*008
強い潮の匂い。高く青い空を白い鳥が飛び交い、独特な鳴き声を響かせています。
港についた船は大きさの順に規則正しく並び、屈強な船員が次々に荷を降ろして行きます。運び込まれるのは商会の倉庫ですが、すぐに売り出すことはできません。ラクイラには独自の通関があり、通関士の検査と申告を受けなければ流通に乗せることができないのです。
手間ではあるものの、徴税と保安には確実性の高いシステム。なかなかよくできていて面白いです。
さて。本日私とギーは、ここリッダ・ラクイラ港を訪れています。
いわゆる、お忍びデートというやつです。おそらく。ええ、名目上は。
――お相手が到着早々どっか行きましたけどね! 知り合いに呼ばれたからってあっさり置いてくのはどうなんですか!
思わず腹を立てそうになりましたが、そこは深呼吸です。もうこっちも好きにしようということで、こうして通関の現場を案内してもらったわけなのですが。とりあえず思ったより面白かったので良しとします。
「……とまあ、大体こんなところかな」
案内を請け負ってくれたトレンティン商会の青年が、倉庫をぐるりと見渡して言いました。
彼はまたしてもというか、ギーの友人なのだそうです。……本当に、あの王子は一体どれだけいろいろな場所をうろついているんでしょう。これでお忍びは四回目ですが、行く先々に知り合いがいるんですけど。
「そうだ、なんだったら帳簿も見ていくかい?」
「いえ。査察じゃないんですから結構ですよ」
「あれ、興味がありそうに思ったんだけど。何せ神殿の神官どのだ」
おかしげに喉で笑う様子は、含みこそあるものの嫌味はありません。
とりあえずお忍びということで、私は偽名で紹介を受けています。私の容姿は印象に残るようなものではないので、神官衣を脱いで髪を下ろしてしまえば、まず気づかれません。
とはいえ、神都から来た神官というだけで警戒はされるもの。
彼の打ち解けた態度は、商人にしては少し不思議な気もします。
「それにしても遅いな、ギーの奴。そろそろ戻ってもいい頃なんだけど」
「諦めましょう。そのうち戻ってきますよ」
ぶっと吹き出して笑い声を押し殺し、彼は肩を震わせながら私を見ました。
「……話を聞いたときはどうなることかと思ったけど。うまくやってるみたいでよかったよ」
「ああ、事情を聞いているんですか?」
「大体のところは」
彼は、笑いをかみ殺しながらうなずきました。
なるほど、道理で友好的なはずです。納得すると同時に、いったいどんな説明をしたのか気になりました。
「意外ですね。フォーリの姫君を迎え入れるほうが、商会としては得になるのでは?」
「われらが王子殿下がそれほど器用ならね。フィフィナ姫と結婚したあとで、他の女と運命の恋に落ちたりした日には、目も当てられないだろう?」
思わず返答に詰まりました。
ちょっと想像がつきません。あの王子に恋愛感情なんてものが存在するのでしょうか。
まあ、あの脈絡のなさが幼さなのだとすれば、もしかしたらそのうち大人に……なるのかもしれません。なるんでしょうか。
「王家に不和を抱え込むよりは、わがままを通してもらったほうがいいってことで。……できれば、幸せになってもらいたいしな」
青年は穏やかに目を細めました。
本当に、不思議に思います。どうして彼はここまで愛されているんでしょう。確かに憎めないところはありますし、悪気のない子供のような無邪気さは人の苦笑を誘うもの。けれど、それは施政者として有能さとは異なります。なんだか釈然としません。
私にはないものを、彼が持っているからでしょうか。
「それに、ああ見えてちゃんとリーダーやってるんだよ。頓挫してた高速艇の建造計画なんて、中心になって再編して――」
「面白そうだから首を突っ込んだ、の間違いじゃないですか」
「ははは。でも、皆、そういうギーだから巻き込まれちゃうんだよね。なんだか面白そうだ、って気にさせてくれるんだ。それって、誰にでもできることじゃないよ」
なるほど。何かを始めるという観点からは、確かに大きな推進力を持った人物というのは重要です。
