*001

「アヤリ。そなた、ラクイラに行って見合いをしておいで」

 玉座の上から投げかけられた言葉に、私は目を瞬きました。
 けだるげに肘をついてこちらを見下ろすのは、絶世の美女と名高い当代の〈神后〉、ツクヨ猊下です。
 皇国クレオンブロトスの統治者であり、私の母でもある方なのですが、その美貌は年を経るごとに威を増すばかり。西の美女と名高いボトリー王妃のような年齢不詳の妖しさとは趣が異なるものの、負けずとも劣らずといったところです。主に、得体のしれなさという点で。
 
 ともあれ、今は私の話です。
 私は目を丸くしたまま、猊下におたずねしました。
 
猊下げいか、隠し子でもお持ちでしたか?」
「……参考までに聞くが、どんな発想でその発言になった」
「いえ、てっきり私が位を継ぐものだと思っていましたので。状勢を考えれば皇配こうはいは諸国の王侯より神殿内の人間から選ぶのが望ましいかと思いますし、これは私を嫁にやっていい状況になったのだろうかと」

 つらつらと正直に答えたところ、猊下は面倒そうに黒曜石の目を伏せられました。
 長い睫が美しい貌に影を落とします。
 上質の絹のような光沢をもつ黒髪、滑らかな白い肌。色合いだけなら私も同じものを授かっているわけですが、纏う人間が異なるだけでこうも違うものです。どこから出てくるんでしょう、この色気。私が子供扱いされてしまうのもむべなることだと思うのです。
 猊下の少女時代はどうだったのかなどと考えてはいけません。比べるだけ無駄なので。

「いらぬ気を回しすぎだ。父が聞けば泣くぞ」
「あ、そうですね。父上にはどうぞご内密に」

 ぷっくりした頬を滂沱の涙で濡らす父の顔が想像できたので、私は素直に非を認めました。
 わが父ながら、海千山千の狐と狸の巣窟である神殿で生き抜くにはあまりにも朴訥とした方です。もっとも猊下はそこをお気に召されたそうなので、つくづく人生というものは何がどう転ぶかわからないものですが。

 しかし本音を言ってしまうと、ちょっとわくわくしてしまったのは秘密です。これまで政敵こそあれど、私の地位を脅かすものは存在しなかったわけですから。継承争いになるなら面白そうだなと思ってしまいました。さすがに、こちらは口にいたしませんが。

「それで、猊下。どのようなご貴慮でしょう?」

 ラクイラは周辺国こそきなくさい感じですが、ほどよく豊かでほどよく平穏な国です。
 つまり、取るに足らない相手だということでもあります。姻戚とするメリットらしきものは特に見当たりません。
 私が首をひねっていると、猊下の侍従が銀の盆をスッと差し出しました。猊下は優雅な手つきでそこから書状を摘み上げます。

「ラクイラの王妃が泣きついてきた。ちょうどそなたを南方にやるところだからな。ついでになら片付けてやらぬでもない」
「……ああ、なるほど……」

 思わず納得してしまいます。父と似たような、人の良さがにじみ出た王妃の顔を脳裏に描きました。要はくだんの王妃、猊下のお気に入りなのです。
 受け取った書状からは、かすかに花の香が感じられました。
 穏やかに時候の挨拶から始まったその書状を掻い摘んで説明すると、要は、愛息子であるギルバート王子が、隣国から意に添わない縁談を組まされそうになっているとのことでした。
 ……どうなんでしょう、これ。
 意に添わないも何もないと思うのですが。国にとって益があるなら受ければいいでしょうし、そうでないなら断ればいいだけのことです。こういうのを平和ボケというんでしょうか。
 まあ、ボケていられるほど平和だというのは、ある意味いいことなのかもしれません。
 
「何も正式な席を設けるでもないからな。気に入らねば何も答えず戻ればよい。そなたが行くだけで、牽制にはなろうよ」
「はあ……。なるほど、承知しました。ともかく私はラクイラに寄って、王子とお会いして来ればいいわけですね」
「そうなるな。まあ、面倒ごとのついでだ。あそこは水も食事も旨いし、いい国だよ。しばらく羽を伸ばしておいで」

