがに天を仰ぎましたが。ただでさえ、この国の王子殿下に引っ張りまわされて疲れ果てていましたので。
決定打になりそうなのは、神官衣が墨で真っ黒に汚された事件ですね。
あれは宗教的な意味を持つものなので、実はなかなかの大罪です。やろうと思う人間も少ないので、おそらく知らずにやってしまったのでしょうが。
さておき、計画はそろそろ仕上げの段階です。手札が揃えばこれ以上甘んじる必要はありません。
問題は、うっかり「一月は滞在する」なんて言ってしまったことです。さすがにフィフィナ姫を追い落とした後で、この国にのんびり居座るのは気が引けるのですが……あっさり帰国してしまえば、ギーが文句を言うのは目にみえています。
加えて、間近に迫った新月祭。神殿とは関係のない地域的な催しだとはいえ、私も宗教組織の一員として、祭事の重要性は理解しています。厄介ごとの話を詰めるのは、それが終わってからの方がいいでしょう。
そんな結論を出してギーの元を訪れると、予想外の渋面に出くわしました。
「なんですかその顔。仕事でも入りました?」
「近い。ガルグリッドからフィフィナ姫を城下に連れて行くように言われた」
先約があると断ったんだがと、ギーはいかにも不満げに足を組みます。行儀の悪さに侍従が咳払いをしますが、さっぱり反応しない主の態度にがっくりとうなだれました。
「どうする。ごねようと思えばごねられなくはないぞ」
「得策ではないですね。私は構いませんから、くれぐれも危険のないよう案内して下さい」
「わかった」
頷くわりに表情がつりあっていません。
少々不思議に思って、訊ねてみました。
「本当に嫌そうですね……わからないんですが、そんなに彼女を嫌う要素がありますか?」
「別に嫌いじゃない。苦手なだけだ」
「ですから、どこが」
「作り物っぽいだろう、全体的に。貴族は大体あの感じだが、あれは徹底しすぎで苦手だ」
「……根拠があることはわかりましたけど、王族としてどうなんですかそれは……」
頭痛がします。彼が王位を継いだら、ラクイラは下手をすると優秀な人材の草刈場になるかもしません。
ただ同時に、そうはならないだろうという妙な確信もあったのですが。
私は息を吐き、礼を失していると承知の上でギーをびしりと指差しました。
「いいですか、彼女は王族です。そして王族というものは大なり小なり外交を担います。当然言動に注意を払わなければならないし愛想笑いもしないといけないんです。それをしないあなたが型破りなんです。わかったらとにかく彼女とまともに会話をしてください」
「会話はしてるぞ」
「わかりました言い直します。相手の話をあさっての方向に打ち返すなって言ってるんですよ」
ギーは気のない様子で応じました。
敵に塩を送る行為ではありますが、こちらは既に詰み終えているのです。このくらいは構わないでしょう。
むしろ問題はギーです。苦手だからといつまでも逃げ続けられるものでもないでしょうに。
これ以上説教に時間を費やすのも本意ではありません。胃痛を堪えている従者にギーの手綱を任せ、無理ですという悲鳴を聞き流して、迎賓館へ取って返しました。
部屋に足を踏み入れるのと同時、聞き慣れた高い声が空気を震わせます。
「あ……あなたに言われたくなくってよー!」
頑丈なオーク製の机が、両手を叩きつけられて音を上げます。
何事かと足を止めると、サキがあわてたように振り返りました。
「あ、あら、アヤリ様。お早いお帰りでしたわね」
喧嘩の真っ最中といった印象でしたが、室内には喧嘩の相手が見当りません。
卓上に置かれた黒い板に気づき、思わず苦笑しました。
「サキ。転写板で喧嘩しないでください」
「だってアヤリ様! ただでさえ小憎たらしいのに文章だけでも有り余るほど小憎たらしいってあの男っ! 一体何なんですの!?」
憤懣やるかたない様子で、サキはべしべしと机を叩きました。
