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「おう、ギー! 今日はマテルのいいのが入ってるぞ!」
「もうすぐパンが焼けるよ。食べておいで!」
「なんだ女の子連れて。おまえの女か?」

 案の定と言うか、脱走常習犯なのでしょう。
 城下に降りてきて市場にたどりついてそうそう、この王子様はあちらこちらから声を掛けられては引きとめられていました。
 大体「これ食っていけ」、「もっと顔見せろ」、「その子は誰」の三つです。
 最後の一つはその後に、恋人かという疑問がついてきました。見合い相手ですから微妙にかすっているのだけれど、なんだか無性に腹立たしいのはなぜでしょう。
 憮然と黙り込んだ私に気付かず、彼は笑いながら答えました。

「違うぞ。神都からの客だ」
「へえ、あの都の子かい。じゃあしっかり食ってってもらいなよ! なにせ旨いもんの多さじゃ、ラクイラにかなう国はないからな!」

 気心の知れきったやりとりに頭痛を覚えます。どれだけ顔が広いんでしょう。
 そして何より問題なのは、会う人々がことごとく、彼がこの国の王子だということを分かっている様子だということです。もはやお忍びでも何でもありません。その上で親しげに話をしているのだから、この国の平和度合いは本当に、相当なものです。
 護衛も大変ですね。多分どこかに控えていると思うのですが、これほど暗殺しやすい人も少ないでしょう。……大丈夫なんでしょうか。ヒッティス辺りに攻め込まれたら、ひとたまりもなさそうな気がします。
 要人としての身は私も同じですが、私の場合は事情が特殊です。立場がありますから普段はふらふら出歩いたりはしませんが、たとえ刺客に襲われたとしても、命の危険というものは基本的に心配ありません。

 ちなみに、今の私は神官衣ではなく、サキが用意した略服です。薄茶に赤い刺繍の外套は華美すぎず落ち着く地味さ加減で、彼女の趣味と私の趣味に折り合いをつけた意匠のものです。
 そのサキですが、「ちょっとお忍びで出かけてきます」と伝えたところ、ぱあっと音がするくらいに表情を輝かせたのですが、連れがギルバート王子だとわかるとこれでもかというほど嫌そうな顔に変わりました。あいかわらずわかりやすい人です。……見合いに来て見合い相手以外と親しくしていたら、そっちの方が問題だと思うのですが。

 連れられるがままに港近くの市場に足を運んだ私は、「そこだ」と指し示された店に目を丸くしました。
 大きな屋根の下に机と椅子が並んでいるだけ。吹きさらしで、ほぼ野外です。
 たくさんの人で混みあっていましたが、ギーは慣れた様子ですり抜けて空席を確保しました。
 あっけに取られて周囲を見回していた私に、料理を買ってきたギーが笑いながら皿を差し出しました。

「ほら、驚いてないで食え」
「驚きますよ……ありがとうございま、す……?」

 目の前に置かれた皿に、私は再び固まりました。
 焼かれた魚が、一匹、どんと鎮座しています。申し訳ばかり小さなレモンが転がっていますが、付け合せも何もありません。本当にそれだけです。
 ――正直に言いましょう。私、魚の姿のままの魚料理を食べるのは、初めてです。
 おまけにナイフもフォークもありません。どうやって食べたらいいのか途方にくれてギーを見上げると、彼は魚を貫いた串を手に、そのまま豪快にかぶりついていました。
 ……なんだか色々、衝撃が大きすぎます。王妃はとってもマトモそうな人に見えましたから、多分この人が規格外なんでしょう。そう思いたいです。でなければ帰りたい気分が三割増です。

「なんだ、食わないのか?」
「……大体どうやって食べるものなのかは理解できたんですが、ちょっとさすがに抵抗が……」
「こうやって食うのがうまいんだがな」

 などと言いながらも、ギーはナイフとフォークを貰ってきてくれました。
 その際、おかみさんらしき恰幅のいい女性に、「もうちょっと気を利かせな!」と背中を叩かれていました。もっと言ってやってください。

 彼は、確かに見た目だけなら上等です。端正な顔立ちと、鍛えられたしなやかな身体。特に父親譲りの黄金の瞳は、人を惹きつける強さを持っています。
 が、決定的に気が回りません。これでは神都に来ても、ご令嬢たちにはあまり受けがよろしくないと思われます。駆け引きも絶対苦手でしょうし。
 戻ってきたギーは、肩をすくめて私に食器と苦情を向けました。

「ほら。お前のせいで怒られたぞ」
「どう考えても自業自得ですよ。年長者の言うことは素直に聞いたらどうです」

 私はため息混じりに返しましたが――切り分けた魚を口に運んだとたん、それまで渦巻いていたモヤモヤがしぼんでしまいました。
 歯ごたえのいい白身はさらりとした油をたっぷりと含んでいて、塩と香辛料だけのシンプルな味付けが、素材そのものの旨味を存分に引き出しています。
 思わず黙り込んでしまった私に、ギーは自慢げに笑いました。

「どうだ、旨いだろう」
「……どうしてあなたが威張るんですか」
「俺の国だからな」
「まだあなたの国じゃないと思いますよ」

 ぽんぽんと勢いで返しましたが、負け惜しみだという自覚はあります。
 これは、確かに宮廷料理では出せないものでしょう。なんだか久しぶりに、食事をおいしいと思った気がします。
 かなり強引に連れてこられましたが、少しくらいは大目に見てもいい気がしてきました。