しかしどうにも受け入れがたいのは、私が彼のことを過小評価しているということなのでしょうか。なんとなく釈然としません。
眉根を寄せて考え込んでいると、当事者であるギーがようやく姿を見せました。
……あれ、何か全体的に汚れてませんか。何してきたんですか。
「なんだ、こんなところにいたのか。探したぞ」
「脇目も振らず置いていったのは誰でしょうね!」
「いいから来い、ちょっと来い。面白いものがある」
「だから引っ張るなと……! ちょ、転びますってば! 逃げませんよ!」
騒ぐ私たちの後ろを、楽しそうに笑いながら青年がついてきます。
止めてくださいと振り返ろうとしたところにギーの腕を見て、私はぎょっと足を止めました。
「ちょっと、怪我してるじゃないですか」
「ん?」
私の腕を掴んだまま、ギーは確かめるように左腕を上げました。
血が滲んだ見事な擦り傷が、肘から先の半分を覆っています。見るからに痛そうだというのに、忘れていたのでしょうか。
「気にするな、怪我のうちに入らん」
「どう見ても怪我ですよ。手当てくらいしてください。仮にもあなた王子でしょう」
あからさまに面倒がっていたギーが、ふと目を輝かせました。
「神殿なら怪我を治す魔法くらい作ってそうだな。何かないか、ぱぱっと治るような奴」
「あるわけがないでしょう。医療用の術式なら止血やら接合やらありますけど、手術でも受けたいんですか」
それも単なる物理的な治療用具です。病気にしろ怪我にしろ、破損した細胞を一瞬で再生させるような魔法は存在しません。
「なんだ、つまらん。できないことだらけだな。ちゃんと仕事してるのか、魔法関係の総元締めのくせに」
「してますよ! 長距離転移の所要時間がもうすぐ短縮されますからね!」
「使うのは一部の人間だけだろう」
再び反論を飲み込まされることになって、私は思い切り顔をしかめました。
長距離転移の改良は、ギアノ発見の目玉といっていい、大きな技術的進歩です。
ですが確かに、現状ではその恩恵を受ける人間は限られています。医療技術の発展のほうが、より多くの人々の利益となることは否定できません。
とはいえ、もちろん神殿の魔法技術室がこれだけに傾倒してきたわけではありません。何かなかったかと開発中の医療技術系の術式の記憶をあさっているうちに、ずるずるとギーに引っ張られていきました。
「それよりもっと面白い話が聞きたい。音声保存とか空中移動とか」
「研究はされていたと思いますけど……」
「船を浮かせてみたい」
「それに何の意味が」
きっと面白いというだけなのでしょう。そうに違いありません。
私はこめかみを押さえ、諦め混じりに訪ねました。
「で、どこに向かっているんですか」
「蛸だ」
「……は?」
ぽかんとして、私はギーを見上げました。その様子は、目に見えて満足げです。
「化け物レベルの大蛸だ。すごいぞ。かなりてこずったらしい。陸に上ってもまだ暴れていたしな」
「はぁ……ええと、まさか戦ってたりしましたか?」
「ああ。一人アバラを折られた」
音を立てて、血の気が引いていくのがわかりました。あわてて足に力を入れて抵抗します。
「まさかそこに連れて行く気ですか!? 嫌ですよ!」
「心配するな。もう捕縛されている」
「捕縛を振り切って暴れたんじゃないんですか!?」
「よくわかったな」
「あっさり肯定しないで下さい! 嫌ですってば! 本気で!」
「大丈夫だ。多分」
「安心のかけらもないですよ、それ……!」
「頑張って安心しろ」
「何をどう頑張れと!」
半ば諦めながらも言わずにはいられません。
声を張り上げた私に、彼はまったく構いつけていなかったのですが。
そんなこんなでなんとか無事に大蛸と対面を終え、ぐったりして帰ってきた私を、サキは心底心配そうな顔で迎えました。
彼女には無理を言って別の仕事を頼んでいましたので、正確には、私がそちらに足を運んだのですが。
「お疲れですわね。すぐに湯の用意をいたしますわ」
「いや……うん、ありがとうございます。ちょっともう夕食はいいので寝たいです……」