やはり、相手は留守役の侍従だったようです。私の侍従二人が犬猿の仲であることは神殿内でも有名で、随行の女官たちも苦笑するばかりで止めようとしません。
転写板は長距離間交信に使われる道具です。記述内容を信号分解して対となる板に送る魔法で、ほぼ時間誤差のない通信が可能ですが――猛然と筆談で喧嘩する侍従二人を想像すると、なんとも笑いを誘う光景です。
ともあれギーの件を話し、サキにお茶を頼んで話を切り出しました。
「レキからの報告は何でした?」
「ユークス会談の件ですわ。アヤリ様のご推察どおりだったようです」
「……ああ……なるほど、そうですか」
会談ではギアノ交易についての取り決めも行われました。結論としては、三者いずれとも歴史的な確執がないラクイラの新興商会が選ばれましたが、途中で妙な横槍が入ったので、裏を取らせていたのです。案の定、贈賄を受け取っていた人間がいました。
第二神官長イコウ卿。神殿を体現するかのような、有能で強欲な人物です。
ただ、そろそろその強欲ぶりが目に余るところ。かなりの高齢でもあるので、これは契機になるかもしれません。
リスを思わせる小柄な姿を脳裏に浮かべながら、いくつかの指示を出すと、すべてを聞き終えたサキが苦々しい声で報告しました。
「ところで……アヤリ様、城下で噂になっておりますわ」
「私と王子の縁談ですか?」
「ええ。知らぬ者はいない程度に広まっているようですわね」
「……ふむ。やりますね」
とりあえず内密にという話にはしていたものの、人の口に戸は立てられぬもの。しかしこれだけスムーズに噂を流せるとなると、何者かの恣意を感じます。
まあ、まず間違いなくガルグリッド卿でしょう。
私がギーを皇配に選べば、ラクイラは王子を奪われかねないわけです。民の反発を買うのは避けられません。ましてや、その反発を煽るために噂を流されたのならなおさらです。
ガルグリッド卿の目的は、おそらく、神殿側にこの噂を否定させること。
私がこのまま帰国したとしても、縁談がまとまらなかったことを明言しない限り、ギーはそれを口実に、しばらくの間はフィフィナ姫との縁談を断ることができます。
ガルグリッド卿としてはそうなっては困るわけですから、妨害するのは当然でしょう。私が能動的に動くことは想定していないのかもしれません。
さて、どう対抗しましょうか。
打っておいた布石のいくつかを取り比べていると、サキがなんとも言えない複雑な顔をみせました。
「いえ、ご報告だけですのよ。特に何かご対応なさることはないかと思いますわ」
「それはまた、なぜです?」
「実は――」
サキの話したところによると、噂に対する民衆の反応は、だいたいこんな感じなのだそうです。
「おい、聞いたか? なんでも殿下が皇配になるかもしれないんだとさ」
「なんだそりゃ! 殿下がご結婚なさるってことか?」
「っていうか、星下の御夫君になるのか? あの殿下が?」
そこで人々は顔を見合わせ――爆笑するのだそうです。思い切り。
「ねぇよ! ありえねぇ! お天道様が西から昇るくらいありえねぇ!」
「ビゲンの親方が酒やめるくらいねぇ!」
「いやいや、ホノリ坊がニーナ嬢を落とすくらいないね!」
そんな具合で、さっぱり本気にされません。
しかし、中にはそれでも不安を覚える人もいます。
「でも、万一だぞ、星下が殿下を気に入ったらどうする?」
「神殿の狸爺どもが何かしてくるかもしれないしな。やばいんじゃないか?」
「なあに、殿下だぞ。心配いるか!」
「いざとなったらウチには獅子王陛下がいらっしゃるしな! 海賊も追っ払ってくれたんだ、神殿がナンボのもんだ!」
一連の話を聞いて、私はしばし黙り込んでしまいました。
「……これ、人徳と呼んでいいんでしょうか……」
「違うもののように思いますわ」
何と言うのか、どこまでも斜め上を行く人です。
けれど何となく、想像がついてしまう反応でもありました。
ギーが祖国を捨てるようなことはありえないと、民は信じているのでしょう。それはもう、確信に近い強さで。