「いつもこんなふうに抜け出してるんですか? ……まあ、訊くまでもない気がしますが」
「城に篭もってるより面白い」
「怒られますよ。あちこち迷惑かけてるでしょう」
「今日は撒いてないぞ? お前もいるしな」

 そう言って、人込みの向こうを指差します。
 おそらくその辺りに護衛官がいるのでしょう。今日は、という限定が気になりますが、多少は私に気を使っているようです。あいかわらずお前呼ばわりですが。
 私が倍以上の時間をかけて魚を食べ終えると、麦酒を飲んでいたギーが席を立ちました。

「よし、次はパンだな。そのあと甘いものだ」
「って、まだ回るんですか!」
「当たり前だ。魚一匹で腹が膨れるか」
「……大人しく城で食べるという選択肢はないんですか、あなた……」
「メアリのパンは旨いぞ。しかもそろそろ焼き立てだ」
「う」

 正直、ちょっと食べたいと思ってしまいました。
 その隙を逃すわけもなく、ギーは私の腕を掴んで店を出ました。

「パンを買ったら港に出るか。この時間帯はいいぞ、帰港する船でごちゃごちゃして面白い」
「ごちゃごちゃ……もうちょっと表現を選びましょうよ」

 ラクイラの港は、その郷愁を呼ぶ美しさで有名です。褒めているんだか貶しているんだかわからない表現に注文をつけると、彼はきょとんとして振り返りました。

「だめか? ごちゃごちゃ」
「いまいちだと思います」
「あの感じがいいんだろう。難しい奴だな」

 ――私が難しいんじゃなくてあなたが変なんですよ! そんな言葉で観光客や芸術家を引っ張れますか!

 内心で叫びますが、とっさに出てきませんでした。私としたことが。
 難しい人間だという自覚はありますが、こんなに真正面から言ってくる人なんて今までいませんでした。せめてもう少し回りくどく言っていただきたいです。
 私がむすっと黙り込んだのにも気付かずに、ギーは私の一歩先を歩いていきます。
 なんだか落ち着きません。人が前を歩いているという状況に慣れていないからでしょうか。
 ここで足を止めても、彼は気付かないかも知れません。
 そんな空想を遊ばせたとき、悲鳴めいた声が夕暮れの天を突きました。

「ギー! やっと見つけましたよ! 何やってるんですかああああ!!」

 涙声に振り返ると、いたく地味な男性が、両膝に手をついて息を荒らげていました。
 おそらく従者であろう男性を見て、ギーはけろりと返しました。

「なんだ、早かったな」
「早かったなじゃありませんよ! むしろ遅いですよ警戒してたのに! ウォル、お前もちゃんとお止めしろ!」

 大声に応じて、灰色の髪の護衛官が姿を見せました。
 人にまぎれるような服装と、どこかぼんやりしたような目は、言われないと武官とは気付けません。体格は役割に応じて立派なものですが、港町ですからそこいらに筋肉質な男性は溢れていますしね。お忍びの護衛には最適なのでしょう。
 ぎゃいぎゃいと護衛に噛み付く従者に、ギーは他人事のように言いました。

「そう怒ってやるな、リド。撒かれるよりはいいと思ったんだろう」
「あなたが言わないで下さいッ! 大体ですね、神殿関係者を連れ回すなんて無用心にもほどがありますよ! 万一何かあったら――」

 そこで私の顔を見て、彼は見事なまでに氷像と化しました。
 怒りで赤くなっていた顔から、さあっと血の気が引いていきます。

「……な、なっ……なん……!」
「お迎えご苦労様です」

 私はにこやかに笑い、彼に近づきました。
 そのまま低い声でささやきます。


「……余計な事は言わない方が賢明ですよ。私はただの神官。それでいいんじゃないですか?」
「で、ででですが!」
「ああほら、ばらしたら罰しなきゃいけなくなりますよ?」

 彼はあわてて両手で口を塞ぎました。
 まったくもって冗談じゃありません。ここでばらされたら、明日の楽しみがなくなってしまうじゃないですか。
 願わくは主犯もこれくらい動揺してくれれば嬉しいです。あれこれ無礼を働かれたのも不問に付します。

 にっこりと笑みを深め、私は言いました。

「沈黙なさい。そうしたら見逃します」

 何と言っても皇国において、私は猊下に次ぐ地位にあるのです。それを連れ回したとなれば、彼の主人もただではすみません。
 脅しつける笑顔にそれを察したのか、彼は両手で口を覆ったまま、蒼白な顔でこくこくと肯きました。

「何だ、こそこそと」
「あなたの悪行を言いつけていたんですよ」
「なんだと。むしろ褒め称えろ」
「ギギギギ、ギー! やめてくださいお願いですから! ほら帰りますよ、早く!」

 ぐいぐいと従者に背中を押され、ギーは憮然とこぼしました。

「なんだ、つまらん。また今度食いに行くか」
「行くならせめて一人で行ってくださいッ!!」
 反射で怒鳴り返した従者の言葉は、半ば本気で泣き声になっていました。