「アヤリ様、少しでもお召し上がりになったほうがよろしいですわ。軽いものをお部屋に運びますから」
心配そうに翳った顔は、美人だけに見ごたえのあるものです。すれ違う武官が足を止めて見惚れていました。
気の強そうな女性がこんな表情を見せたら、それは男性はたまらないでしょう。
――そういえば私に恋がどうのと言っていましたが、彼女はどうなんでしょうか。
ふらふらしながら迎賓館にたどり着き、豪奢な細工の扉を開けて、サキが硬直しました。
「なっ……なんですの、これは!!」
甲高い声は疲れた頭に響きます。思わず耳を押さえてしまいました。
部屋の中では、なにやら黒と緑の迷彩色の物体が、のったりべったり跳ねています。
よくよく見れば、それは大人の掌ほどの大きさがあるカエルでした。
なかなか壮観です。白を基調とした豪奢な調度品も、足首が埋まるほど毛足の長いラグも、ついでにきれいに整えられたベッドも、見事なくらいに満遍なくカエルが闊歩しているわけですから。そうは見られない光景です。
「ああ、ようやく仕掛けてきましたか。それにしてもすごいですね」
「アヤリ様! そのように暢気になさっている場合ではございませんわ!」
「いいんですよ。目論見どおりですから」
サキが驚いて目を丸くします。
私は呼び鈴を鳴らし、女官を呼びました。訪れたのはそれなりに年を重ねた女性でしたが、さすがに驚いて悲鳴を上げかけます。私は苦笑して告げました。
「すみません、片付けをお願いできますか? ああ、内密にしてくださいね。騒ぎにするのは面倒です」
「アヤリ様!」
「で……ですが……」
女官は蒼白な顔で、苦笑する私と激昂するサキを見比べました。
国賓の担当になっているくらいですから、相応の位のある立場なのでしょう。部屋を守ることができなかったということで、彼女の責任にもなりかねません。
「他言無用です。いいですね?」
「……はい。かしこまりました」
唇を噛んで、彼女は優雅さを損なわない程度にあわただしく一礼しました。
急いで部屋を後にする女官を見送り、サキは柳眉を逆立てて私を見据えます。
「なぜですの? 今すぐに犯人を取ッ捕まえて打ち首にしてやるべきですわ!」
「……打ち首という刑は皇国の法にはなかったような気がしますが……」
「そのくらい怒っているんです! ええもう怒り狂っていますわよ!」
地団太を踏むサキがカエルを踏みつけてしまわないかとちょっと心配しながら、私はカエルをどけて椅子に腰をおろしました。
やっぱり相当疲れていたようで、そのまま根が生えそうな錯覚を起こします。
「サキ。こういう安易な嫌がらせをする人間として、挙げられるのは誰ですか?」
サキは眉をひそめ、口元に手を当てました。
「……ラクイラという限定がつくなら……あの小娘どもですかしら」
「そう。フィフィナ姫ではないでしょうね」
いくら私が恋敵とはいえ、彼女はそんな手段には出ないでしょう。あの聡明な姫君は、それが引き起こす結果をよくわかっているからです。
けれど、彼女の支持者もそうとは限りません。彼女が強く人を惹けば惹くほど、取り巻きのご令嬢がたを統率するのは難しくなります。中には愚かにも、私を排除しようと実力行使に出る人間もいるでしょう。
腹の上で指を組み合わせ、私は目を伏せて笑いました。
「フィフィナ姫のためと〈星〉を害した人間がいれば、累は彼女にも及びます。そうなれば、さすがにラクイラとフォーリの縁談もなくなりますね」
「……御身を餌になさいますの?」
サキが文句をつけるのがやり方のせこさではなかったので、私は思わず笑ってしまいました。
まったく、つくづく彼女は私に甘いですね。むしろその謀略を買ってくれているのかもしれませんが。
ことを公にする気はありません。ただ、秘密裏に事実を残すだけ。そしてそれは、フォーリの目論見を打ち砕くだけの力を持つことが必要です。
目を伏せたまま、私は笑みを深めました。
「いいことを教えてあげます、サキ。――掴んだ弱みは、ある程度大きくなるまで育ててから使うものなんですよ」