 穏やかに細められた目は、母としてのそれでした。あまり猊下にはお似合いでない表情で、少しばかり面映く思います。
 私は苦笑して一礼し、出立の準備をすべく踵を返しました。
 そこへ、思い出したような猊下の声が追ってきて、思わず白い絨毯に蹴躓きそうになったのですが。

「ああ、そうだ。ラクイラの王子だがな。気に入ったら持ち帰ってきてもいいぞ」
「いやいやいや。それはないですよ……」
「そうか? 私としては、そうなれば面白いと思っているのだが」
「いやです。もったいぶります。私に得なことが全然ありませんよ、猊下」

 なにせ私のモットーは深謀遠慮。自分が持つ中で一番大きなカードが〈皇配〉、つまりは私の夫となる地位なのです。よくよく見極めて切らなければもったいないカードです。
 父似の私には、猊下のような美貌も神威もありません。その分だけ努力は必要ですし、努力しているつもりです。――ですがまあ、陰謀とか計略とか情報操作とかそういったものは大好きなので、割とうきうき日々を過ごしているのですが。
 くつくつと笑い、猊下は仰いました。

「土産話を楽しみにしているぞ。せいぜい派手にやってこい」

 

 

 

 そのような経緯でお見合いを受け入れたわけなのですが、一名ほど、納得しなかった人物がいました。

「なぁんですってぇッ!?」

 話を聞くなり力いっぱい放たれた叫びに、私は思わずのけぞりました。
 艶やかな栗色の髪をかきむしり、私の侍従じじゅうであるサキは見事な腹式呼吸で続けます。

「一体猊下は何をお考えですの? アヤリ様をラクイラの王子などと! 万が一の万が一、ご結婚なんてことになったら皇国にとってとんでもない損失ですわよ! それならまだ総神官長のあのくそぼんくら息子の方がましではなくて!?」

 少しばかり不穏な副詞があったような気がしますが、とりあえず脇に置いておきましょう。
 もう一人の侍従が居合わせていたら、冷ややかに油を注いで爆発させそうな勢いです。用事を頼んでおいて正解でした。
 噴火を続ける彼女をよそにのんびりお茶を淹れていると、蒸らし終わったあたりで、ようやく不敬罪に当たりかねない罵詈雑言が収まりをみせました。
 白磁のカップに紅茶を注ぎ、サキに差し出します。
 おそれいりますと一声置いて、彼女は一息に紅茶を飲み干しました。猫舌の私には真似のできないことです。

「落ち着きました? サキ」
「気が済みました。……それで、アヤリ様。ご了諾なさいましたの?」
「ええまあ。猊下のご下命ですからね」

 乱れた髪を手早く整えながら、サキはとても嫌そうな顔をしました。
 彼女は私より三歳上。なかなか迫力のある美人なので、そんな顔もさまになります。容姿からも所作からも高位神官のご令嬢らしい品位が漂いますが、それとは裏腹に、激昂しやすいところが面白い人です。
 皇国では神殿が政治を行いますので、高位神官は王国における貴族と同意です。むしろ、〈王〉というのは〈神后〉により各国へほうじられたものですから、位階として考えるなら高位神官は諸国の王に匹敵するといえるでしょう。
 まあ要するに、だから彼女の気位も、相応に高いのだということです。

「……アヤリ様がそうご判断なさったのなら、差し当たって問題はないのでしょうけれど……ああそれにしても腹立たしいっ。何様のつもりなのかしらその王子は!」
「まあまあ。休暇だと思ってのんびりしてきますよ」
「そんなことを仰って、先日の休暇を書類仕事に費やされたのはどなたですの?」
「……書類は持っていきませんよ。今度は離宮じゃありませんし」

 さすがに内政の重要書類を外に運ばせたりはしません。じっとりと見つめてくるサキに気付かない振りをして、私は紅茶に口をつけました。
 微妙な苦味に、思わず眉が寄ります。