もちろん獅子王とて〈神后〉により封じられた王です。神殿が正式に決定を下せば事態は厄介なものとなるでしょうが、権威に無頓着なギーはあっさり話を蹴りそうです。
でも神殿と海賊を同列に並べるのはどうかと思うんですよ……権威も何もあったものではありません。
大雑把なのはラクイラの国民性だろうかと、私は遠い空を見上げてため息を吐きました。
その一時間ほど後、大雑把代表のラクイラ王子は、気配り上手代表のフォーリの姫君を高台の展望台へ案内していた。
アヤリを伴ったときと違い護衛つきだったので、気軽に声を掛けられることこそなかったが、年上の友人たちのにやにやした顔までは変わらない。
そんな中、フィフィナは実に如才なく立ち回ってみせた。些細な質問も、その返答に対する反応も、笑い方も、すべてが上品ながら気さくで、彼女に接した人間は一様に好感を覚えたようだ。
「で、どっちが本命だ?」という人々の目にいい加減うんざりし始めた頃、姫君がテラスで休みたいと口にした。助け舟かとフィフィナを見れば、小首を傾げた笑顔が返った。
吹き抜ける風はやわらかく快い。海面が光を弾いて、ちらちらと目をさした。
可憐な仕草で紅茶を楽しんでいたフィフィナが、ふと笑い声をこぼした。
ギルバートは頬杖をついて海を眺めていた姿勢のまま、視線だけを投げた。先ほどから必死にそれをやめるよう合図を送るリドが見えていないわけではないが、見えていないことにする。
「何だ?」
「いいえ。ふてくされていらっしゃるわ、と思って」
予想外の言葉だった。
「フォーリの姫君」ではなく、「フィフィナ」と初めて言葉を交わしたような気分で、ギルバートは軽く目を瞠る。
フィフィナはいたずらっぽく笑ってみせた。
「ごめんなさい。どうしても構って貰いたかったから、ちょうどよくて。断れなかったの」
「断らなかったの間違いか?」
「ふふ、そうね。だってあなた、星下に構いきりなのだもの。ちょっとした嫉妬くらい許してくれないかしら」
それがどこまで真実なのかギルバートにはわからない。少し顔を見せた本音がまた首を引っ込めた印象だ。
完全に嘘だとは思わない。
だが、フィフィナの言葉や振る舞いは、どうしても違和感が肌を撫でるのだ。
何しろ彼女は実に完璧だ。その美しさも、耳に心地よい声も、人当たりの良い笑顔も、聡明さも。いい王妃になるだろうというアヤリの言葉には同意できる。だが、一生付き合っていく相手と腹の探り合いをするのは、ギルバートには無理だ。
つっけんどんな言葉を返しそうになって、会話をしろというアヤリの指図を思い出した。
「……別に嫉妬されるような話じゃないが」
何か反応をと思って出した言葉は、明らかに墓穴だった。
すっかり忘れていたが、アヤリも縁談相手だったのだ。それを抜きにして単純に楽しんでいたので、うっかり本音が出た。
「あら、そうかしら」
「いちいち反応が面白いとは思う。案外義理堅いしな」
いまさら上手くごまかすことも出来そうにない。そのまま本音で押し通した。
考えてみれば、どちらにしても政略結婚だ。別に好意をアピールしなくても構わないだろう。
大した事を言ったつもりはなかったが、フィフィナからほんの僅かな間、笑顔が消えた。
「どうした?」
「あ……いえ、なんでもないの。……そうね、星下はとても、誠実な方だわ」
あれは誠実という種類のものなのだろうか。その単語の品行方正ぶりに据わりの悪さを覚えていると、フィフィナが取り繕ったような笑みを乗せて顔を上げた。
「でも、今日はわたしに付き合ってくれなくちゃ。市場で買い物がしたいわ。それから港に行くの。ちょうど日が沈む頃がいいわ」
「精力的だな」
「折角だもの、楽しみたいわ。……付き合ってくださるかしら、王子様?」
有無を言わせないような言葉でいて、それはどこか、懇願の響きを持っていた。
その完璧な笑顔に隠された感情は、やはり、ギルバートにはわからなかった。