「……やっぱり貴方に淹れてもらったほうがおいしいですね。お願いできますか?」
「あら。かしこまりました」

 嬉しそうな笑顔を見せて、サキはふわりと神官衣の裾を翻しました。
 良家のご令嬢でありながら、彼女の多才ぶりには頭が下がります。仕事の補佐やお茶だけにとどまらず、料理や洗濯などこまごましたことまで手際よくこなせる能力を持った人です。
 基本的に侍従というものは身分が高い人間が多いので、こういった雑務を行うのは更に下の女官の仕事です。ですが、近い人間が多ければ多いほど情報は漏れやすくなるもの。彼女のような何でもできる、そしてそれを厭わない侍従というのは、とても重宝する人材です。
 執務室は猊下よりお召しがある前と同じく、南方への出立の準備で雑然としています。三日後に迫った日取りを考えると、少しばかり憂鬱になりました。仕事の準備こそ片付いてはいますが、長期滞在となると必要とされるものが多くて参ります。
 茶葉の魅力を存分に引き出された香りに癒されて、私は目を伏せました。

「とりあえず、この件は内々に。下手に話を流すと、マヒト卿辺りがうるさくなりそうです」
「お捨て置きになればいいのですわ。あの無能など」

 まあ、色々と問題のある人物であるのは確かです。
 心底嫌そうに切り捨てるので、思わず笑ってしまいました。一応、あれでも皇配の筆頭候補なのですが。
 気が緩んだところに、舌足らずな声が割って入りました。

「せーか、けっこんするの?」

 ぽんと軽い音を立ててソファに飛び乗ってきたのは、年端もない少女でした。
 気配も前触れもあったものではありません。それこそ降って湧いたような出現に、サキが柳眉を逆立てました。

「ヒナ! 入るときは扉を使いなさいな!」
「やだ。いちいちめんどいもん」

 大陸最高レベルの警戒網も、この幼い凶手にかかってはそこいらの魚網と変わりません。許可を受けているヒナは進入妨害の術式に弾かれないとはいえ、毎度ことごとく裏を掻かれる衛府にも困ったものです。
 ヒナは卓の上にべったりと両腕を伸ばし、小首を傾げて私を見上げました。

「ねぇせーか。けっこんするの?」

 〈星下せいか〉とは、次期神后に対する尊称です。つまり私のことですね。
 皇国の太陽が神后ならば、その継嗣は星だというわけです。

「まだしませんよ。ちょっと仕事が長引くだけです。大人しくしていてくださいね、ヒナ」
「ふーん」

 ヒナはごろりと転がって、頬を卓にくっつけました。
 その様子はまるで気ままな野良猫です。この子は私の配下にあるわけではなく、単に居ついているだけなので、いついなくなってもおかしくはありません。
 そこもまた、サキには気に食わないようなのですが。
 卓の上で大きな伸びをしたヒナは、ふと思いついたように呟きました。

「ヒナもいこーかなぁ」
「冗談じゃありませんわ! 暗殺者崩れを同行などさせられなくてよ、分をわきまえなさい!」
「くずれてないもん。げんえきだもん」
「なおさら悪いのよ!」
「サキ。そう頭ごなしに怒らないでください」

 苦笑してなだめると、サキは目で不満を訴えてきました。子供相手に大人気ないことです。
 それにしてもめずらしい。ヒナは基本的に気まぐれですが、出不精なところがあります。こんなことを言い出すのは初めてですね。

「どうしたんですか、ヒナ。何も面白いことはありませんよ? ほとんど会議です」
「べつにー。なんとなく」

 ヒナは女官に差し出された広皿から焼き菓子をつまみ、口の中に放り込みました。
 詰め込みすぎた頬がリスのように丸くなります。
 それだけを見ればただの無邪気な子供なのですが、実体は比類なき一流の凶手です。「なんとなく」という彼女の直感は馬鹿にできません。
 随行の衛士を見直すことを頭に入れながら、私は紅茶を口に運びました。